沈黙のブレス・シンクロ
「お父様、行かないで……!」
闇の底から絞り出すような悲鳴と共に、羽沢麗奈は跳ね起きるようにして目を開けた。額からは嫌な汗が流れ落ち、呼吸は浅く激しく乱れている。視界が不自然に歪み、天井の煤けた木目が、まるで蠢く蛇のように見えた。
「お姉ちゃん! 大丈夫!?」
枕元に控えていた小林マイが、濡らした手拭いで麗奈の額を優しく拭う。十四歳の少女の顔は、不安と疲労に強張っていた。
「マイ……私、また……」
「うん。お父様の悪夢を見てたの。うなされて、ずっとお父様の名前を呼んでた」
麗奈は上体を起こそうとしたが、その瞬間、右肩に走った凄まじい激痛に息が詰まった。昨夜、国立美術館の最上階から脱出する際、着地の衝撃で引き起こした右肩の亜脱臼。マイの手によって応急処置として関節は嵌め直されたものの、靭帯は伸びきり、少しでも動かせば鋭い刃物で抉られるような痛みが走る。さらに、耳の奥では未だにキーンという不快な金属音が微かに残響していた。
「無理しちゃダメだよ。昨夜盗み出した『嘆きの首飾り』の裏面……お姉ちゃんの読み通り、皮膚から吸収される特殊な幻覚毒が塗られていたの。ほんの微量を吸い込んだだけでも、こうして高熱と悪夢に襲われる。お父様の手帳に解除法が書いてなかったら、本当に危なかったんだから」
マイが指し示した作業台の上には、厳重に鉛のケースに収められたブルーサファイアの首飾りが、静かに、しかし妖しく冷たい光を放っていた。麗奈の「絶対鑑定眼」が、それが本物のレガリアであることを無言で証明している。
「……ごめんなさい、マイ。心配をかけたわね。でも、もう大丈夫。熱は引いたわ」
麗奈は痛む右腕をそっと庇いながら、地味な木綿の着物に袖を通し、上から割烹着を身に纏った。丸眼鏡をかけ、長い黒髪を後ろで一つに結ぶ。鏡の中に映るのは、帝都を騒がせる美しき怪盗「ルナ」の面影など微塵もない、鳳凰街の寂れた「羽沢骨董店」の大人しい店主・羽沢麗奈の姿だった。
「お姉ちゃん、本当に店を開けるの? まだ肩だって……」
「怪盗ルナが美術品を盗んだ翌日に、骨董店が臨時休業なんて不自然でしょう。あの盲目の探偵、皇蓮司は……絶対に私の『呼吸』と『匂い』を記録している。日常のなかに潜む綻びこそが、奴の最大の武器よ。だからこそ、私は完璧に『羽沢麗奈』を演じなければならないの」
麗奈は痛む右腕を帯の間に挟み込んで固定し、不自然な動きを見せないよう細心の注意を払いながら、一階の店舗へと階段を下りていった。
午後。埃っぽい骨董店の店内に、格子戸から斜めの斜光が差し込み、宙に舞う微細な塵を金色に照らし出していた。古い真鍮の柱時計がコチコチと規則正しい音を刻み、古い木箱や陶器の匂いが立ち込める静寂。麗奈は左手だけで静かに帳簿を整理していた。
その静寂を破り、入り口の真鍮の呼び鈴が、チリンと涼やかな音を立てた。
「ごめんください」
低く、どこか心地よい、しかし麗奈の背筋を一瞬にして凍りつかせる声が響いた。格子戸をくぐって入ってきたのは、仕立ての良いダークグレーの外套を纏った青年――皇蓮司だった。その右手には、黒檀で作られた頑丈な歩行杖が握られている。そして彼の足元には、賢しげな瞳をした大型の警備犬、ハチが静かに従っていた。
麗奈の心臓が、ドクンと激しく跳ね上がった。昨夜、暗闇のキャットウォークで自分を極限まで追い詰め、その首筋に直接触れて脈動を数えた男が、今、目の前に立っている。
「いらっしゃいませ。……おや、皇様。今日はいかがなさいましたか?」
麗奈は努めて穏やかな、少し内気な下町の娘の声を装った。だが、蓮司は返答する前に、微かにその端正な顔を傾けた。彼の失明した瞳の奥にある『音響ソナー義眼』が、ジィ……と、常人には聞こえない極微弱なハミング音を立てている。彼は、麗奈の声のトーン、そして店内の音の反響を、その超聴覚で冷徹に分析していた。
「少し、気になる骨董品がありましてね。羽沢さん、昨夜はよく眠れましたか?」
「ええ、おかげさまで。下町の夜は静かですから」
「それは重畳。昨夜の帝都国立美術館は、怪盗ルナの出現でずいぶんと騒がしかったようですが……ここまではその騒音も届かなかったようだ」
蓮司は杖をコツンと床に当てながら、ゆっくりとカウンターへ近づいてくる。その一歩一歩の歩幅、衣服が擦れる音。麗奈は自身の右肩の激痛を隠すため、全身の筋肉を硬直させていた。
「まあ、大変でしたのね。お茶でも淹れますわ。どうぞ、そちらの椅子にお掛けください」
麗奈は左手だけで茶釜から湯を汲み、急須へと注ごうとした。しかし、湯呑みにお茶を注ぐ際、不意に身体の重心が右へと傾き、伸びきった右肩の靭帯に激痛が走った。
指先が微かに震え、茶器がカタカタと乾いた音を立てる。
蓮司の耳が、ピクリと動いた。
「おや、羽沢さん。お茶を淹れる手の動きが、少しぎこちない。……肩をお怪我でもされたのですか?」
麗奈の背中に冷たい汗が伝う。奴は、衣擦れの音の僅かな左右の不均等さと、陶器の震え音だけで、私の右肩の異常を見抜いたのだ。
