華麗なる社交界の嘘
帝都・国立美術館の夜は、眩いばかりの虚飾に彩られていた。ガラスの笠を被ったガス灯が、磨き上げられた大理石の円柱を淡く照らし、オーケストラが奏でるワルツの旋律が、ドーム状の天井に反響しては降り注ぐ。シャンパングラスの触れ合う繊細な音、絹のドレスが擦れ合う囁くような衣擦れ、そして高価な香水の香りが、温まった空気の中で濃密に混ざり合っていた。
その華やかな喧騒の中心に、羽沢麗奈――今はフランス帰りの若き未亡人、白川美奈子に変装した彼女はいた。
背中が大きく開いた深紅のイブニングドレスは、社交界のいかなる令嬢よりも妖艶なオーラを放っている。だが、その美しさの裏で、麗奈の肉体は過酷な代償を支払っていた。変装の基礎として骨格を偽装するため、限界まで締め上げられたきついコルセットが肋骨を圧迫し、呼吸のたびに鈍い痛みが走る。それでも彼女は、完璧な姿勢と優雅な微笑みを崩さない。
(……すべては、父の汚名をすすぎ、奪われたレガリアを取り戻すため)
麗奈は、怪盗の師エレーヌから贈られた孔雀の羽の扇子を優雅に揺らしながら、周囲の男たちの視線を巧みに誘導していた。男たちの視線が彼女のデコルテや扇子の動きに奪われている隙に、彼女の「絶対鑑定眼」は会場の構造と警備員の配置を冷徹に分析していく。
「おや、麗しいマダム。今宵の展示について、何かご不満でも?」
声をかけてきたのは、今宵の主役である美術館長、新条九郎だった。完璧に整えられた髭に、仕立ての良いタキシード。その紳士的な微笑みの裏に、底知れない強欲さを隠した男だ。
「まさか、新条館長。これほど素晴らしい美術品に囲まれて、不満などあろうはずがありませんわ」
麗奈は、エレーヌ直伝の「心理誘導(コールドリーディング)」を起動した。新条の視線の動き、呼吸の微かな変化、そして言葉の端々に漂う自己顕示欲を、一瞬にしてプロファイリングする。
「ただ……パリの社交界でも噂になっておりますの。あの『嘆きの首飾り』ほどの至宝が、このような誰の手にも触れられそうな一般の展示ケースに置かれているなんて、少し不用心ではございませんこと?」
新条は、美貌の未亡人からの問いかけに、鼻を高くして満足げに笑った。彼の虚栄心は、麗奈の計算通りに刺激されていた。
「ははは、マダム白川。美的な感性に優れたあなただからこそ、そのように心配されるのも無理はない。だが、ご安心を。あそこに展示されているのは、万が一の事態に備えた、極めて精巧なレプリカ……いわば、怪盗ルナを誘い出すための『デコイ』に過ぎんのです」
「まあ、レプリカですの?」
麗奈は驚いたように扇子で口元を隠した。新条はさらに声を潜め、自慢げに彼女の耳元に囁いた。
「本物の『嘆きの首飾り』は、この美術館の地下深く、私が私的に管理する頑強な特別収蔵庫『開かずの間』に保管されております。そこは、私個人の持つ三重の物理暗号鍵がなければ、蟻一匹侵入できん絶対の聖域なのですからな」
(――見つけたわ)
麗奈の瞳の奥で、冷徹な勝利の光が灯った。本物のありかは地下。新条の言葉のトーンから、それが嘘偽りのない「真実」であることを、彼女の絶対鑑定眼は見抜いていた。
だが、その勝利の余韻に浸る間もなく、背後から冷ややかな気配が近づいてくるのを、彼女の皮膚が敏感に察知した。
「まあ、新条館長。このような素性の知れないフランス帰りの『未亡人』とばかりお話しされて、私を無視されるなんて、ひどうございますわ」
現れたのは、九条院麗華だった。旧公爵家の総領娘であり、皇家伝来のサファイアのティアラを髪に飾った、高慢な美貌の令嬢。彼女は蓮司の許嫁を自称しており、先ほどから蓮司の周囲に群がる女性たちを睨みつけていたが、今度は新条の隣にいる麗奈に激しい嫉妬の視線を向けてきたのだ。
「これは九条院家のお嬢様。失礼いたしました」
新条が慌てて頭を下げる中、麗華は麗奈を値踏みするように上から下まで見つめ、扇子で口元を隠しながら嘲笑を浮かべた。
「フランス帰り、ねえ。あちらの流行を気取っていらっしゃるようですが、そのドレスの着こなし、少し下品ではなくて? パリの真の貴婦人は、そのような背中を大きく露出するような真似はいたしませんわ」
会場の視線が、一瞬にして二人の美女へと集まる。麗華の陰湿なマウンティングに対し、麗奈は微笑みを消さなかった。エレーヌから叩き込まれた完璧なマナーが、彼女の脳内で瞬時に最適解を導き出す。
