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漆黒の仕込み杖

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「昨夜、バラの香りがする美しい怪盗に触れましてね」


 皇蓮司が囁いたその言葉は、冷たい氷の刃となって羽沢麗奈の鼓膜を突き刺した。彼の視線のないはずの、しかしすべてを見透かすような鈍いブルーの瞳が、至近距離で麗奈の顔を捉えている。彼の右目の奥に仕込まれた『音響ソナー義眼』が、ジィ……と、かすかなハミング音を立てていた。空間の微細な振動を捉えるその義眼は、麗奈の表情の凍りつきを冷徹に監視している。


 麗奈は必死に『呼吸の同調(ブレス・シンクロ)』を維持していた。自分の呼吸を蓮司のゆっくりとした心拍に同期させ、音響的な死角に潜り込む。しかし、首筋に触れる彼の指先が、彼女の皮膚の微小な温度低下を、嘘の証拠として確実に読み取っていた。


「……皇様、お戯れを。私はただのしがない骨董店主。怪盗などという大層な悪党とは、縁もゆかりもございませんわ」


 麗奈は努めて穏やかな、少し怯えたような声を絞り出した。足元では、蓮司の警備犬であるハチが、ちぎれんばかりに尻尾を振って麗奈の着物の裾に身体を擦り寄せている。ハチの鼻は、昨夜大歯車室に立ち込めたあの「バラの残り香」を完全に覚えていた。動物の無邪気な直感こそが、麗奈の完璧な仮面を剥ぎ取る最大の伏線となっていた。


「ハチは嘘をつけない」


 蓮司は湯呑みを静かに置き、長くて白い指先を麗奈の手首へと近づけた。その時、張り詰めた沈黙を破り、骨董店の格子戸が凄まじい音を立てて蹴破られた。


「おい、羽沢の小娘! いるのは分かってんだよ!」


 乱入してきたのは、だらしなく外套を羽織ったいかつい男たちだった。先頭に立つのは、顔に大きな刀傷を持つ男――鳳凰街の暴力団鮫島組の組長、鮫島伝次。その後ろには、鉄パイプや日本刀を手にしたならず者たちが四名、殺気を放ちながら店内に雪崩れ込んできた。


 彼らは悪徳美術ブローカー、石原茂雄に雇われた刺客だった。狙いはただ一つ。麗奈の父・宗一郎が遺した、シンジケートの密輸を証明する貴重な「鑑定書」の強奪である。


「鮫島様……! 何の御用ですか、店の商品を壊さないでください!」


 麗奈はハチをかばうように前に出た。だが、ならず者の一人がニヤニヤと下品な笑みを浮かべ、店内の棚に並んでいた伊万里焼の皿を乱暴に叩き割った。陶器が砕け散る乾いた音が店内に響き渡る。麗奈は突き飛ばされ、よろめいた。その瞬間、右肩の伸びきった靭帯に凄まじい激痛が走り、彼女の視界が白く染まる。右腕が完全に機能停止している。怪盗としての技術を使う余裕すら、この激痛は奪い去っていた。


「用のない目潰し野郎は引っ込んでな!」


 ならず者の一人が、椅子に座ったままの蓮司を嘲笑し、鉄パイプを振り上げた。麗奈を背後に押しやり、暴力の嵐が吹き荒れようとしたその刹那、蓮司が静かに立ち上がった。


「――私の店ではないが、美しい芸術品を乱暴に扱うのは感心しないな」


 蓮司の声は、驚くほど静かで、冷徹だった。彼は右手に持っていた黒檀の歩行杖――『漆黒の仕込み杖』の持ち手を、特定の角度でカチリと捻った。引き抜かれた杖の内部から、研ぎ澄まされた鋼鉄製のロッドが音もなく露出する。


