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戻らない黒鍵と、埃を被った六弦

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放課後の音楽室は、松本健太にとって「窒息室」と同義だった。


「健太、どうして弾けないの? あれほど練習したでしょう。ママを裏切る気?」


 脳裏にこびりついた母親、晴美の金切り声が、鼓膜の内側を鋭く引っ掻く。目の前には、黒々と光るグランドピアノの鍵盤が整然と並んでいた。夕暮れのオレンジ色の光が、窓硝子を通して鍵盤の上に不吉な斑点を作っている。


 健太は震える指先を、冷たい黒鍵(ファ・シャープ)へと伸ばした。しかし、指先がその漆黒の表面に触れるか触れないかの瞬間、強烈な拒絶反応が彼の肉体を襲う。


 ――カチ、カチ、カチ、カチ。


 頭の中で、かつて晴美が強制したメトロノームの音が、心臓の鼓動を狂わせる不気味なテンポで鳴り響き始める。カチカチ爺が脳髄を直接叩いているかのような、容赦のない一定の等時音。その音に同期するように、健太の肺から急速に酸素が失われていく。


「は、っ……ぁ……」


 指先が石のように硬直する。鍵盤が沈まない。戻らない。ただ一本の指を動かすことさえ、巨大な鉄の鎖で縛られているかのように重い。喉の奥が焼け付くように乾燥し、呼吸が浅く、速くなる。過呼吸だ。視界の端がチカチカと明滅し、世界から色彩が抜け落ちていく。


「おい、また松本が固まってるぞ」

「あいつ、コンクールでトチってから完全に終わったよな」

「元神童サマが、今じゃ鍵盤を触るだけで震えてやがる」


 背後から聞こえる吹奏楽部や軽音部の連中の冷ややかな囁き。その言葉のトゲが、健太の猫背をさらに丸めさせる。サイズの大きな制服のブレザーが、彼の痩せた体を惨めに包んでいた。絆創膏だらけの指先をポケットにねじ込み、健太はピアノの前から這いずるようにして逃げ出した。


 逃げなければならない。あの完璧を求める冷酷な音の世界から、誰かと比較され、点数だけで魂を査定されるあの場所から。


 健太は喧騒に満ちた新校舎を飛び出し、渡り廊下を駆け抜けた。彼が向かったのは、立ち入り禁止の看板が立てかけられた「旧校舎」だった。近代的なコンクリートの建物とは対照的に、大正時代から残る木造の校舎は、ひっそりと静まり返っている。


 軋む床板を踏みしめながら、健太は奥へ、奥へと進んだ。漂う埃の匂いと、長い年月を経て乾燥した古い木材の匂いが、彼の荒れた呼吸を少しずつ落ち着かせていく。


 突き当たりにあったのは、古びた真鍮のプレートが掲げられた扉だった。


『常盤木高校・旧音楽準備室』


 なぜか、その扉の前に立つと、脳内のメトロノームの音がかすかに減衰したような気がした。健太は吸い寄せられるように、錆びついたドアノブを回した。鍵はかかっておらず、扉は重い声を上げて開いた。


 室内は、夕暮れの斜光が埃のダンスを照らす、静寂の底だった。誰も使わなくなった古い楽譜の束や、弦の切れたバイオリン、鍵盤の戻らないリードオルガンが、まるで墓標のように並んでいる。空気の中には、古い松脂の匂いと、どこか清涼な、かすかなレモンの香りが混ざり合っていた。


 カタカタ、カタカタ。


 突然、静寂を破って小さな機械音が響いた。健太が息を呑んで足元を見下ろすと、そこには身長三十センチほどの、古びた木製の兵隊人形が立っていた。


 イギリスの衛兵のような色褪せた赤いコートを着た人形――『ウッド』だった。ウッドはゼンマイのネジを軋ませながら、カタカタと音を立てて歩き、健太のブレザーの裾を小さな木の手で引いた。


「お前……動いてるのか?」


 言葉は返ってこない。ただ、ウッドは暗い部屋の奥にある、黒ずんだマホガニー製の大きなクローゼットを指し示した。健太は戸惑いながらも、ウッドに促されるようにクローゼットの前に立ち、その重厚な扉を開け放った。


 カビ臭い暗闇の中に、それは佇んでいた。


 一本の、ボロボロのクラシックギターだった。トップ板には、まるで落雷の跡のような無数の細いひび割れが走り、指板のサビは黒ずんでいる。しかし、健太の目を最も強く惹きつけたのは、サウンドホールの隙間から覗く、ギターの内部構造だった。


 通常の木製の力木(ブレーシング)ではない。それは、どう見ても人間の肋骨を模したような、白く硬質な「骨」で補強されていた。不気味であるはずなのに、その白い骨は、夕闇の中で不思議なほど神聖な輝きを放っている。


「これは……」


 健太は吸い寄せられるように、絆創膏を剥がした右手の指先を伸ばした。錆びついた六本の弦。彼は、最も低い六弦を、震える指先で静かに弾いた。


 ――ボォン……。


 その瞬間、部屋全体の空気が物理的に震えた。


 それは、完璧に調律されたピアノの音とは対極にある音だった。少しハスキーで、木材のひび割れが擦れ合うような雑音(ノイズ)を含み、しかし同時に、信じられないほど温かく、深い振動。その振動は、ギターのネックを通じて健太の指先、腕、そして鎖骨へと直接伝わり、彼の全身の骨を優しく揺らした。


 脳内を支配していたあの「カチカチ」という不快なメトロノームの音が、アコースティックの残響に包み込まれ、霧が晴れるように消え去っていく。


「息が……できる……」


 健太は驚き、自らの胸に手を当てた。深く、冷たい空気が肺を満たしていく。評価も、点数も、母親の叱責もない。ただ、この不完全な一本の弦が放つ音色だけが、彼の傷ついた心象世界を静かに調律していくようだった。


「いい音だろう」


 背後から響いた、乾いた砂を擦り合わせるような掠れた声に、健太は肩を跳ね上げて振り返った。


 準備室の入り口に、一人の老人が立っていた。薄いサングラスをかけ、ヨレヨレの作業着を羽織った盲目の用務員――白石宗達だった。彼は古い松葉杖を傍らに立てかけ、サングラスの奥にある見えない目で、正確に健太の姿を捉えていた。


「それは『神骨のクラシックギター』だ。そいつはな、完璧な楽譜通りに弾かれることを何よりも嫌う。傷つき、歪み、それでも音を鳴らそうとする不完全な魂にしか、その真の響きを許さねえ」


 宗達はゆっくりと歩み寄ると、作業着のポケットから、ずっしりと重い真鍮製の古い鉄ヤスリを取り出した。そして、それを健太の足元の床板へと放り投げた。


 カラン、と金属音が静かな部屋に冷たく響く。


「松本創一の息子よ。お前に、そいつを自分の手で直す覚悟はあるか? 神骨の音を奏でるということは、己の肉体を等価交換の薪にするということだ。それでも、その埃を被った六弦を握るってんなら……そのヤスリを拾いな」


 宗達の冷酷な問いかけが、放課後の旧音楽準備室の静寂を、張り詰めた緊張感で満たしていった。

HẾT CHƯƠNG

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