Nhạc nềnEnchanter2

逢魔街のチャイムと、這い寄る黒い羽

Audio truyện
Chưa có audio. Bấm để tự tạo audio cho tập này.

「――来るぞ」


 白石宗達の松葉杖が、旧音楽準備室の古い床板を強く叩いた。その乾いた音が、静まり返った部屋に不気味に尾を引く。


 午後五時。


 常盤木高校の校内スピーカーから流れるはずの、聞き慣れた下校のチャイム。しかし、その音は奇妙に歪んでいた。


「キーーーン、コーーーン……カーーーン……」


 一オクターブ低く、まるで深い水底から響いてくるような、重く濁った金属音。空気が物理的な圧力を持って震え、窓ガラスがガタガタと悲鳴を上げる。健太の首に下がった『真鍮製の古い音叉』が、その音に激しく共振し、耳障りな高周波の警告音を立てて震え始めた。


 次の瞬間、窓の外の世界から「色彩」が急速に奪われていった。青空は濁った紫色へと反転し、校庭の緑はセピア色の影に沈む。中庭の大楠の根元から、現実の光を吸い取るような、冷たい紫色の霧が津波のように這い上がり、旧校舎の壁を這い上ってきた。壁に走るひび割れが、まるで黒い五線譜の糸のようにのたうち回り、不気味な模様を描き出す。


 現実と異界の境界線が融解する。ここはもう、都立常盤木高校ではない。紫の霧に閉ざされた裏の世界――『夕暮れの逢魔街(おうまがい)』だ。


 健太は、自分の心臓が早鐘を打つのを感じた。喉がキュッと締まり、冷たい汗が背中を伝う。かつてピアノのコンクールの舞台裏で、母親の冷徹な視線を浴びた時の、あの窒息するような恐怖が蘇りかける。


「落ち着け、健太。呼吸を乱すな。お前の肺が恐怖で縮めば、神骨はその隙を突いてお前の体温を奪い尽くす」


 宗達の声は、サングラスの奥から氷のように冷たく、しかし確かに健太の意識を現世に繋ぎ止めた。健太の肩の上で、桜の削り屑でできた妖精コッパが、カタカタと小さく震えながら、健太の頬に温かい体を擦り寄せてくる。


「コッパ……大丈夫だ。俺は、もう逃げない」


 健太は、修復を終えたばかりの『神骨のクラシックギター』を強く抱きかかえた。裏板に埋め込まれた白い「神骨」が、健太の胸板を通して、ドクン、ドクンと不気味な微振動を伝えてくる。まるで、生きた心臓がギターの内部で脈打っているかのようだった。接着したばかりの天然の膠(にかわ)の生臭い匂いと、指先に残るレモンオイルの清涼な香りが混ざり合い、健太の嗅覚を刺激する。


 その時、窓の外の霧の中から、無数の「羽ばたき」の音が聞こえてきた。


 バサバサバサバサ……。


 それは、鳥の羽ばたきではなかった。何百枚もの薄い金属板が、不規則に擦れ合うような、耳障りなノイズ。


「キィィィィ――ッ!」


 霧を切り裂いて現れたのは、カラスに似たおぞましい怪異の群れだった。しかし、その翼は黒い羽ではなく、鋭い黒色の五線譜が幾重にも重なり合った、不気味なナイフの束。テスト期間中の生徒たちが抱く、焦燥、劣等感、そして「評価されることへの恐怖」が澱みとなり、逢魔街の霧と融合して実体化した怪異――『不協和の羽(ディスコード・ウィング)』だった。


 彼らは濁った赤色に光る目を健太に向け、準備室の窓ガラスに一斉に体当たりを仕掛けてきた。バリン、と窓が割れ、紫色の霧と共に黒い影が室内に滑り込む。


「健太、神骨を構えろ!」


 宗達が叫ぶ。


「だが、決して大きな音は出すな! この逢魔街で不用意な大音量を響かせれば、街の底に眠る『夕暮れの影法師(タイト・シャドウ)』が一斉に這い上がってきて、お前の影を喰らい尽くす。完全な消音のまま、奴らの心音を調律しろ!」


「大きな音を出さずに、調律する……?」


 健太の脳裏に、Fコードすら押さえられない自分の不格好な指先が浮かぶ。完璧な演奏など、今の自分には到底不可能だ。だが、やるしかない。健太は右手の掌の肉厚な部分――ブリッジ付近の弦の根元に、そっと押し当てた。『消音爪弾き(ミュート・ストローク)』。宗達の指導で、部室の消しゴムのカスを動かす練習を繰り返した、あの感覚を思い出しながら。


「フゥ……」


 健太は『尺八の息吹』を意識し、肺の空気をゆっくりと吐き出した。胸の奥のメトロノームのノイズを意識から弾き出す。


 カラスの一羽が、鋭い五線譜の嘴を剥き出しにして、健太の顔面を狙って急降下してきた。健太は左手の人差し指と中指を、神骨ギターの錆びた低音弦に押し当てた。薬指と小指はまだ上手く動かない。だが、この二本の指だけでいい。


 右手の親指が、五弦の錆びたスチールを静かに弾いた。掌で響きを殺しながら。


 ピィィィン……。


 極限まで音量を抑えた、こもった重低音。しかし、その振動は空気中を伝わるのではなく、床板を伝って、突入してきたカラスの足元へと「這うように」伸びていった。


 健太の瞳の奥に、黄金の五線譜の紋様が微かに浮かび上がる。『共鳴視覚(ハーモニック・アイ)』。カラスが発する、赤く狂った不協和音の波形が、空間に「トゲだらけの赤い糸」として見えた。健太の放った青い消音波が、その赤いトゲの「波の山」に、完璧な逆位相で滑り込んでいく。