「あぁ? 盲目の分際で、何が仕込み杖だ! ぶち殺してやる!」


 一人の男が日本刀を大振りに振り下ろした。だが、蓮司は動かない。彼の耳は、刃が空気を切り裂く微細な風切り音――『皇流杖術・合気気配察知』の領域で、相手の殺気の軌道を完璧に捉えていた。目が見えないはずの彼は、刃が自身の髪をかすめる寸前、最小限の動きで身体をわずかに逸らした。


「なっ――!?」


 男が驚愕する間もなく、蓮司は仕込み杖の先端で男の手首の関節を正確に打突した。骨が軋む鈍い音が響き、日本刀が床に転がる。蓮司は相手の突進する力を利用し、合気の極意をもって男の身体を大理石の床へと叩き伏せた。一撃。男は声を上げることもできず悶絶した。


「この野郎!」


 背後から同時に二人の男が鉄パイプを振りかざして襲いかかる。蓮司は仕込み杖の先で床を「コツン」と一打した。その反響音――『音響ソナー立体マッピング』が、狭い店内での男たちの足音、衣服の擦れる音、そして呼吸の位置を、彼の脳内に精密な三次元マップとして瞬時に描き出した。


 蓮司は半歩下がり、死角から迫る男の喉元へ、仕込み杖の鋭い突きを放った。正確無比な『盲打(ブラインド・ストライク)』。喉を潰された男が崩れ落ちると同時に、蓮司はもう一人の男の鉄パイプを仕込み杖で受け流し、相手の顎を下から鋭く打ち抜いた。脳震盪を起こした男が、白目を剥いて展示棚をなぎ倒しながら倒れ込む。


 凄まじい戦闘力。麗奈は、蓮司の背中で息を呑んだ。盲目の探偵だと思っていた男が、これほどまでに圧倒的で、美しく、そして冷酷な「強さ」を秘めていたとは。彼の背中越しに伝わる、かすかな体温と、守られているという事実。麗奈の胸の奥で、怪盗としての警戒心を遥かに超える、激しい感情の鼓動が跳ね上がった。


「ひ、怯むな! 仕留めろ!」


 鮫島伝次が顔を引き攣らせ、懐から拳銃を引き抜いた。金属の冷たい摩擦音。鮫島が引き金に指をかけ、筋肉を緊張させるその「音」を、蓮司の超聴覚は逃さなかった。発砲のコンマ一秒前、蓮司は仕込み杖を槍のように突き出し、鮫島の手首を正確に撃ち抜いた。


 バキリ、と手首の骨が砕ける音と共に、拳銃が宙を舞い、床に転がった。鮫島は悲鳴を上げてその場に崩れ落ちる。ならず者五名は、わずか数十秒の間に、音もなく完璧に制圧されていた。


 静寂が店内に戻る。割れた皿の破片が、ガス灯の光を反射してきらきらと輝いていた。


「……怪我はないかい、羽沢さん」


 蓮司は仕込み杖を静かに鞘へと収め、麗奈の方へと振り返った。その声は、先ほどの冷徹な殺人鬼のような響きから、いつもの穏やかな探偵紳士のものへと戻っていた。


「え、ええ……。助けていただき、ありがとうございます、皇様……」


 麗奈は激しく波打つ心音を必死に抑えようとしたが、今回はブレス・シンクロを使う余裕すらなかった。彼女の「絶対鑑定眼」が、崩れ落ちた鮫島の外套のポケットから、滑り落ちた一枚の古い和紙の紙片を捉えた。


(……あれは、何?)


 紙片は半分折られていたが、その端に滲む青いインクの特徴。それこそが、第1話で石原が持ってきた偽鑑定書と同じ、シンジケートが使用する特殊な「青墨」の滲みだった。麗奈の天賦の才が、その紙片の裏に隠された、新条九郎館長とシンジケート「黒い砂時計」を繋ぐ極秘の暗号文を瞬時に見抜いた。


 その暗号は、新条館長がルナを陥れるために、ある「血塗られた計画」を裏で進めていることを示していた。日常の平穏を脅かす暴力の嵐は去ったが、二人の目の前には、さらに深い闇の深淵が口を開けて待ち受けていた。

HẾT CHƯƠNG

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