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音の檻と這い寄る影

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皇蓮司の白い手袋に包まれた指先が、私の剥き出しの手首へと伸びる。その距離、わずか数センチ。


 彼の指先が私の肌に一度でも触れれば、その異常なまでの超触覚によって、私の体温、そして「呼吸の同調(ブレス・シンクロ)」の裏に隠された真実の脈拍がすべて暴かれてしまう。それは、怪盗ルナとしての正体がこの場で剥ぎ取られることを意味していた。


(……しまっ――)


 逃げ場のない社交界の光の中で、私の思考が一瞬、凍りつく。心臓が警鐘を鳴らすように激しく脈打とうとするのを、必死の呼吸制御で押さえ込む。


 その刹那、張り詰めた沈黙を切り裂いたのは、甲高い、そして嫉妬に満ちた金切り声だった。


「蓮司様! このような素性の知れない、下品なフランス帰りの未亡人などとお話しになってはなりませんわ!」


 九条院麗華――。蓮司の許嫁を自称する公爵家のお嬢様が、屈辱に顔を真っ赤に染めながら二人の間に割り込んできた。彼女は蓮司の腕を強引に掴み、私から引き離そうとする。ティアラのサファイアが、ガス灯の光を浴びて激しく揺れた。


「おや、麗華。そんなに大声を出すと、せっかくの美しいワルツの旋律が乱れてしまうよ」


 蓮司は困ったように微笑み、差し伸べた手を引き戻した。その一瞬の隙を、私は逃さなかった。


 エレーヌ直伝の「視線誘導(デコイ・アイ)」を起動する。私は孔雀の羽の扇子を優雅に翻し、周囲の華族たちの視線を一瞬だけその華美な動きへと引きつけた。そして、彼らがまばたきをする一瞬の死角――「サッカード」と呼ばれる視覚の空白の瞬間に合わせて、音もなく身体を滑らせた。


 気配を完全に遮断し、大ホールの柱の影へと溶け込む。数歩歩いたところで、背後から蓮司が怪訝そうに周囲へ耳を澄ます気配が伝わってきた。私の「バラの残り香」が虚空に漂う中、彼は確かに、獲物が目の前から完全に消失したことをその耳で「視て」いた。


 *


 美術館の地下へと続く隠し階段は、冷たい湿気と静寂に包まれていた。


 私は大ホールの喧騒を離れ、未亡人のドレスを脱ぎ捨てていた。現れたのは、月光を浴びて妖しくきらめく純白の燕尾服、シルクハット、そして特殊な光学反射ガラスで作られた「ガラスの仮面」を纏った、怪盗ルナの姿だった。


 目指すは、新条九郎館長が本物のレガリアを隠したとされる特別収蔵庫「開かずの間」。


 重厚な鋼鉄の扉の前で、私は足を止めた。新条が誇らしげに語っていた通り、その扉には最新の水圧式多重シリンダー錠が備え付けられている。物理的な鍵と、複雑なダイヤル暗号の組み合わせ。常人であれば、触れることすら諦める難攻不落の城壁だ。


「でも、私の指先を騙せると思わないことね」


 私は腰のホルダーから「特殊酸性解錠スプレー」を取り出し、シリンダーの鍵穴へと極細のノズルを差し込んだ。静かにスプレーを噴射すると、金属の分子結合を一時的に脆くする特殊な強酸性液体が、音もなく内部を侵食していく。ツンとする揮発性の匂いが鼻腔を突くが、私は仮面の下で呼吸を整えた。


 そして、私は指先の手袋を外した。極寒の地下空気の中で、鑑定士としての命である素肌の指先を露出させる。冷気で指先が凍りつくような痛みが走るが、感覚を極限まで鋭敏にするためには必要な代償だった。


 ピッキングツールを差し込み、シリンダー内部の極小のピンに触れる。ミリ単位の摩擦、金属が噛み合う微細な手応えを、指先の皮膚だけで感じ取る。「瞬間指先解錠」――それは、父から受け継ぎ、シャルルのもとで鍛え上げた神業だった。


(ここ……いや、あとコンマ数ミリ右……)


 カチリ、と脳内で真鍮の歯車が噛み合う音が響いた。続いて、水圧が抜ける特有の重い駆動音が静かに響き、鋼鉄の扉がゆっくりと内側へと開いていく。


 扉の向こうは、冷徹な暗黒の空間だった。その中央、ベルベットのクッションが敷かれた真鍮の台座の上に、呪われた美術品「嘆きの首飾り」が鎮座していた。深海のようなブルーサファイアが、闇の中で怪しく、そして美しくきらめいている。


「お父様……。ようやく、一つ目を取り戻したわ」


 私の「絶対鑑定」が、その首飾りが放つ本物としての調和を瞬時に捉えた。新条が用意したレプリカなどとは比べ物にならない、本物の「レガリア」が放つ魔力のような存在感。私はそっと手を伸ばし、首飾りを台座から持ち上げた。


 その瞬間――冷たい金属の擦れる音が、静寂を破った。


 台座の底に仕掛けられていた加圧式の重量センサーが、首飾りの重さが消えたことを感知したのだ。


 ズドン! という重苦しい金属音が地下に響き渡り、背後の鋼鉄の扉が自動で閉鎖された。完全な密閉空間。それと同時に、壁の四隅に設置された真鍮製の集音器が、不気味な赤いランプを点滅させ始めた。


 キィィィィィィィィン――!


