沈黙の喉:青く光る声の結晶
午後五時二分。現実の光を失った都立常盤木高校の廊下は、禍々しい紫色の霧――『夕暮れの逢魔街』の澱みに完全に沈んでいた。
合唱練習室の重厚な防音扉は、内側から固く閉ざされている。その表面を覆う防音壁は、まるで脈打つ生き物の肉壁のようにうねり、血管めいた黒いピアノ線が網の目のように這い回って扉を物理的、そして魔術的に封鎖していた。
「朝陽……! 朝陽、開けろ!」
松本健太は、動かない左手の薬指を不自然に庇いながら、右手だけで真鍮のドアノブを掴み、激しく揺さぶった。しかし、扉は鉄の塊のようにびくともしない。手のひらから伝わってくるのは、真鍮の冷たさではなく、心臓を直接凍りつかせるような、おぞましい不協和音の微振動だった。
防音扉の小さなガラス窓の向こう。紫の霧が立ち込める室内に、幼馴染の瀬戸朝陽の姿があった。彼女は両手で自らの喉を掻きむしり、狂ったように頭を振っている。その大きく開かれた口からは、悲鳴どころか、微かな吐息すらも漏れ出てこない。彼女の細い首筋には、鋭く光る透明なピアノ線が何重にも巻き付き、肉い肉に食い込んでいた。
ガラス越しに伝わってくる、声にならない朝陽の『沈黙の叫び』。それが健太の脳裏に、かつて自身がピアノの前で声を失った、あの暗いコンクール会場のトラウマを呼び起こす。メトロノームの「カチカチ」という幻聴が耳の奥で加速し、呼吸が浅くなる。
「……逃げない、と決めたんだ」
健太は歯を食いしばり、胸元に下げた『真鍮製の古い音叉』を強く握りしめた。金属の冷たさが、狂いかけた彼のテンポを強制的に引き戻す。肩の上で、チェリーウッドの削り屑から生まれた小さな精霊『コッパ』が、カタカタと体を震わせて健太の頬に寄り添った。ギターの乾燥状態を知らせる相棒のその温もりが、臆病風を吹き飛ばす。
健太は抱えていた『神骨のクラシックギター』のネックを握り直した。左手の薬指は第一関節から先が灰色に変色し、完全に感覚を失っている。通常のコードなど押さえられるはずもない。だが、白石宗達から叩き込まれた運指法が、彼の脳裏で光る五線譜となって展開した。
「人差し指と、中指だけで……弾く!」
健太は『尺八の息吹』の呼吸法に従い、肺の空気を極限まで吐き出した。世界の雑音が消え去り、扉を封鎖するピアノ線の『魔力結合の結束点(弱点)』が、共鳴視覚によって赤く光る波紋として浮かび上がる。
健太は右手の掌の肉厚な部分をブリッジの上に軽く乗せ、弦の響きを極限まで抑える『消音爪弾き(ミュート・ストローク)』のフォームを構えた。そして、残された二本の指で、錆びついた五弦と六弦を強く爪弾いた。
トツ、トツ、トツ――。
放たれた超低周波の消音音波が、目に見えない黄金の細い糸となって床を這い、防音扉の肉壁へと突き刺さる。健太は、肉壁を這う黒いピアノ線の振動と、自らのギターの位相を完全に上下反転させた『逆位相音波相殺法』を、瞬時に脳内で計算してぶつけた。
ピキ、ピキピキッ!
扉を覆っていたピアノ線が、逆位相の衝撃に耐えかねて悲鳴を上げ、次々と弾け飛んでいく。肉壁が緑色の体液を流して剥がれ落ち、真鍮のロックが物理的に粉砕された。
バァン!
