言葉のない約束:スケッチブックの旋律
逢魔街の紫色の霧が、潮が引くようにゆっくりと消え去っていく。
放課後の生ぬるい風が、破れた窓から旧音楽準備室の埃っぽい空気をかき混ぜた。夕暮れのチャイムが遠くで鳴り響き、現実世界の静かな夕闇が、常盤木高校の校舎を包み込んでいく。先ほどまでの、おぞましい黒いピアノ線の蜘蛛の巣も、異獣『沈黙の喉』の巨大な影も、まるで幻影だったかのようにどこにも見当たらない。ただ、床に散らばったガラスの破片と、生臭い天然の膠の匂いだけが、あの死闘が現実であったことを冷酷に証明していた。
「あ、さひ……」
健太は、床の上に横たわる瀬戸朝陽の体を、感覚を失いかけた右腕で必死にかき抱いていた。彼の左手首は、ブレザーの袖の隙間から覗く皮膚が、痛々しいほど灰色に変色している。まるで乾いた桜の樹皮のような、ザラついた冷たい質感が、彼の手首の上三センチまで斑紋となって這い上がっていた。触れても、自分の皮膚を触っている感覚がほとんどない。等価交換の代償は、すでに彼の肉体を侵食し始めていた。
腕の中で、朝陽の長い睫毛が微かに震えた。彼女は、深い眠りから覚めるようにゆっくりと瞼を持ち上げ、その澄んだ大きな瞳に健太の姿を映し出した。
「あ……」
朝陽は、健太の顔を見て安心したように微笑み、何かを言おうと小さな唇を開いた。
しかし。彼女の喉から漏れ出たのは、言葉ではなかった。
「……ッ、……」
かすれた、空気が喉の奥で虚しく擦れるような、微かな喘ぎ。声帯が物理的に存在しないかのような、不自然で無機質な静寂。朝陽は怪訝そうに自分の喉に手を当て、もう一度、力を込めて息を吐き出した。
「……っ、……あ、……」
何度試しても、結果は同じだった。彼女の美しいソプラノの歌声は、あの異獣の膨らんだ喉の奥へと吸い込まれ、完全に奪い去られていたのだ。朝陽の瞳に、急速に困惑と、言葉にできない恐怖が広がっていく。彼女の首筋には、あの透明なピアノ線が残した赤い食い込み傷が、生々しく血を滲ませていた。
「朝陽、無理に声を出すな。喉を痛める」
健太は、自分の右耳の奥で鳴り響くキーンという激しい耳鳴りに耐えながら、できるだけ穏やかな声を絞り出した。自分の声が、まるで遠い水底から響いてくるように篭って聞こえる。右耳の聴覚が、先ほどの音波の衝突によって著しく低下しているのだ。何より、自分の不完全な演奏のせいで、朝陽の声を救いきれなかったという激しい悔しさと無力感が、健太の胸を鋭く突き刺していた。
朝陽は、声が出ないという残酷な現実を前に、一瞬だけ絶望に目を見開いた。しかし、彼女は泣き叫ぶことも、健太を責めることもしなかった。ただ、深く息を吸い込み、自らの恐怖を押し殺すように小さく頷いた。
彼女は、床に転がっていた自分の通学カバンを引き寄せると、中から一冊のボロボロのスケッチブックと一本の鉛筆を取り出した。駅前の文房具店で買った、マルマン製のごく普通のスケッチブック。声を失う前、イップスで合唱部の練習についていけなくなった彼女が、自分の想いを書き留めるために使っていたものだ。
サラサラ、サラサラ。
準備室の静寂の中に、鉛筆が紙を擦る心地よい音が響く。朝陽は、少し震える手で白い紙に文字を書き連ね、それを健太の目の前に差し出した。
『私は大丈夫。健太のギター、とても優しかったよ』
下手くそな音符のイラストが添えられたその文字を見た瞬間、健太の胸の奥が締め付けられるように痛んだ。優しいわけがない。自分は、彼女を救うためにギターを限界突破して弾いた結果、彼女の声を奪われ、自分の指の感覚さえも失いかけているのだ。これは優しさなどではない。ただの、泥臭い自己満足の果ての敗北だ。
「優しくなんて……ない。俺の音が不格好だったから、お前の声を……」
健太が俯き、震える声を漏らしたその時、朝陽はスケッチブックの次のページを素早く捲り、新たな文字を書き込んだ。
『健太の手、冷たい。私のせい?』
彼女は、健太の左手首に巻かれた不自然な包帯と、その先にある灰色の指先に、そっと小さな手を重ねてきた。彼女の指先は、声を失ったショックで酷く冷え切っていたが、健太の木化しかけた皮膚にとっては、まるでお湯のように温かく感じられた。健太は、その温もりから逃れるように、咄嗟に左手を後ろへと引いて隠した。
「お前には関係ない。これは、俺が勝手にやったことだ」
頑なに心を閉ざそうとする健太の背後で、準備室の古い木製扉が「ギィ」と重い音を立てて開いた。松葉杖の不規則な「コツ、コツ」という音が、埃っぽい床に響く。
「……相変わらず、不器用なガキだな」
薄いサングラスをかけた盲目の用務員、白石宗達が、部屋に入ってきた。彼は、部屋に漂うレモンオイルの残香と、生臭い血の匂いを鼻で嗅ぎ、健太の前に立った。
