闇の中のファーストタッチ
「二人の距離は、おお互いの熱い吐息が仮面を濡らすほどの至近距離まで狭まり、重なり合っていた」
ゴォン、ゴォン、ゴォン――。
大歯車室の真鍮の巨獣たちが、容赦なく時を刻む金属音を響かせる中、私の左手首を掴む皇蓮司の掌は、恐ろしいほどに熱く、そして強固だった。
「……捕まえたぞ、怪盗ルナ」
耳元で囁かれた低い声。それは探偵としての冷徹な勝利の宣言であり、同時に、私の魂の奥底を震わせる宿命の響きを帯びていた。
「離して……探偵さん」
私は仮面の下で、掠れた声を絞り出す。
右肩の亜脱臼による激痛が、鋭い氷の針となって全身の神経を暴れ回っていた。右腕は完全に感覚を失い、冷たい鉄骨の脇に力なく垂れ下がっている。さらに、地下金庫室で浴びた高周波トラップの残響が、未だに私の脳髄をかきむしり、内耳から滲み出た微量の血液が頬を伝って仮面の縁を濡らしていた。
視界は二重三重にブレ、平衡感覚はとうに失われている。顔に装着した『ノイズキャンセラー・モノクル』の作動限界時間は、残りわずか三分。このまま彼に囚われ続ければ、私は肉体的な限界を迎え、この場に崩れ落ちるだろう。
しかし、皇蓮司は私を逃がすつもりなど毛頭なかった。
「逃がさないと言ったはずだ。君の動き、君の呼吸、そのすべてが私の耳にはっきりと記録されている」
蓮司はキャットウォークの隙間に深く突き刺した仕込み杖を支柱にしながら、強靭な腕力で私の身体を引き上げた。奈落の歯車の上、わずか数十センチの幅しかない錆びたキャットウォークの上へと、私の身体が引き寄せられる。
どさりと、互いの身体が密着した。
純白の燕尾服の胸元が、彼の黒いタキシードと重なり合う。その至近距離で、彼の右目の奥に仕込まれた『音響ソナー義眼』が、暗闇の中で鈍いブルーの光を放ちながら、ジィ、と微弱なハミング音を立てていた。目が見えないはずの彼の顔が、私の『ガラスの仮面』の目の前にある。
「……!」
息が止まる。
蓮司の左手が、私の手首から離れ、ゆっくりと私の頬へと伸びてきた。その指先が、光学反射ガラスで作られた極薄の仮面の表面に触れる。冷たいガラスの感触をなぞるように、彼の指先が滑る。それは、芸術品を鑑定する鑑定士の指先であり、同時に、容疑者の嘘を冷徹に暴き出す探偵の指先だった。
「微表情の触覚読解」――脳神経の異常発達がもたらした、彼の恐るべき秘技。
彼の指先が、仮面の縁を越え、私の剥き出しの顎のラインへと滑り落ちた。そして、そのまま私の細い首筋へと触れる。
ドクン、ドクン、ドクン――。
彼の指先が触れた瞬間、私の皮膚の下を流れる血管が、狂ったように激しく脈動した。
「……やはり、君か」
蓮司の指先が、微かに強張った。
首筋に触れる彼の指先を通じて、私の体温の微小な変化、血管の脈動、そして極限状態の緊張が、彼の脳へとダイレクトに伝わっていく。
「この手首の細さ、この肌の温もり……そして、この激しく乱れる心音の刻み方。私は、この波形をよく知っている。鳳凰街の、あの埃っぽい骨董店で、お茶を淹れてくれた少女のそれと……完全に一致する」
「……何を、言っているの……」
私は必死に声を平坦に保とうとした。だが、彼に首筋を掴まれている以上、声帯の微細な震えすらも嘘の証拠として聴き取られてしまう。
「とぼけても無駄だ。君の衣服から漂う、この微かなバラの香り……。榊原翁が調合した、あの特別な香水の成分だね。君がいくら仮面で顔を隠そうとも、魂の呼吸までは隠せない」
蓮司の鋭い耳が、私の顔のすぐ近くで、私の呼吸音を聴き取っていた。
スー、ハー……。
私の肺が酸素を求めて喘ぐ、その微細な呼吸の癖、周波数。それは世界に二人といない、私だけの「呼吸の署名」だった。蓮司の脳内にあるデータベースに、私の身体的データが完璧に記録されていく。
(このままでは……本当に、すべてを奪われてしまう……!)