 シュゥゥゥ……。


 青と赤の波形が重なり合った瞬間、カラスの動きがピタリと止まった。五線譜の翼が静かに解け、カラスは悲鳴を上げることもできず、銀色の美しい砂――『共鳴砂』となって、床へとサラサラと崩れ落ちた。


「できた……!」


「油断するな! まだ百匹以上いるぞ!」


 宗達の言葉通り、割れた窓の隙間から、さらに十数羽の『不協和の羽』が、キィキィと金切り声を上げながら一斉に殺到してきた。空間全体が、カラスたちの焦燥の金切り声で満たされ、健太の鼓膜がキーンと激しく鳴り響く。方向感覚が狂いそうになる。


「くっ……!」


 健太は右手の掌の押し当て加減を、ミリ単位で調整した。押し付けすぎれば音は完全に死に、緩めれば大音量となって『夕暮れの影法師』を呼び寄せてしまう。肩の上のコッパが、健太の肌にピトッと張り付き、ギターのボディが放つ「振動のズレ」を、微かな熱のゆらぎで健太に伝えてくる。(コッパ、頼む……!)


 健太は、鎖骨にギターのネックの端を軽く押し当てた。耳がノイズで塞がれているなら、骨で聴く。健太の脳内には、祖父の音叉が刻んだ四百四十ヘルツの完璧な基準音が、静かに脈打っていた。健太は、左手の人差し指と中指を、指板の錆びた弦に物理的に叩きつけるようにして押さえた。


 ボゥ、ボゥ、ボゥ――。


 静寂の中に響く、心臓の鼓動に似た、不格好な消音のアルペジオ。それは、一般の生徒には決して聞こえない、逢魔街の底を這う「静かなる調律の嵐」だった。


 健太の放つ青い逆位相の波形が、殺到するカラスたちの赤い不協和音の網を、一本ずつ、しかし確実に絡め取り、その狂乱を解きほぐしていく。バサバサと落ちてくるカラスたちが、次々と銀色の砂へと変わっていく。準備室の床が、まるで砂時計をひっくり返したように、銀色の美しい砂で覆われていった。


 最後の一羽が砂となって消え去った瞬間、準備室の空気は、再び静寂を取り戻した。


「はぁ、はぁ、はぁ……」


 健太はギターを抱えたまま、床に膝をついた。全身から汗が噴き出し、指先が激しく震えている。


「見事だ、健太。不格好だが、お前の音は確かに奴らの狂乱を鎮めた」


 宗達がサングラスの奥から、静かな承認の声をかけた。しかし、健太は喜ぶことができなかった。左手に、異様な違和感があったのだ。


 健太はギターのネックから左手を離し、自分の手のひらを見つめた。


 動かない。


 左手の薬指が、まるで冷たい氷の彫刻にでもなってしまったかのように、自分の意志でピクリとも動かなかった。第一関節から先が、血の気を失い、不気味な灰色に変色し始めている。


「な、んだこれ……動かない……」


 健太は右手で、感覚を失った左手薬指を強く握りしめた。冷たい。まるで、乾燥した古い木材を触っているかのような、無機質な硬さだった。


「それが、神骨を奏でた等価交換の代償だ」


 宗達の松葉杖の音が、静かに響いた。


「お前が怪異を調律し、誰かを救うたびに、お前の肉体は神木の薪として消費されていく。まずは薬指、そして次は小指……最後には心臓が木化し、お前は物言わぬ木になる。それでもお前は弾くか?」


「そんな……」


 健太は、自分の指を見つめたまま、凍りついた。レモンオイルを塗れば、この侵食も簡単に防げると思っていた。自分の楽観が、あまりにも愚かだったことを知る。ピアノを失い、今度は自分の指の感覚まで、この手から失われていくのか。絶望が健太の胸を締め付ける。


「午後五時五十分だ、健太。門限(午後六時)までに現実に戻らねば、お前の全身が今すぐ木化する。ゲートを閉めろ」


 宗達に促され、健太は感覚のない左手を引きずりながら、準備室の扉へと向かった。扉を開け、現実世界へと戻るための「境界の廊下」へと足を踏み入れた、その時だった。


「――っ!?」


 健太の『共鳴視覚』が、薄暗い廊下の最奥、旧校舎へと続く闇の中に、異様な「光の歪み」を捉えた。そこには、人影があった。


 都立常盤木高校の制服を着た、小柄な少女。


「朝陽……?」


 健太の幼馴染であり、合唱部の新入部員である瀬戸朝陽が、暗闇の中で激しく体を震わせ、壁にへばりついて怯えていた。だが、何かが決定的におかしかった。


 朝陽は健太の姿を見つめながら、必死に口を開けて助けを求めようとしている。しかし、彼女の喉からは、悲鳴どころか、微かな吐息すらも漏れ出てこなかった。


 彼女の細い首筋には、一般人には見えないはずの、鋭く、透明に光る「ピアノ線の糸」が、何重にも、おぞましい蜘蛛の巣のように巻き付いていた。糸は、朝陽の喉を物理的に締め上げ、彼女の「美しいソプラノの声」を、内側から強引に吸い取ろうとするかのように、妖しく脈打っている。


「朝陽……!」


 健太が声を上げようとした瞬間、廊下の最奥の闇から、巨大な、膨らんだ喉を持つ「鳥の影」が、ゆっくりと這い出てくるのが見えた。あいつが、朝陽の声を奪おうとしている。健太は、感覚を失った左手を握りしめ、神骨ギターを強く抱き直した。

HẾT CHƯƠNG

Chưa có bình luận nào. Hãy là người đầu tiên!