血塗られた偽りの純白
激しい雨の予兆を孕んだ生温かい風が、帝都・鳳凰街の煉瓦通りを吹き抜けていく。夕暮れ時、ガス灯に火が灯るのとほぼ同時に、静寂を引き裂くような叫び声が響き渡った。
「号外! 号外だ! あの怪盗ルナが殺人を犯したぞ! 国立美術館の警備員二名が惨殺された!」
よれよれの制服を着た新聞売りの少年が、濡れた路面を走りながら紙片をばら撒く。鳳凰街の人々が次々と家を飛び出し、奪い合うようにしてその号外を貪り読んだ。隣の大衆食堂「よね屋」の店主であるおよねも、割烹着で手を拭いながら真っ青な顔で立ち尽くしている。
「嘘……嘘でしょう? あのルナが、人を殺すなんて……」
羽沢骨董店の薄暗い帳場の中で、羽沢麗奈はその声を聴いていた。眼鏡の奥の瞳が、絶望と激しい怒りに小刻みに震える。麗奈はそっと自分の右肩を抱きしめた。昨夜の戦いで亜脱臼した関節が、湿気を含んだ空気の中でずきずきと疼く。しかし、肉体の痛みなど、今彼女の胸を引き裂いている精神的な激痛に比べれば無に等しかった。
「不殺」の掟。――「怪盗は芸術を愛し、人を救う者。決して人を殺めてはならない」。亡き父・羽沢宗一郎が遺したその絶対の鉄則こそが、麗奈が怪盗ルナとして生きるための唯一の道徳的コンパスだった。その誇りが、今、何者かの手によって泥にまみれ、血に汚されようとしている。
麗奈は深く息を吸い、痛む身体を引きずるようにして店舗の奥へと歩み寄った。特定の古い洋書を引くと、本棚が音もなくスライドし、地下の秘密作戦室への階段が現れる。
「お姉ちゃん!」
地下に下りると、キャスケット帽を被った十四歳の助手、小林マイが血相を変えて駆け寄ってきた。作業台の上には、マイが傍受した警察無線の受信機と、すでに手に入れた号外の生々しい写真が広げられていた。
「これを見て! 新条館長が雇った『偽ルナ』の仕業だよ。殺された警備員の首元には、血に染まった予告状が残されていたって……」
麗奈は作業台に両手をつき、号外の写真を凝視した。彼女の「絶対鑑定眼」が起動する。写真に写る、血塗られた青い予告状。その文字の歪み、インクの滲み方を、麗奈の脳は瞬時に分析していった。
(……偽物だわ)
麗奈は確信を込めて呟いた。
「インクの成分が違う。これは、榊原翁が調合してくれた松脂と樟脳入りの特別な青墨じゃない。市販の安い青インクに、煤を混ぜて真似ただけ。それに、この筆跡……私の文字の癖を模倣しようとしているけれど、ストロークの終端に迷いがある。私の書く文字は、もっと一気呵成で、迷いがないわ」
「やっぱり!」とマイが悔しそうに拳を握る。「でも、世間の人たちはそんなこと気づかないよ! 新聞はルナを『凶悪な殺人鬼』として書き立てているし、警察上層部からは『発見次第射殺命令』が出されたって無線に入ってきた。お姉ちゃん、もう外を歩くことすらできないよ……」
麗奈はきつく唇を噛み締めた。新条館長と、その裏にいる闇のシンジケート「黒い砂時計」の冷酷な謀略。本物のルナを社会的に抹殺し、警察の力で合法的に「現行犯射殺」させるための完璧な罠だった。大衆の信頼は一夜にして失われ、今や帝都全体が彼女の敵となっていた。
深い孤独と絶望が、冷たい泥のように麗奈の心に這い上がってくる。その時、彼女の脳裏に、帝都中央病院の特別病棟で眠る妹・紗季の姿が浮かんだ。
病弱な紗季は、麗奈がプレゼントした「陶器の小鳥のオルゴール」を大切に抱きしめ、いつも姉の無事を祈っている。あの澄んだオルゴールの音色と、紗季の健気な笑顔。――私はまだ、死ぬわけにはいかない。父の無念を晴らし、紗季を守り抜くためにも、この偽りの純白を暴き立て、真実を証明しなければならない。
「マイ、新条の計画の裏をかくわ。でも、まずは……」
麗奈の言葉は、帝都のもう一人の天才探偵への思考へと繋がっていた。皇蓮司。彼は、この嘘を見抜いてくれるだろうか。それとも、探偵としての義務に従い、私を容疑者として追い詰めるのだろうか。
