放課後の歌姫:奪われたソプラノ
昨日の黄昏時、あの境界の廊下で目撃した光景が、松本健太の脳裏からどうしても離れなかった。
幼馴染の瀬戸朝陽。彼女の白く細い首筋に巻き付いていた、不気味にきらめく透明なピアノ線。一般の生徒には見えないはずの、怪異の予兆――『沈黙の喉(サイレンス・スロート)』の呪いの糸が、彼女の喉をじわじわと締め上げていた。
そして、健太自身の左手。ブレザーのポケットに突っ込んだ左手の薬指は、第一関節から先が完全に灰色に変色し、乾いた木の樹皮のような無機質な質感に変わっていた。爪を立てて強く押し込んでも、冷たい感覚しか返ってこない。
「これが、神骨を弾いた代償……」
健太は自嘲気味に呟いた。調律を行うたびに、己の肉体を薪として消費していく等価交換の呪い。ピアノを失い、今度は自分の指の感覚まで失っていく。その恐怖に足がすくみそうになるが、あの暗闇の中で声も出せずに怯えていた朝陽の顔を思い出すと、胸の奥がキリキリと引きちぎられるように痛んだ。
翌日の放課後、常盤木高校の合唱部練習室。
全国大会金賞を目指すエリート部活の練習室には、冷房の冷気とは異なる、息が詰まるほどの緊張感が充満していた。中央に立つのは、顧問の音楽教師、瀬川月華。白のブラウスに黒のタイトスカートをきっちりと着こなした彼女は、いつもは温和な表情を浮かべているはずだったが、今の彼女の瞳は異常なほど充血し、狂気的な光を宿していた。
「瀬戸さん。今のソプラノ、ピッチがわずかにフラットしているわ。もう一度、最初から」
月華が振る細い指揮棒が、空気を鋭く引き裂く。健太が『共鳴視覚』を働かせると、彼女が振る指揮棒の軌跡から、紫色の禍々しい霧が音波の波紋となって朝陽へと殺到しているのが見えた。それは完璧な調和を強要し、少しのズレも許さない精神的圧迫そのものだった。
「は、はい……!」
朝陽は喉元を細い手で抑えながら、必死に息を吸い込んだ。しかし、彼女の口から発せられた音は、かつての透き通るような美しいソプラノではなかった。砂を噛んだように掠れた、痛々しいノイズが練習室に響き渡る。
「……っ、あ、ぅ……」
声が、途切れた。朝陽は激しく咳き込み、胸を押さえてその場に膝をついた。喉が物理的に締め付けられているかのように、彼女の顔が苦痛に歪む。
「またミスね。あなたのせいで全体のハルモニアが台無しよ。完璧に歌えないなら、この合唱部にあなたの居場所はないわ。私たちは雑音を必要としていないの」
月華の冷酷な叱責が、防音完備の壁に反射して増幅し、朝陽の肩に物理的な重圧となってのしかかる。部員たちの間に、冷ややかな沈黙が流れた。その視線の中でも、合唱部の絶対的エースである2年生、羽根田莉乃の視線はひときわ暗く、冷たかった。
「朝陽ちゃん、そんな掠れた声じゃ、コンクールメンバーから外れても文句言えないよね。期待してたのに、がっかり」
莉乃の言葉の端々には、鋭い針のような嫉妬が隠されていた。朝陽が持つ圧倒的な歌の才能に対する、暗い劣等感。健太の視界には、莉乃の背後から黒いピアノ線の羽を持つカラスのような影が這い出、朝陽の首元へと繋がっているのがはっきりと見えた。莉乃の嫉妬が、怪異『沈黙の喉』を呼び寄せる栄養となっているのだ。
廊下の影からその様子を見ていた健太は、激しい目眩を覚えた。胸の奥で、メトロノームの「カチカチ」という幻聴が響く。かつてピアノのコンクールの舞台裏で、母親・晴美から浴びせられた「完璧に弾けないお前はゴミだ」という叱責。朝陽が今受けているプレッシャーは、かつて自分が音楽に潰された時の絶望と、完全に重なっていた。
部活が終わり、部員たちが立ち去る中、健太は練習室の片隅で一人、喉を押さえて俯いている朝陽に近づいた。
「朝陽……大丈夫か」
声をかけようとするが、自身のトラウマが邪魔をして、喉の奥が引きちぎられるように痛む。気の利いた言葉が何も出てこない。自分がピアノから逃げた敗北者だからだ、という自己嫌悪が健太を縛る。
朝陽は首元をスカーフで隠しながら、無理に笑顔を作って見せた。
「健太……うん、ちょっと喉が痛いだけ。大丈夫だよ」
掠れた、今にも消えそうな声。その首元で、昨日見えた透明なピアノ線が、さらに深く皮膚に食い込んでいるのを健太は見逃さなかった。彼女の「声」が、物理的に怪異に吸い取られかけている。
「朝陽、もう歌うのはやめろ。あそこは……あの部活は、何かがおかしい。お前を壊そうとしている」
「ううん、私、歌いたい。歌うのが、大好きなの。だから、完璧に歌わなきゃ……みんなに認められるために、完璧に……」
朝陽の瞳には、強迫観念に似た焦燥が宿っていた。彼女もまた、月華の完璧主義の呪いに侵食されつつある。健太は彼女の手を握ろうとしたが、自分の灰色に変色した薬指が目に入り、咄嗟に手を引っ込めた。不完全な自分が、彼女を救えるはずがないという臆病風が吹いたのだ。
そして、運命の午後五時。
下校を促すはずのチャイムが、学校中に鳴り響いた。
「キーーーン、コーーーン……」
一オクターブ低く、濁った金属音が空気を震わせる。世界から色彩が急速に失われ、紫色の冷たい霧が廊下を埋め尽くしていく。現実の校舎が、おぞましい裏の世界――『夕暮れの逢魔街』へと反転していく。
「しまっ……朝陽が、まだ練習室に……!」
健太はブレザーのポケットから神骨ギターのネックを掴み、廊下を全力で走った。左手の感覚のない薬指が、冷たい風にさらされて痛む。
合唱練習室の前に辿り着いた瞬間、健太は絶望に目を見開いた。
練習室の分厚い防音扉が、内側から完全にロックされていた。それだけではない。防音壁の表面が、まるで紫色の生々しい肉壁のようにうねり、黒いピアノ線が血管のように壁を這い回り始めている。空間そのものが、朝陽を閉じ込めるための檻へと変質していた。
「朝陽! 朝陽、開けろ!」
健太は動かない左手薬指を無視し、右手でドアノブを掴んで激しく揺さぶるが、扉はびくともしない。壁のピアノ線が不気味にきしむ音を立てる。
その時、防音扉の小さなガラス窓の向こうから、朝陽の姿が見えた。彼女は喉を両手で掻きむしり、壁にへばりついて、こちらを見つめていた。
朝陽の口が、大きく開く。彼女は健太に向かって、必死に助けを求めようとしていた。
しかし、その喉からは、悲鳴どころか、微かな吐息すらも漏れ出てこなかった。透明なピアノ線が彼女の喉を極限まで締め上げ、彼女の「美しいソプラノの声」を、光の雫として物理的に引き剥がそうとしていた。
扉の隙間から伝わってくるのは、声にならない、悲鳴さえ上げられない、絶望に満ちた朝陽の「沈黙の叫び」だった。その無音の絶叫が、防音扉の冷たい真鍮を通じて、健太の心臓を物理的に凍りつかせた。
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