狂気のレッスン:焦燥のメトロノーム
常盤木高校の旧校舎地下へと続く階段は、昼間でも光が届かない深い闇の底にある。放課後、午後五時のチャイムが鳴り響き、世界が紫色の霧に包まれた「逢魔街(おうまがい)」へと反転した瞬間、その闇はさらに濃く、粘り気を持ったものへと変質していた。
松本健太は、右脇に『神骨のクラシックギター』を抱え、一段ずつ湿ったコンクリートの階段を降りていた。左手首には、白石宗達から授かった『楠木の樹皮お守り』が、包帯の奥で冷たく脈打っている。お守りの発する微かな楠の香りが、死気の侵食による痛みを辛うじて和らげていたが、それでも左手の薬指は完全に感覚を失い、冷たい灰色の木片のまま動かない。
朝陽の声は、この地下のどこかに幽閉されている。
階段を降りるたびに、健太の右耳の奥で、キーンという不快な高周波の耳鳴りが鳴り響いた。前回の戦闘で低下した聴覚は、未だ回復していない。世界の音が、まるで分厚い水壁を通したかのように篭って聞こえる。暗闇の静寂は、耳の不自由な健太にとって、物理的な壁となって行く手を阻んでいた。
コツ、と健太の靴底が、階段の終端である平らな床に触れた。
その瞬間、周囲の空気の匂いが一変した。カビ臭い地下の匂いに混ざり、ツンと鼻を突く高級な木製家具のワックスの匂い、そして――「ゲラン」のきつい香水の匂いが漂ってきたのだ。
健太の心臓が、ドクンと嫌な跳ね方をした。
「この匂い……まさか」
見上げるはずのコンクリートの天井はいつの間にか消え去り、壁一面に規則正しく並んだ、吸音用のアコースティックタイルが浮かび上がっていた。二重の重厚な防音扉、部屋の隅に置かれた楽譜棚、そして中央に鎮座する、黒く輝くグランドピアノ。
そこは、学校の地下であるはずなのに、健太が幼少期に閉じ込められ、毎日十時間以上も鍵盤を叩き続けさせられた場所――『松本家・防音レッスン室』の歪んだ幻影だった。
バタン!
背後の防音扉が、誰の手も借りずに激しい音を立てて閉まり、真鍮のロックが内側から固く閉ざされた。退路は完全に断たれた。
「健太、なぜ弾かないの?」
頭上から、冷徹で、ヒステリックな母親・晴美の声が降ってきた。いや、それは本物の声ではない。この空間の歪みが生み出した、健太の記憶の残響だ。だが、その幻聴は、健太の喉を物理的に締め付け、呼吸を浅くさせるのに十分な破壊力を持っていた。
キリキリ、と真鍮のギアが擦れ合う不快な音が、レッスン室の暗がりの奥から響いた。
ピアノの傍らに置かれた、古い木製のメトロノーム。その高さは一メートルを超え、まるで細長い骸骨のように歪んで佇んでいた。表面の木肌はザラつき、鋭い針のような真鍮製の振り子が、ゆっくりと左右に揺れ始める。これが、健太のトラウマが逢魔街の死気と融合して実体化した異獣『焦燥の秒針(ヘイスティ・メトロノーム)』だった。
カチ、カチ、カチ、カチ――。
正確すぎる等時音が、静まり返ったレッスン室に響き渡った。最初は、一分間に六十拍(ラルゴ)の穏やかなテンポだった。しかし、振り子の揺れが激しくなるにつれ、テンポは急速に加速していく。
カチカチカチカチカチカチカチカチ!
一分間に百八十拍を超えるプレスト。その機械的で冷酷な音が、健太の脳波を直接ハッキングするように襲いかかった。彼の絶対音感は、その正確すぎる機械音を「完璧な規律」として認識し、拒絶することができない。
「う、あ……っ」
健太の胸元が激しく上下し始めた。心臓の鼓動が、メトロノームの速度に強制的に同調させられていく。脈拍が百二十、百五十、そして百八十へと跳ね上がる。心臓が胸壁を突き破らんばかりに暴れ、肺が物理的に収縮した。酸素がうまく吸い込めない。過呼吸の波が、健太の全身を津波のように呑み込んでいく。
「落ち着け……尺八の、息吹を……」
健太は息を吐き出そうとしたが、喉の奥がカラカラに乾き、言葉はおろか、息を漏らすことすらできない。調律中の『有声音の発声禁止令』の禁忌が、彼の喉を内側から物理的にロックしていた。一言でも叫べば、抱えている神骨ギターが爆発し、己の命が吹き飛ぶ。声を出せない苦しみが、過呼吸のパニックをさらに増幅させた。
カチカチカチカチカチカチ!