健太は肩で扉を押し開け、合唱練習室の中へと突入した。
一歩足を踏み入れた瞬間、生臭い膠の匂いと、鼻を突くサビの臭気が健太の嗅覚を襲った。練習室はすでに元の教室の面影を失い、天井からは無数の黒いピアノ線が、蜘蛛の巣のように垂れ下がっている。
その最奥、合唱部の指揮台が置かれている場所に、そいつは佇んでいた。
巨大な、おぞましき鳥型の異獣――『沈黙の喉(サイレンス・スロート)』。
全身が錆びついたピアノ線と黒い骨格で構成され、胸部にはフルートを模した肋骨が不気味に並んでいる。そいつの喉元は、異常なほど丸く巨大に膨らんでおり、そこから無数の透明な糸が伸びて、朝陽の首を吊り上げていた。そのすぐ傍らには、合唱部のエース・羽根田莉乃が、うつろな瞳で糸に操られる人形のように立ち尽くしている。彼女の首筋には、以前健太が目撃した『莉乃の喉筋の黒い痣』が、ドス黒い五線譜となって不気味に拍動していた。莉乃の朝陽に対する激しい嫉妬が、この異獣の動力源となっているのだ。
「ギィィィィィィ――ッ!」
異獣が、人間の鼓膜を物理的に破裂させるような超高音のハミング衝撃波を放った。空間全体が歪み、重力が倍増したかのように健太の体が床へと押し付けられる。左耳の奥で、キーンという激しい金属音が鳴り響き、視界がセピア色に染まりかける。
「朝陽……!」
健太の視線の先で、異獣が朝陽の首を縛るピアノ線を一気に引き絞った。朝陽の口から、血の混じった微かな吐息が漏れる。次の瞬間、彼女の喉の奥から、まばゆいばかりのエメラルドグリーンの光が引きずり出された。
それは、朝陽の美しいソプラノの歌声そのものが霊的に実体化した――『青く光る美しい声の結晶』だった。
結晶は、夕暮れの暗闇の中で息を呑むほど美しく輝き、微かなハミングの旋律を奏でている。異獣は、その結晶を黒い嘴で掴み取ると、自らの swollenな喉元へと一気に吸い込み、飲み込んでしまった。
朝陽の瞳から光が消え、彼女の体が糸の切れた人形のように床へと崩れ落ちる。
「おのれ……!」
健太の胸の奥で、冷たい怒りが爆発した。彼は感覚のない左手薬指を無理やり弦に叩きつけ、変則的なコードを押さえた。指先が真鍮のサビ弦で切り裂かれ、赤い血が指板に滲み出す。その血を吸って、神骨ギターの裏板に埋め込まれた『白い神骨』――父・創一の肋骨が、黄金色の光を放ってドクドクと脈打ち始めた。
健太は、異獣が放ち続ける高周波の金切り声に対し、完璧な『逆位相音波相殺法』を構築すべく、ギターのチョーキングを極限まで引き上げた。一オクターブ上の、悲鳴のようなスライド音波がギターから放たれ、空中で異獣の衝撃波と激突する。
ズゥゥゥゥン!
青と赤の光る音波が激突し、周囲のコンクリートの壁に蜘蛛の巣状のひび割れが走る。一時的に、異獣の金切り声が中和され、空間に「無音の真空」が生まれた。健太はその隙に、異獣の剥き出しになった胸の核(肋骨の隙間)を直接狙い、右手の爪が削れるほどの力で強烈なストロークを放った。
しかし、異獣は冷酷に嘴を歪めた。
傍らに立つ莉乃の『黒い痣』から、ドス黒い嫉妬のエネルギーがピアノ線を通じて異獣へと逆流する。異獣は、健太の音波の周波数を瞬時に学習し、自らのハミングのピッチを僅か数ヘルツだけ変化させた。
「なっ……周波数を変えた……!?」
完璧だったはずの逆位相の数式が、根底からバグを誘発して崩壊する。中和を破られた健太の音波は霧散し、逆に異獣が放つ、空間の重力を歪める超高音のハミング衝撃波が、健太の全身を直撃した。
ドガァン!
「が、はっ……!」
健太は防音壁に背中から叩きつけられ、口から苦い体液を吐き出した。神骨ギターを必死に庇うが、その瞬間、耳元で最悪の音が響いた。
ピキ、と、乾いた、しかし健太の魂を直接引き裂くような破壊音。
神骨のクラシックギターの裏板――父の肋骨が埋め込まれたマホガニーの木目に、物理的な、新しい深いひび割れが走っていた。楽器が、異獣の圧倒的な音圧に耐えかねて悲鳴を上げていた。
「ギィィィ、ハハハハハ……!」
異獣『沈黙の喉』は、勝利を確信したように不気味な笑い声を響かせた。そして、朝陽の『声の結晶』を飲み込んだ喉をさらに大きく膨らませながら、天井のピアノ線の蜘蛛の巣の中へと溶けるようにして消え去っていく。その軌跡は、旧校舎の床下――深く暗い地下ボイラー室の方向へと繋がっていた。
世界の反転が緩やかに解け、紫色の霧が薄れていく。
崩壊した合唱練習室の床の上、健太は痛む体に鞭打って、朝陽の元へと這い寄った。
「朝陽……! 朝陽、しっかりしろ!」
朝陽を抱き起こし、その肩を揺さぶる。しかし、彼女は薄く目を開けるものの、その喉からは、呼吸の擦れる音しか聞こえてこない。彼女の細い首元には、肉に深く食い込んだピアノ線の赤い傷跡が生々しく残り、微かに血が滲んでいた。彼女の美しいソプラノの声は、完全に失われていた。
健太は、声を出せずに涙を流す朝陽を、強く、強く抱きしめた。
自分の左手首を見つめると、手袋の隙間から、灰色に変色した皮膚がさらに数ミリ上へと這い上がっているのが見えた。等価交換の代償が、彼の肉体を蝕み始めている。
「……どんな代償を支払おうとも」
健太は、動かない左手の指先を血が滲むほど強く握りしめ、暗闇の教室で無言の誓いを立てた。
「朝陽……俺が、お前の声を、必ず取り戻す」
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