最初の共鳴:レモンが香る指板
床板に転がった真鍮製のヤスリが、斜光を浴びて鈍く光っている。
「……これを、自分で直せ、だと」
健太の声は、自分でも驚くほどかすれていた。喉の奥がカラカラに乾燥し、胸の奥でまだ微かに、あの忌まわしいメトロノームの残響が「カチ、カチ」と不快な等時音を刻み続けている。ピアノの前に立つだけで肺から酸素が消え失せるあの窒息感。完璧さを求められ、点数だけで魂を査定されるあの冷酷な世界。
だが、今しがたこの神骨ギターの六弦を弾いた瞬間の、あの深く温かいノイズを含んだ残響は、確かに健太の壊れた呼吸を救ってくれたのだ。この音から離れたくない。あの息苦しい日常に逆戻りするくらいなら、目の前の不気味な老人の言葉がどれほど狂気に満ちていようとも、縋る価値はある。
健太は震える手を伸ばした。サイズの大きな制服のブレザーの袖がだらしなく揺れる。絆創膏だらけの指先で、床に落ちた重く冷たい真鍮ヤスリをしっかりと握りしめた。
「ふん。創一の小僧が、ようやく拾いよったか」
サングラスの奥にある白石宗達の見えない瞳が、健太の覚悟を射抜くように細められた。宗達は松葉杖を床にコツンと突き、旧音楽準備室の奥に吊るされた、分厚くカビ臭いベルベットのカーテンを片手で引き開けた。
「ついてこい。そこが、お前の最初の調律室だ」
カーテンの向こうには、埃を被った頑丈なマホガニー製のワークベンチ(作業台)が隠されていた。そこには、健太が見たこともない古い木工用具が整然と並んでいる。そして台の中央には、小さな電気ポットが置かれ、中からツンと鼻を突く、独特の有機的な匂いが立ち上っていた。
「これは……何の匂いだ?」
「ハイドグルー――天然の膠(にかわ)だ」
宗達はポットの中の茶褐色に濁った液体を、木製のヘラで静かにかき混ぜた。約六十度。湯気と共に広がるのは、動物の骨や皮を煮詰めた、生々しい獣の匂いだ。
「化学接着剤なんて上等な人工物は、この『神骨』には通用しねえ。木の呼吸を物理的に止めちまうからな。木と骨を一体化させるのは、かつて生きていたものの脂だけだ。鑢(やすり)で傷口を整え、そこに神木の塵を練り込んだ膠を流し込む。それが『神骨修復術式』の基本だ」
宗達は、作業着のポケットから小さな薬包紙を取り出し、ワークベンチの上に置いた。包みを開くと、中からふわりと、湿った森の匂いが漂う黄金色の木屑が現れた。
「常盤木高校の中庭にある、樹齢数百年の大楠から削り出した『神木の木屑』だ。そいつを膠に混ぜる。健太、まずはそのギターの傷口を鑢で削り、接着面を平らにしろ」
健太は頷き、神骨のクラシックギターをワークベンチの上に慎重に横たえた。トップ板(表板)を斜めに走る巨大なひび割れ。その奥から、人間の肋骨を模した白い「神骨」が不気味に露出している。健太は真鍮ヤスリを握り直し、ひび割れの縁に刃を当てた。
ギギッ、ギギギ……。
古いスプルース材を削る、乾いた音が静かな準備室に響き渡る。ヤスリから伝わる振動が、健太の指先から腕へ、そして鎖骨へと直接伝わってくる。まるで、ギターの肉体が「削られている」という痛みを、健太自身の神経が共有しているかのようだった。ヤスリを動かすたびに、細かな木粉が舞い散り、健太の指先の傷口に付着する。
削り終えた傷口に、健太は温かい膠と神木の木屑を練り合わせた特製のペーストを、ヘラを使って慎重に塗り込んでいった。木と骨の隙間が、茶褐色のペーストで埋まっていく。だが、ヘラが露出した白い神骨に直接触れた、その瞬間だった。
ドクン、とギターのボディ全体が、まるで心臓のように大きく波打った。
「うっ……!?」
突如として、ギターのサウンドホールから、凍りつくような不気味な冷気――『死気(しき)』が噴き出した。部屋の温度が急激に低下し、ワークベンチの表面に白い霜が這い回り始める。冷気は健太の右手の指先から一気に神経を逆流し、彼の腕を氷の鎖で縛り上げるように襲いかかった。
「は、っ……息が……」
指先が急速に青白く変色し、感覚が失われていく。ただの物理的な冷たさではない。脳内に直接、何千本もの錆びた弦が一度に引きちぎられるような、おぞましい金属の金切り声が幻聴となって響き渡る。メトロノームの「カチカチ」という等時音が、その金切り声と混ざり合い、健太の精神を暗闇の底へと引きずり込もうとする。過呼吸の悪夢が、再び首をもたげる。
「怯むな!」