「お言葉ですが、九条院様。現在のパリの社交界では、背中のカッティングこそが、女性の背骨の美しさと気品を際立たせる最も高貴なスタイルとされておりますの。――お気付きになりませんでした? あなた様がお召しのその素晴らしいフランス製のドレスも、本来はそのように着こなすために設計されたものですのよ」
麗奈は優雅に会釈し、麗華のドレスの僅かな仕立ての矛盾を指摘した。麗華の顔が、一瞬にして屈辱で赤く染まる。周囲の華族たちから、微かな失笑が漏れ聞こえた。
「あなた、生意気な……!」
麗華が声を荒らげようとしたその時、会場の入り口から、重厚な静寂が波紋のように広がっていった。
コツ、コツ、コツ。
大理石の床を叩く、一定の、そして静謐な打撃音。それは、黒檀のステッキを携えた一人の青年の足音だった。
皇蓮司――。
完璧に着こなした黒いタキシードを纏い、光を失った漆黒の瞳を前方に向けたまま、彼は一歩一歩、確実な足取りで会場へと入ってきた。その背後には、一分の隙もない燕尾服を着た皇家の総執事、岩崎が、冷酷な眼光で蓮司の動向を監視するように付き従っている。
(……彼が、来た)
麗奈の心臓が、ドクンと激しく跳ね上がった。コルセットの締め付けが、急激に苦しくなる。
蓮司は盲目でありながら、周囲のすべての音を、その鋭敏な耳で「視て」いた。ドレスの擦れる音、呼吸の乱れ、シャンパングラスの振動。彼の右目の奥にある『音響ソナー義眼』が、微弱なハミング音を響かせ、会場全体の立体マップを彼の脳内に描き出していく。
「蓮司様!」
麗華が先ほどまでの怒りを忘れ、嬉しそうに蓮司のもとへと駆け寄った。だが、蓮司はその呼びかけを優雅にいなしながら、真っ直ぐに麗奈のいる方向へと歩みを進めてくる。彼の黒檀のステッキが、麗奈のドレスの裾が発する微かな空気の揺れを捉えていた。
(気づかれる……私の心拍音が、彼の耳に届いてしまう!)
麗奈は瞬時に「呼吸の同調(ブレス・シンクロ)」を開始した。自身の肺活量をコントロールし、呼吸のペースを蓮司の心拍のリズムに完璧に同期させる。彼の耳の「ブラインドスポット」に、自身の存在音を溶け込ませるための極限の技術だ。
「お初にお目にかかります、マダム。私は皇蓮司と申します」
蓮司は麗奈の目の前で立ち止まり、静かに一礼した。その距離、わずか数十センチ。彼の鼻腔に、麗奈の衣服から漂う微かな、しかし極めて洗練されたバラの香りが届く。
蓮司の「音響プロファイリング(レベル3)」が、静かに起動した。彼は麗奈の「呼吸」を聴き取ろうと、全神経を耳に集中させる。
「……白川、美奈子と申します。フランスから戻ったばかりで、帝都の素晴らしい芸術に感動しておりますわ」
麗奈は、喉の筋肉を細かく制御し、普段の骨董店主のトーンとは異なる、少し高めで気品のある声を響かせた。完璧な擬態のはずだった。
だが、蓮司の漆黒の瞳が、微かに細められた。彼の耳は、彼女の声の微細な倍音の中に、人工的な緊張によって生じた「声帯の微細な震え」を感知していた。さらに、彼のソナーは、彼女の完璧な姿勢の裏にある、右肩の僅かなこわばり――コルセットによる締め付けと、昨夜の怪盗活動の疲労による筋肉の緊張を、衣擦れの音の矛盾から正確に捉えていた。
(この女性……声を作っている。そして、体幹の緊張が、通常の華族の令嬢のものとは明らかに異なる)
蓮司の胸の奥で、探偵としての冷徹な疑惑が鎌首をもたげた。この違和感、このバラの香り、そして何より、自身の耳から「消えようとする」不自然な呼吸のコントロール。それは、彼が追うべき「怪盗ルナ」の気配に、あまりにも酷似していた。
「帝都の芸術、ですか。確かに美しい。ですが、美しさの裏には、時に恐ろしい嘘が隠されているものです」
蓮司は静かに微笑み、自身の白い手袋をはめた右手を、ゆっくりと前方へと差し出した。
「マダム白川。私のような盲目の男に、あなたの美しい『真実』を、少しだけ触れさせてはいただけませんか?」
彼の長い指先が、麗奈のドレスから露出した、白い手首の肌へと向けて伸ばされる。
もし、その指先が彼女の肌に触れれば、彼の「微表情の触覚読解」によって、彼女の体温、そしてブレス・シンクロの裏に隠された「本物の脈拍」が完全に記録されてしまう。それは、怪盗ルナとしての正体が、この場で半分暴かれることを意味していた。
差し出される探偵の手。逃げ場のない社交界の光の中で、麗奈の指先が、緊張に凍りつこうとしていた――。
Chưa có bình luận nào. Hãy là người đầu tiên!