「宗達さん……」
「その手を見せろ、健太」
宗達の低い、拒絶を許さない声。健太は躊躇いながらも、左腕を前に出した。宗達は、節くれ立った大きな手で健太の手首を掴み、灰色に変色した皮膚を、指先の触覚だけで慎重に撫でた。その瞬間、宗達の口元が厳しく引き結ばれた。
「……桜の樹皮だな。神骨の死気が、お前の神経の奥深くまで根を張り始めている。健太、お前は朝陽の声を救うために、神骨ギターの限界以上の音を響かせた。その等価交換の代償が、これだ」
宗達は、自らの右腕に巻かれた古い包帯を、ゆっくりと解いて見せた。健太と朝陽は、息を呑んだ。
宗達の右腕は、肘から先が完全に灰色に変質し、本物の『木の枝』と化していた。皮膚はひび割れた樹皮となり、指先は乾燥した節くれ立った木片のままで、1ミリも動く気配がない。それは、かつて彼が調律師として戦い、五感を失っていった過酷な歴史そのものだった。
「これ以上、神骨を弾けば、お前の左腕は肩まで完全に木化する。普通の高校生としての生活も、ピアノの鍵盤を叩く未来も、すべて永久に失われる。それでも、お前はこの呪われた楽器を弾き続ける覚悟があるか?」
宗達の言葉は、健太の心臓を冷たく凍りつかせた。普通の生活に戻れない。ピアノを辞めたとはいえ、母親の晴美が抱く「完璧なピアニストへの復帰」という狂信的な期待を、完全に裏切ることになる。健太は、準備室の片隅に置かれた古い丸椅子に腰掛け、感覚を失った左手で、机の上のティーカップを持ち上げようとした。
カチャ、カチャ……。
薬指と小指が力なく滑り、カップを持ち上げることすらできない。指先が、まるで他人の肉体のように冷たく重い。日常生活で箸を持つことすら、明日からは困難になるだろう。ピアノの鍵盤を叩くなど、もはや夢のまた夢だ。健太は、自らの指先の「死」を、物理的な事実として突きつけられていた。
「……そして、調律師を継ぐならば、最大の禁忌を胸に刻め」
宗達は、健太の前に一本の『銀の音叉』を差し出しながら、冷酷に語りかけた。
「【有声音の発声禁止令】だ。神骨の調律中、お前は一切の『言葉』を発してはならない。叫び声、呟き、呼吸の漏れ……一言でも有声音を口にすれば、神骨の共鳴波が内側から狂い、ギターは爆発してお前の命を奪う。どれだけ肉体が引きちぎられるように痛もうとも、お前は完全な沈黙の中で、音色だけを響かせ続けなければならない」
言葉の禁止。それは、どれだけ苦しくとも、誰にも助けを求められない孤独な戦いを意味していた。健太は、その過酷なルールを胸の奥に深く刻み込み、静かに目を閉じた。自分を縛るピアノのトラウマ、母親の叱責の声、そして完璧を求める世界の冷酷さ。それらすべてが、不完全な自分の肉体を削り取っていく。
しかし。健太が目を開けた時、目の前に一枚の白い紙が差し出された。
朝陽が、スケッチブックに力強い筆跡で、新しい文字を描き殴っていた。
『私の声を、一緒に探しに行って』
彼女は、声の出ない喉を微かに震わせ、健太の目を真っ直ぐに見つめていた。その瞳の奥には、恐怖に負けない、健気な強い意志の光が宿っていた。朝陽は、健太の灰色に染まった左手首を優しく両手で包み込み、言葉を使わずに、指先を小さく曲げて『約束』のサイン( imperfect note )を作って見せた。
その瞬間、健太の胸の奥で、冷え切っていた何かが物理的に融解した。
評価されるために弾くのではない。完璧なクラシックの楽譜に従う必要もない。ただ、目の前で声を失い、それでも自分を信じて手を握ってくれる、この少女のために。傷だらけの不格好な音色であっても、彼女の声を奪還する。そのために自分の肉体が一本の木になって消え去ろうとも、構わない。
「……ああ。約束する」
健太は、動かない左手で、朝陽のスケッチブックの端を静かに握りしめた。
その瞬間、健太の視界が、一瞬だけ黄金色の光に染まった。
彼の瞳の奥に、かつて夢の中で見たような、美しくも歪んだ『黄金の五線譜の紋様』が微かに浮かび上がる。共鳴視覚の開眼。学校の床板を透過し、旧校舎の遥か地下深く――暗く湿った『地下ボイラー室』の方向から、朝陽の青く光る声の結晶が、助けを求めるように微かに振動している波紋が、健太の脳裏に直接立体的な光のラインとして見えたのだ。
健太は、宗達から手渡された『楠木の樹皮お守り』を手首の灰色の皮膚の上にきつく巻き付け、木化を包帯の奥へと隠した。二人の、言葉のない静かな約束が、夕闇の準備室の中で、確かに結ばれた瞬間だった。
Chưa có bình luận nào. Hãy là người đầu tiên!