*
同じ頃、帝都の経済を支配する「皇財閥本邸」の重厚な謁見の間は、息が詰まるほどの威圧感に満ちていた。
格式高い和室の最奥。隙のない最高級の羽織袴を纏った老人――皇豪蔵が、龍の彫刻が施された脇息に肘を置き、冷酷な眼光を放っていた。その傍らには、完璧に整えられた三つ揃えのスーツを着た長男、皇雅人が傲慢な笑みを浮かべて控えている。
部屋の中央に、黒檀の歩行杖を手にした皇蓮司が静かに立っていた。彼の失明した瞳の奥にある『音響ソナー義眼』が、ジィ……と、かすかなハミング音を立てている。蓮司は「クリック音」を一つ響かせ、部屋の壁や家具、そして祖父と兄の呼吸の乱れから、その場の「悪意の密度」を聴き取っていた。
「蓮司よ」
豪蔵の声は、地底から響く地鳴りのように低く、容赦がなかった。
「怪盗ルナが警備員を惨殺した。もはやあの泥棒は、一族の脅威、帝都の害獣だ。お前がルナの捜査において、手ぬるい動きをしているという報告が届いている。盲目ゆえの無能か、あるいは……」
「おじい様」と、雅人が横から嘲笑を交えて口を挟んだ。「蓮司はあの怪盗に惑わされているのですよ。だからこそ、公式の捜査権を私の方で制限しておいて正解でした。警察上層部にはすでに手を回し、ルナに対して『発見次第射殺』の命令を徹底させました。探偵ごっこの時間は終わりです」
雅人の声の倍音に含まれる、嫉妬と優越感の混ざった不快な振動。蓮司はそれを冷徹に分析しながらも、表情一つ変えなかった。だが、彼の胸の奥では、激しい葛藤が渦巻いていた。ルナが人を殺すはずがない。彼が至近距離で聴き取った彼女の呼吸音、手首の細さ、そしてあの純粋な心音の波形は、殺戮者のものでは決してなかった。
「蓮司」
豪蔵が、純金の印章を乱暴に机に叩きつけた。鈍い金属音が響き渡る。
「これがお前に与える最後の猶予だ。一ヶ月だ。一ヶ月以内に、お前のその手で怪盗ルナを逮捕してみせろ。できなければ、お前の探偵事務所は即座に閉鎖し、皇家の地下の檻に一生幽閉する。一族の恥晒しとしてな」
「……承知いたしました」
蓮司は静かに頭を下げ、仕込み杖を手に踵を返した。彼の背後に、雅人の「号外差し止め権」を誇示する冷笑が追いかけてくる。一ヶ月の猶予。それは、探偵としての彼の自由と名誉、そしてルナの命を天秤にかけた、過酷なカウントダウンの始まりだった。
*
夜が更けるにつれ、帝都は激しい豪雨に見舞われた。天を裂くような雷鳴が響き、大粒の雨が煉瓦の街並みを白く煙らせていく。
鳳凰街の裏路地。黒い防寒マントを羽織った麗奈は、激しい雨に打たれながら、壁の影に身を潜めていた。大通りには、警察の黒い馬車と、銃を構えた警官たちが慌ただしく行き交っている。街の隅々にまで「ルナ発見即射殺」の命令が行き届き、包囲網は一分の隙もなく狭まっていた。
右肩の怪我が熱を持ち、全身が激しい寒気と微熱に侵されていく。紗季のいる病院へ行くことも、骨董店に戻ることもできない。帝都のすべてが彼女の敵となり、逃げ場は完全に失われていた。
(それでも……私は、父の美学を汚させはしない)
麗奈は濡れた黒髪をかき上げ、雨水に濡れたガラスの仮面を強く握りしめた。彼女は覚悟を決めた。この状況で逃げ回るだけでは、真実の光は届かない。あえて、最も目立つ場所へ。探偵が自分を見つけ出すための、唯一の座標へ。
麗奈は痛む身体を鼓舞し、濁流のような雨の中を走り出した。目指すは、帝都で最も天に近い場所――ゴシック様式の尖塔が闇にそびえ立つ、「帝都大聖堂の鐘楼」だった。
冷たい雨が彼女の純白の意思を叩き、夜の闇がその影を飲み込んでいく。運命の歯車は、激しい豪雨の音と共に、引き返せない死線へと加速し始めていた。
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