 突如として、人間の耳には聞こえないはずの、しかし脳髄を直接かきむしるような超高周波のハウリング音が、部屋全体に鳴り響いた。蓮司が設計し、天才プログラマー織田信也が構築した「音響トラップ」が起動したのだ。


「くっ……あ、ああ……!」


 強烈な高周波が、私の鼓膜を通じて三半規管を激しく揺さぶる。世界が激しく回転し、平衡感覚が完全に奪われた。激しい眩暈と吐き気が襲い、私は首飾りを抱えたまま、冷たい床に膝をついた。


 耳の奥が引き裂かれるように痛む。指先で耳元に触れると、微かに温かい液体が滲んでいた。高周波による内耳の出血。肉体が悲鳴を上げている。


『お姉ちゃん! 聞こえる!?』


 骨伝導受信機から、マイの悲痛な叫びがノイズ混じりに響く。


『織田のセキュリティ・プロトコルが作動したわ! システムが完全にロックされて、地下から地上への緊急ハッチがすべて閉鎖された! 私のハッキングでも、このプロトコルは解除できない……! 自力で脱出して!』


「マイ……システムが……」


 声を発することすら苦しい。私はなんとか立ち上がろうと、腕時計型の「超硬質ワイヤーウォッチ」を天井の梁に向けて構えた。ワイヤーを射出し、高所のキャットウォークへ逃れようとしたのだ。


 だが、高周波の振動が私の距離感を完全に狂わせていた。引き金を引くと、チタン合金製の極細ワイヤーが射出されたが、狙いは大きく逸れ、梁の手前の鉄パイプに虚しく弾かれて金属音を立てた。回収するゼンマイの振動が、痛む右肩に激痛となって跳ね返る。


(逃げ場が……ない。音が、物理的な檻のように私を締め付けている……!)


 集音器は、私の僅かな衣擦れの音、荒い呼吸音を1ミリの狂いもなく探知し、さらに高周波の出力を高めていく。このままでは、意識を失い、ここで捕らえられてしまう。


 私は震える手で、顔に装着した「ノイズキャンセラー・モノクル」のスイッチを入れた。長谷川と開発した、逆位相の音波を出して特定の高周波を相殺するデバイスだ。


 モノクルがかすかな作動音を立てた瞬間、私の頭部を包んでいた激しい圧迫感が、波が引くように和らいだ。完全に音が消えたわけではない。モノクルから発せられる逆位相のノイズが耳元で唸りを上げているが、それでも平衡感覚を辛うじて取り戻すには十分だった。


「ハァ、ハァ……動かなければ……」


 私は「死角歩行」の呼吸を思い出し、自身の足音を機械のハミング音と同調させながら、地下の緊急避難通路へと繋がる錆びたハッチをこじ開けた。そこは、美術館の最上部にある時計塔の「大歯車室」へと繋がる、暗い点検通路だった。


 煤と油の匂いが立ち込める暗闇の中へ、私は滑り込んだ。頭上では、巨大な真鍮の歯車が重苦しい音を立てて噛み合い、回転している。ドクン、ドクン、という巨大な機械の鼓動が、私の心臓を威圧するように響いていた。


 その時、歯車の轟音の隙間から、別の音が聞こえた。


 コツ、コツ、コツ――。


 規則正しい、冷徹なまでに静かな打撃音。黒檀のステッキが、鉄のキャットウォークを叩く音だった。


 私は息を止め、巨大な歯車の影に身を潜めた。しかし、その足音は迷うことなく、私が潜む暗闇へと近づいてくる。


 暗闇の向こうから、黒いタキシードを纏った青年が姿を現した。皇蓮司。彼の右目の奥にある『音響ソナー義眼』が、暗闇の中で冷たく、鈍いブルーの光を放っている。その視線のない瞳は、正確に私のいる方向を見つめていた。


「お帰りなさい、怪盗ルナ。ここが、君のために用意した『音の檻』だ」


 蓮司の静かな声が、大歯車の轟音を貫いて、私の耳元へと這い寄ってきた――。

HẾT CHƯƠNG

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