メトロノームの針が、健太の視界の中で赤く光るノイズの波形となってのたうち回る。健太の左手の指先が、急速に冷たくなり、まるで石のように硬直していく。イップスの物理化。鍵盤を前にしたときの、あの「指が動かなくなる」恐怖が、今や彼の肉体を本物の石へと変えようとしていた。
「ギターを……弾かなければ……調律、しなければ……」
健太は震える右手で、神骨ギターの指板に左手を宛がった。しかし、感覚のない薬指はダラリと垂れ下がり、他の指も痙攣したように硬直して、フレットを抑えることができない。人差し指と中指を錆びた弦に押し付け、無理やりストロークを放とうとする。
ベベン――ビビビッ。
放たれたのは、調律された美しい音色ではなかった。弦がフレットに擦れ、不快なビビリ音(ノイズ)がレッスン室に虚しく響いただけだった。正しい和音(コード)を構築できない不完全なノイズは、怪異を中和するどころか、逆にその狂乱を活性化させる燃料となってしまう。
「ギィィィィィ――ッ!」
メトロノームの針の動きがさらに加速し、空間全体の重力が倍増した。健太の肩に、目に見えない巨大な鉄の重りがのしかかる。床に這いつくばり、ギターを抱えたまま、健太は激しく咳き込んだ。視界の端が、急速に黒い霧で覆われていく。酸欠による意識の混濁。心臓は、すでに自死的な一分間二百拍のビートを刻んでいた。
「なぜ弾けないの?」「お前は失敗作だ」「完璧に弾けないなら、ここにいる価値はない」
母親の幻聴が、何重にも重なり合って耳元でハウリングを起こす。キーンという耳鳴りとメトロノームの「カチカチ」という音が、健太の脳髄を直接針で突き刺すように破壊していく。もう、指一本動かす力も残されていない。床に這いつくばった健太の手から、神骨ギターが力なく滑り落ちそうになる。
意識が、遠のいていく。このまま、暗闇のレッスン室で、完璧な機械音に心臓を破壊されて死ぬのだろうか。
その時だった。健太の首元で、衣服の隙間から覗く冷たい金属が、ドクドクと脈打つ彼の鎖骨に直接触れた。
祖父・徳次郎の形見――『真鍮製の古い音叉』。
健太は、薄れゆく意識の中で、最後の力を振り絞って右手を動かした。感覚の消えかけた指先で、首元に下げられた真鍮の冷たい塊を掴み取る。そして、渾身の力を込め、床に転がっていた神骨ギターの硬いエボニー製のヘッドストックに、音叉の先端を力任せに叩きつけた。
キィィィィィィン――!
次の瞬間、世界のすべての雑音を切り裂くような、極めて澄んだ、完璧な「基準音(四百四十ヘルツ)」の物理振動が発生した。健太は、その音叉の平らな基部を、自らの顎の骨(顎二腹筋の裏)へと、皮膚が凹むほど強く押し当てた。
骨伝導。
鼓膜を介さないその振動は、健太の頭蓋骨を直接震わせ、脳内の聴覚神経へとダイレクトに surges(サージ)した。メトロノームの「カチカチ」という狂った等時音も、母親のヒステリックな幻聴も、その純粋な四百四十ヘルツの物理的な美しさの前に、一瞬で両断された。
健太の脳波が、強制的にリセットされる。
「は、あッ……!」
閉ざされていた肺が物理的に開き、冷たい空気が健太の気管へと流れ込んだ。彼の瞳に、消えかけていた黄金色の光が再び灯る。目の前に、不気味に揺れるメトロノームの針の、完璧な「ピッチの継ぎ目(弱点)」が、色のついた光る五線譜のラインとして鮮やかに浮かび上がった。
音叉の冷たい真鍮の振動が、健太の全身の骨を伝わり、動かないはずの左手の指先へと、反撃の熱量を送り込んでいく――。
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