闇に響く挑戦状
帝都・鳳凰街の夜を震わせた怪盗ルナの誕生から、わずか一日。
警視庁第一庁舎の特別捜査室は、蜂の巣をつついたような騒ぎに包まれていた。壁一面に貼られた帝都の地図と、慌ただしく鳴り響く電信の音が、室内の緊迫感をいや増している。
「月光の夜、国立美術館に眠る『嘆きの首飾り』をいただきに参ります――怪盗ルナ」
青いインクで流麗に認められたその『復讐の予告状』は、今、捜査本部の重厚な樫の机の上に置かれていた。
「指紋は一切検出されず、インクの化学分析も一般的な英国製インクとしか判明していません。しかし、我が警視庁特別捜査班の最新鋭科学捜査網を以てすれば、このルナと名乗る不届き者を捕らえるなど容易なことです」
そう言って胸を張るのは、捜査一課の若きエリート、藤堂俊介警部だった。完璧に着こなした制服と冷徹な眼鏡の奥の瞳は、絶対的な規律と科学捜査への盲信に満ちている。
「ふむ……科学捜査、ねえ」
よれよれのスーツを着たベテラン、敷島警部が紫煙を燻らせながら、苦笑を浮かべた。彼は常に持ち歩いている銀製のシガレットケースを指先で弄んでいる。
「だがな、藤堂。相手はあの伝説的な元大怪盗シャルルの一門とも噂される存在だぞ。そう簡単に尻尾を出すとは思えん」
「オカルトじみた伝説など、近代警察の敵ではありませんよ。すでに美術館の周囲には、大河原隊長の特殊突撃隊を配置する準備を進めています。包囲網は完璧です」
藤堂の傲慢な言葉が響く中、部屋の隅の長椅子に静かに腰掛けていた青年が、ゆっくりと顔を上げた。皇蓮司――皇財閥の三男にして、帝都一の盲目の探偵。彼の光を失った漆黒の瞳は、何もない空間を見つめているように見える。だが、彼の右目の奥に仕込まれた『音響ソナー義眼』は、微弱なハミング音を響かせ、室内のすべての空気の振動を捉えていた。
「藤堂警部。君の言う『完璧な科学』は、時に最も単純な盲点を見落とす」
蓮司の声は静かで、しかし不思議な威厳を帯びていた。彼は仕込み杖を静かに床に突き、立ち上がった。
「何だと? 皇さん、君は盲目ゆえに、科学の進歩を信じられないのか?」
藤堂の不機嫌そうな声。蓮司はそれを受け流し、机の上の予告状へと近づいた。
「目に見える証拠だけが真実ではない。敷島さん、その紙を触らせてもらっても?」
「ああ、構わんよ」
敷島の手から予告状を受け取ると、蓮司は手袋を外し、その白い指先で和紙の表面をそっとなぞった。彼の指先は、常人の数十倍の感度を持つ超触覚の領域に達している。
(……この微細な凹凸、そして繊維の密度。紙の厚みは一定ではない。手漉きならではの不均一さだ)
蓮司は紙の端を指先で微かに弾いた。シュッ、という極めて微小な摩擦音が室内に響く。その「音の反響」を、彼の超聴覚は逃さなかった。
「これは……ただの和紙ではないな。繊維の絡み合いが極めて粗く、しかし強靭だ。おそらく、明治中期に鳳凰街周辺の職人が好んで用いていた、古い骨董和紙だ。さらに、このインクの匂い……」
蓮司は予告状を鼻先に近づけ、深く息を吸い込んだ。
「微かに、古い松脂と樟脳の香りが混ざっている。これは数十年前に製造された、保存状態の良い青墨の成分だ。この二つの条件が揃う場所は、帝都広しと言えども極めて限られている。――鳳凰街の、古い骨董店だ」
「な、何だと!?」
藤堂が驚愕の声を上げる。
「馬鹿な! 紙質とインクの匂いだけで、出処を特定したというのか!?」
「嘘だと思うなら、鳳凰街の古い紙問屋の帳簿を調べてみるといい。この年代の和紙を今も保管し、あるいは扱っている店は、両手で数えるほどしかないはずだ」
蓮司は静かに予告状を机に戻した。その表情には、獲物の足音を捉えた狩人のような、冷徹な愉悦が浮かんでいた。