正体が完全に暴かれる。それは、怪盗ルナの終わりを意味するだけでなく、病室で眠る妹・紗季の命綱をシンジケートに握られ、父の無念を永久に闇に葬り去ることを意味していた。
右肩の激痛で意識が遠のきかける中、私は残された左手を、燕尾服の内ポケットへと滑らせた。
指先が触れたのは、真鍮製のアンティークなボトル。
『煙幕入り香水ボトル』。
からくり人形師・堀田勘兵衛が設計した、私の最後の切り札。
「探偵さん……。あなたの耳は、確かに素晴らしいわ」
私は、仮面の下で微かに微笑んだ。
「でも……鋭すぎる五感は、時に最大の弱点になるのよ」
「何……?」
蓮司が眉をひそめた瞬間、私は左手の親指で、ボトルの真鍮製のノズルを力強く押し下げた。
からくりゼンマイが解放され、プシューッという凄まじい音と共に、濃密なバラの香りの白い煙幕が一瞬にして周囲に散布された。
「くっ……!?」
至近距離でその濃霧を浴びた蓮司が、激しく咳き込んだ。
彼の常人の数十倍に研ぎ澄まされた嗅覚が、一瞬にして濃厚すぎるバラの香気によって完全に飽和させられたのだ。嗅覚の過負荷(オーバーロード)は、彼の脳の感覚処理に強烈なエラーを引き起こす。
エコーロケーションを支えていた彼の超感覚が、バラの煙幕によって一時的な「ブラックアウト」を起こした。
「あ、ああ……!」
蓮司の手が、私の手首と首筋から物理的に緩む。
その一瞬の隙を、私は見逃さなかった。
「……さようなら、盲目の探偵さん」
私は左手で、腰の『超硬質ワイヤーウォッチ』の予備トリガーを操作した。右肩の激痛が脳を焼き尽くしそうになるが、歯を食いしばって耐える。
シュッ!
チタン合金製のワイヤーが、キャットウォークの床下にある、大正時代の旧地下鉄連絡路へと続く錆びたハッチの隙間へと滑り込んでいく。
私は蓮司の身体を軽く押し戻し、自らの身体を暗黒の奈落へと投げ出した。
「ルナ……!」
背後で、煙幕に巻かれた蓮司の声が響く。だが、その声はすでに遠い。
私はワイヤーの巻き上げを利用し、暗闇の縦穴を滑り落ち、新条の警備網が届かない「帝都旧地下鉄・放棄された連絡路」の湿った冷気の中へと着地した。
「はぁ、はぁ、はぁ……!」
冷たいコンクリートの床に倒れ込み、私は懐の『嘆きの首飾り』を強く握りしめた。本物は、ここにある。
だが、私の右肩はだらりと垂れ下がり、耳からは絶え間なく血が滲んでいた。そして何より、私の呼吸音、肌の温もり、そのすべてを、あの探偵に奪われてしまった。
大歯車室のキャットウォークの上。
立ち込める白い煙幕は、ゆっくりと換気扇の風に流されて消えていく。
蓮司は仕込み杖を突き、静かに佇んでいた。彼の指先には、まだ彼女の首筋の柔らかな温もりと、激しい脈動の残像が残っている。
そして彼の脳裏には、彼女の「呼吸の周波数」が、消えない旋律のように深く、完璧に焼き付けられていた。
「……羽沢、麗奈」
蓮司は、誰もいない暗闇に向かって、その名を小さく呟いた。
彼の視線のない瞳の奥で、ブルーの光が静かに揺れる。
彼の唇に、不敵な、そしてどこか哀しげな微笑が浮かんだ。
「私の指先から、君はもう逃れられない。……必ず、見つけ出してみせる」
怪盗の手から零れ落ちたバラの残り香だけが、真鍮の歯車の回転に巻き込まれ、闇の中へと消えていった。
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