「……ええ、お恥ずかしい話ですが。昨日、奥の蔵から重い桐箱を運び出そうとした際に、少し右肩を痛めてしまいまして。お見苦しいところをお見せしました」
「なるほど、力仕事ですか。骨董店の店主も楽ではない。……しかし、その割には、衣服の擦れる音が昨夜私が聴いた『ある人物』の身のこなしに酷似しているように思えるのですが」
蓮司の言葉に、麗奈は息を呑みそうになる。その時、彼の足元にいたハチが、クンクンと鼻を鳴らしながら麗奈の足元へと歩み寄ってきた。ハチは麗奈の着物の裾に鼻を押し付け、執拗に匂いを嗅ぎ始める。
そして次の瞬間、ハチは嬉しそうに喉を鳴らし、ちぎれんばかりに尻尾を振って麗奈の足元に身体を擦り寄せた。完全に、懐いている挙動だった。探偵事務所の厳格な警備犬が、初めて会うはずの骨董店の娘に対して見せるはずのない、絶対的な信頼の反応。
ハチは覚えているのだ。昨夜、大歯車室に立ち込めた、あの濃密な「バラの残り香」を。そして、目の前の少女の身体から漂う、衣服の繊維に染み付いた微かな同一の香気を。
蓮司の口元に、微かな、しかし決定的な笑みが浮かんだ。彼の視線のない瞳が、じっと麗奈の顔へと向けられる。
「ハチは、滅多に他人に懐かない犬なのですがね。どうやら、君から漂う『バラの香り』が、彼にとって非常に親しい記憶を呼び起こしたらしい」
逃げ場のない包囲網。麗奈の心拍数が急激に上昇し、1分間に100回を越えようとしていた。この激しい心音は、蓮司の超聴覚プロファイリングによって即座に「嘘と動揺」の証拠として記録されてしまう。
(このままでは……聴き取られる。私の心音が、ルナのそれと同じだと確信されてしまう!)
麗奈は奥歯を噛み締め、秘技『呼吸の同調(ブレス・シンクロ)』を起動した。
スゥ……ハァ……。
彼女は自身の肺活量を極限まで制御し、目の前に立つ皇蓮司の微かな呼吸音、そして彼の衣服の下で脈打つゆっくりとした心音の周期を、耳と皮膚の感覚で捉えた。そして、自身の吸気と呼気のタイミングを、蓮司の心拍の「ブラインドスポット」へと完璧に同期させていく。
蓮司の耳にとって、麗奈の心音は彼自身の心拍の音と同化し、一時的に「消滅」したかのような錯覚を引き起こした。彼の聴覚プロファイリングが、急激にノイズで満たされる。
「……おや」
蓮司が微かに眉をひそめた。彼の耳から、麗奈の動揺を示す心音が完全に消失したのだ。目の前にいるはずの少女の存在感が、音響的にふっと消え去ったかのような奇妙な感覚。これが、怪盗ルナが探偵を欺くための究極の防御ロジックだった。
「皇様、お茶が冷めてしまいますわ。どうぞ」
麗奈は完璧に同期された呼吸を保ちながら、穏やかな笑みを浮かべて湯呑みを差し出した。蓮司はその湯呑みを受け取ろうと手を伸ばしたが、彼の長い指先が、麗奈の差し出した指先に微かに触れた。
指先から伝わる、極限まで張り詰めた皮膚の微振動。嘘の脈動は隠せても、肉体の緊張までは完全には消し去れない。
その時、ガラリと格子戸が勢いよく開いた。
「麗奈ちゃん! よね屋特製の肉じゃが、余ったから持ってきてあげたよ……って、おやまあ!」
割烹着姿の食堂店主、およねが、湯気の立つ重箱を手に威勢よく入ってきた。およねはカウンターの前に立つ蓮司の端正な姿を見るなり、その目を丸くした。
「なんだいなんだい、こんな男前のお客さんが来てるなんて聞いてないよ! 麗奈ちゃん、もしかして、いい仲なのかい?」
「お、およねさん! 違います、こちらはお客様で……」
およねの下町らしいお節介なからかいが、店内の張り詰めていた氷のような緊張感を一瞬にして吹き飛ばした。麗奈はブレス・シンクロを維持しながらも、頬が微かに赤らむのを止められなかった。
「はいはい、お邪魔虫は退散するよ。お二人で仲良く食べなさいな!」
およねは重箱をポンと置くと、にやにやと笑いながら嵐のように去っていった。再び訪れる静寂。しかし、その空気は先ほどよりも密度を増していた。
蓮司は差し出されたお茶を静かに口に含み、その喉が動く音だけが店内に響く。彼は湯呑みを置くと、ゆっくりと麗奈の方へと身体を傾けた。
彼の視線のない美しい瞳が、麗奈の厚い眼鏡の奥の瞳を、じっと見つめるように真っ直ぐに向けられる。
「昨夜、バラの香りがする美しい怪盗に触れましてね」
蓮司は、囁くような低い声で語りかけた。
「彼女の首筋に触れた時、私の指先は、今君が淹れてくれたお茶の温もりと……全く同じ温度を感じた。そして、彼女の喘ぐ呼吸の周波数は、私の脳に完璧に記録されている。――羽沢さん、君はどう思う?」
麗奈の喉元が、微かに引き攣った。完璧に同期させた呼吸の裏側で、極限のサスペンスが彼女の魂を揺さぶっていた。探偵の鋭い牙は、すでに彼女の仮面のすぐ後ろまで迫っている。日常の平穏を装う骨董店の中で、二人の沈黙のブレス・シンクロは、静かに、しかし命がけの火花を散らし始めていた。
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