「ルナ……。君は『見せるための罠』としてこの予告状を送った。だが、君が隠したかったはずの『見えない物質的痕跡』は、私の耳と指先から逃れることはできない」
*
同じ頃、浅草六区の興行街は、昼夜を問わない熱気と喧騒に包まれていた。活動写真館から流れるピアノの伴奏音、物売りの威勢の良い声、そして押し寄せる群衆の足音が雑多に交錯するこの繁華街は、麗奈にとって格好の「実戦訓練場」だった。
「マイ、聞こえる?」
麗奈は、長い黒髪をモダンな帽子に隠し、地味な女学生の袴姿に変装して雑踏を歩いていた。彼女の耳元には、マイがジャンク部品から組み上げた極小の骨伝導受信機が仕込まれている。
『ばっちり聞こえるよ、お姉ちゃん! 今、興行街の入り口に、私服の警官が三人配置されてる。お姉ちゃんの『死角歩行』を試すには、ちょうどいい獲物だね』
無線越しに聞こえるマイの無邪気な声に、麗奈は薄く微笑んだ。
「ええ。彼らの視線の隙を突いてみせるわ」
麗奈のターゲットは、写真館の前に立って周囲を鋭い目で見回している、トレンチコート姿の私服刑事たちだった。麗奈は歩行のピッチを一定に保ちながら、彼らの視線の動きを冷静に観察した。
人間の目は、周囲を見渡す際に「サッカード」と呼ばれる無意識の高速な微小運動を行う。その運動が発生する一瞬――およそ十分の一秒の間、人間の脳は視覚情報を一時的にシャットダウンする。
麗奈はその「視覚のバグ」のタイミングを、刑事たちのまばたきや首の動きから完璧に予測した。
(今――)
刑事の視線が右から左へと移動する、その一瞬の死角。麗奈の身体が、まるで水面を滑る影のように、音もなく滑らかに移動した。彼女の「死角歩行(ステルス・ステップ)」は、足音を完全に消去するだけでなく、周囲の群衆の動きと同調することで、刑事たちの視野の「ブラインドスポット」に完璧に溶け込んでいた。
「おや……?」
一人の刑事が、何かが目の前を通り過ぎたような違和感を覚え、周囲を見回した。だが、そこにはただ、楽しそうに歩く群衆と、活動写真の看板があるだけだった。麗奈の姿は、すでに彼の背後、十メートル以上先にあった。
「テストは成功ね。これなら、美術館の警備員の目をごまかすことも難しくないわ」
麗奈は人混みに紛れながら、小さく息を吐いた。だが、その胸の奥にある緊張の糸は、決して緩んではいなかった。
『お姉ちゃん、ちょっと待って! 急に警察無線の暗号パターンが変わった。今、デコードするから……』
耳元の受信機から、マイのキーボードを叩く張り詰めた音が聞こえてきた。マイは、警察庁の電信室から極秘裏に入手した「警察無線傍受用周波数リスト」を使い、リアルタイムで特別捜査班の通信を傍受していたのだ。数秒の沈黙の後、マイの息を呑む音が聞こえた。
『……嘘、でしょ。お姉ちゃん、大変!』
「どうしたの、マイ」
麗奈は歩みを止めず、ショーウィンドウの古い時計を見つめるふりをしながら、静かに問いかけた。
『さっき、警視庁の特別捜査本部に、あの盲目の探偵――皇蓮司が現れたの。彼、お姉ちゃんが送った予告状を触っただけで……それが鳳凰街の古い骨董和紙だってことを見抜いちゃった!』
麗奈の心臓が、ドクンと大きく跳ね上がった。
「……なんですって?」
『嘘じゃないよ! 今、藤堂警部が鳳凰街周辺の骨董店をリストアップして、一軒ずつローラー捜査をかけるように部下に命令してる。まだうちの店が特定されたわけじゃないけど、捜査線上に浮かび上がるのは時間の問題だよ!』
麗奈の背筋を、冷たい戦慄が駆け抜けた。
(紙質だけで、鳳凰街を特定した……? 科学捜査でも分からなかったはずの痕跡を、指先だけで?)