宗達の怒声が響いた。
「そこで手を離せば、神骨の死気がお前の心臓に届き、肉体が内側から化石のように木化しちまうぞ! ベンチの上にある、鏡子のボトルを使え!」
健太は霞む視界の中で、ワークベンチの隅に置かれた小さな琥珀色のガラス瓶を見つけた。神代楽器店の店主・神代鏡子が、健太のために密かに届けてくれたという『レモン香る指板オイル』だ。
健太は左手でボトルのコルク栓を歯で引き抜き、中の黄色い液体を、凍りつきかけた右手の指先へと直接振りかけた。
シュウウ、と幻の温熱が立ち上るような感覚。
瞬間、極めて清涼で、鮮烈なレモンの香りが準備室の澱んだ空気を一瞬で切り裂いた。その香りは、動物性の膠の生臭い匂いも、神骨が放つ冷たい死気の凍える臭いも、すべてを物理的に包み込んで消滅させていく。レモンオイルのアルカリ成分と清涼な刺激が、健太の皮膚に薄い黄金の保護膜を形成し、死気の逆流をピタリと遮断した。
「あ、はっ……!」
呼吸が戻る。指先に体温が戻り、感覚が蘇った。健太は好機を逃さず、ペーストが乾く前に、ずっしりと重い『真鍮製のクランプ』をひび割れ部分に装着した。
「クランプを締めろ。一ミリずつだ。お前の呼吸と、ネジの回転を同期させろ。力任せに締めるな、木の声を聴け」
宗達の指示に従い、健太は真鍮のネジを慎重に回していった。キィ、キィと木材が圧着されていく音が響く。健太の浅い呼吸が、ネジの回転と共に、深く、静かなテンポへと整えられていく。完全にひび割れが圧着され、クランプが固定されたその瞬間、ワークベンチの上に驚くべき光景が広がった。
温かい膠と神木の木屑の熱気から、黄金色に光る微細な木屑が、まるで蛍のようにふわふわと舞い上がったのだ。木屑は空中で円を描くように集まり、やがて手のひらサイズの、桜の削り屑でできたふわふわとした小さな妖精の姿を結んだ。それは、丸い黒ビーズのような目で健太を見つめると、嬉しそうに羽ばたいて健太の肩の上にちょこんと着地した。
「……これは?」
「神木の意志が、お前の調律に共鳴して形を成した。木の屑、だから『コッパ』だ」
宗達はサングラス越しに、健太の肩の上のコッパを愛おしそうに見つめた。
「そいつはな、お前のギターが乾燥してひび割れそうになると、身振り手振りで知らせてくれる。調律師の、最初の助手だ」
コッパは健太の頬に、乾いた木の温もりがある体を擦り寄せ、カタカタと微かな音を立てた。健太の心の中に、初めて「この不完全な楽器を自分で直した」という、静かな誇りと愛着が芽生えた。
健太はワークベンチから、首に下げていた祖父の形見である『真鍮製の古い音叉』を手に取った。そして、それをワークベンチの角に軽く叩きつける。
キィィィン――。
曇りのない、完璧な四百四十ヘルツの基準音が響く。健太は振動する音叉の基部を、修復が完了した神骨ギターのヘッド部分へと直接押し当てた。
その瞬間、ギター全体が、まるで生き物のように美しく共鳴した。接着されたひび割れ部分が、神木の生命力によって一時的に琥珀色の細い光のラインとなって発光する。サビの浮いた指板が、レモンオイルを吸い込んでしっとりと濡れた黒い輝きを取り戻していく。
ボォォォン……。
それは、世界で最も不格好で、しかし世界で最も優しい、初めての正しい共鳴音だった。ピアノのような冷酷な完璧さはない。だが、木と骨が確かに一体となり、呼吸を始めた音だった。
しかし、健太がその音色の余韻に浸る間もなく、準備室の壁に掛けられた古い時計の針が、非情な音を立てて進んだ。
午後四時五十分。
突如として、健太の手の中の真鍮製音叉が、これまでにない激しさで震え始めた。耳を劈くような高周波の警告音が響き、音叉の表面が不気味に黒ずんでいく。
健太は驚いて窓の外を見上げた。夕暮れの空が、一瞬にして禍々しい、濁った紫色へと染まり始めていた。学校の中庭にそびえる大楠の周囲から、現実の光を吸い取るような、冷たい紫色の霧が立ち上り、校舎の壁を這い上がってくる。
「チ、チャイムが……鳴る」
宗達が松葉杖を強く床に突き、サングラスの奥の目を鋭く光らせた。
「午後五時のチャイムと共に、この学校の霊脈が反転する。『夕暮れの逢魔街』の門が開くぞ、健太。神骨を握りしめろ。最初の怪異が這い寄ってくる」
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