麗奈は、自身の「絶対鑑定眼」が持つ驚異的な観察力を知っている。だが、皇蓮司という男が持つ「超感覚」は、彼女の想像を遥かに超える、恐るべき執念と精度を秘めていた。
(完璧に変装し、死角を突いて侵入したとしても、あの男の前に出れば、私の呼吸音や衣擦れの音さえも『証拠』に変えられてしまうかもしれない)
麗奈の額に、微かな冷や汗がにじむ。
「マイ……警戒レベルを最大に引き上げて。骨董店の表の帳簿や、父の手帳の隠し場所をもう一度確認して。少しでも不審な気配があったら、地下の作戦室を完全にロックするのよ」
『分かった、お姉ちゃん。でも、どうするの? 明日の特別内覧会パーティー、新条館長は完全に罠を仕掛けて待ち構えてるよ』
「逃げるわけにはいかないわ。首飾りを取り戻し、父の無念を晴らすためには、あの美術館に潜入するしかない。――探偵さんが私の足音を聴こうとしているなら、私は彼の耳を欺くための『新しい仮面』を用意するだけよ」
麗奈は帽子を目深に被り直し、浅草の雑踏の中へと再び歩み出した。その足取りは、先ほどまでの軽快さを失い、重い覚悟に満ちていた。
*
一方、警視庁の特別捜査室では、藤堂警部が受話器を叩きつけるようにして置いたところだった。
「皇さん、君の言う通りだ。鳳凰街の古い紙問屋を調べたところ、ルナの予告状に使われた和紙と同じロットのものが、確かに数軒の骨董店に流れていることが確認された」
藤堂は悔しそうに顔を歪めながらも、蓮司の能力を認めざるを得なかった。
「だが、のんびりとローラー捜査を行っている時間はないぞ。新条館長から、さらに厄介な情報が入った」
敷島警部が眉をひそめ、シガレットケースから煙草を取り出した。
「新条の奴、警察の警備だけでは不安だと抜かして、裏社会から非公式に『私立探偵』や『罠師』を雇い入れたらしい」
「私立探偵……? それに、罠師だと?」
影山が不審そうに問いかける。
「ああ。ルナに奪われた『嘆きの首飾り』を取り戻すためなら、手段を選ばないというわけだ。雇われたのは、あの伝説の罠師『網切の十兵衛』だという噂もある」
敷島警部の言葉に、室内を重苦しい沈黙が支配した。新条館長は、ルナをただ逮捕するのではなく、美術館という閉鎖空間の中で「抹殺」しようとしているのだ。
蓮司は仕込み杖の頭を指先でトントンと叩きながら、暗闇の思考を巡らせていた。
(新条館長……。君がそこまでしてルナを拒むのは、首飾りそのものの価値のためだけではないな。そこには、暴かれてはならない『シンジケートの闇』が隠されている)
そして、蓮司の脳裏に、まだ見ぬ怪盗ルナの姿が浮かび上がる。
(ルナ。君は、この死の罠が待ち受ける美術館に、どのような仮面を被って現れる? 君の命を狙う暗殺者たちの刃から、君は逃れることができるのか。……いや、君を捕らえるのは、この私だ)
蓮司は静かに立ち上がり、防音室の重い扉を開けた。
「敷島さん。明日の特別内覧会、私も『一人の華族』として参加させてもらう。ルナが仕掛ける心理誘導のチェスゲーム、その最初の一手を、最も近い特等席で聴かせてもらいましょう」
帝都の夜は、嵐の予兆を孕んだまま、静かに更けていく。怪盗と探偵、そして彼らを狙う闇の刺客たちが交錯する、国立美術館の特別内覧会パーティーまで、残された時間はあとわずかだった。
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