暗闇の迷宮と指先の温もり
大聖堂の鐘楼から、漆黒の虚空へと身を投げたあの瞬間、世界からすべての光が消え去った。耳元を狂暴に吹き抜ける風の唸りと、叩きつける雨の冷たさ。そして、次の瞬間に訪れたのは、身体を激しく打ち付ける硬い衝撃だった。
「――っ、く……!」
麗奈は湿ったコンクリートの床に転がり、肺の中の空気をすべて吐き出した。冷たい泥水が顔に跳ねる。そこは、大正時代に建設が中断され、帝都の地下深くに打ち捨てられた「帝都旧地下鉄・放棄された連絡路」の底だった。頭上遥か遠くで、大河原隊長率いる突撃隊の怒号とライフルの銃声が、雨音に掻き消されながら反響している。追手はまだ、この暗黒の迷宮の入り口を見つけてはいない。
だが、麗奈の肉体はすでに限界を迎えていた。
右肩に走る、焼きゴテを押し当てられたかのような激痛。大聖堂の壁に衝突した衝撃で、一度ははまりかけていた右肩の亜脱臼が、再び完全に外れてしまっていた。それだけではない。懐にあるレガリア『嘆きの首飾り』の表面から皮膚を通して吸収された、あの忌まわしい「幻覚毒」の残毒が、彼女の脳を内側から蝕み始めていた。視界が暗闇の中で赤く明滅し、亡き父・羽沢宗一郎の、血を流して倒れる幻影が脳裏をよぎる。
(お父様……私は……まだ、ここで倒れるわけには……)
麗奈は泥水にまみれた左手を床につき、無理やり身体を起こそうとした。しかし、右腕はだらりと垂れ下がったまま、指先一つ動かすことができない。激しい悪寒が全身を襲い、歯の根が合わずにカタカタと震える。焦燥感に駆られた彼女は、近くの煤けた煉瓦の壁に、外れた右肩を力ずくで叩きつけて自力で嵌め直そうとした。
ドン、と鈍い音が暗闇に響く。しかし、関節は冷酷に滑り、嵌まるどころか、脳を揺らすほどの激痛が彼女の全身を貫いただけだった。視界が完全に白濁する。麗奈の身体は、力なく冷たい床へと崩れ落ちていった。
だが、その身体が泥水に沈む前に、強靭な両腕が彼女を横から抱き止めた。
「無茶をするな、ルナ。自力で嵌め直せるほど、その関節の歪みは単純ではない」
耳元で響いたのは、低く、驚くほどに静かな、しかし確固たる意志を秘めた声だった。皇蓮司。盲目の探偵紳士は、自身の唯一の武器である『漆黒の仕込み杖』を足元にそっと置き、ずぶ濡れになった彼女の身体を暗闇の中で引き寄せ、自身の膝の上に抱き上げた。
「蓮司、さん……どうして……私を、置いて逃げれば……あなたは探偵としての名誉を失わずに済むのに……」
麗奈の声は、極限の衰弱によってかすれていた。しかし、蓮司は答えない。一切の光が届かないこの放棄された連絡路は、常人にとっては恐怖の迷宮だが、視覚を持たない彼にとっては、自らの感覚が世界を支配する絶対の領域だった。
蓮司の鈍いブルーの光を放つ『音響ソナー義眼』が、暗闇の中で微弱なハミング音を立てている。彼は、腕の中に抱いた少女の、ずぶ濡れになった身体から立ち上る「匂い」を、その鋭い嗅覚で捉えていた。雨水と泥の匂いの奥から漂う、微かだが決定的な、あの「バラの香り」。鳳凰街の寂れた羽沢骨董店で、お茶を淹れてくれたあの大人しい少女と同じ香りが、彼の鼻腔を満たしていた。
(やはり、君だったんだね、羽沢さん……)
蓮司は胸の奥でその名を呟いたが、それを口にすることはしなかった。今、彼女を「怪盗ルナ」として、あるいは「羽沢麗奈」として追及することは何の意味も持たない。探偵としての客観性を保ち、容疑者との私的接触を禁じる「容疑者私的接触禁止」の探偵倫理――そんなものは、彼女を大聖堂の鐘楼で抱きしめた瞬間に、自らの手で粉々に破り捨てていた。今の彼は、ただ一人の傷ついた少女を救いたいと願う、一人の男に過ぎなかった。
「息を整えるんだ。これから、君の肩を治療する」
蓮司の指先が、麗奈の濡れた燕尾服の襟元へと伸びた。彼は手探りで、彼女の身体を締め付けている衣服のボタンを一つずつ外していく。冷たい風が麗奈の剥き出しになった鎖骨へと吹き付け、彼女は小さく身震いした。しかし、蓮司の指先に迷いはなかった。彼の指先は、芸術品を鑑定する時のように繊細で、同時に、人間の骨格の歪みを完璧に把握する医師のようでもあった。
「微表情の触覚読解」
蓮司の研ぎ澄まされた指先が、麗奈の剥き出しになった右の鎖骨から、肩の関節へと静かに触れた。彼の指先を通じて、彼女の皮膚の異常な熱、血管を流れる狂ったような心拍の脈動、そして激痛によって硬直した筋肉の微細な震えが、彼の脳へとダイレクトに伝わっていく。かつて、古流柔術の達人である神崎泰山から叩き込まれた接骨術の知識が、彼の脳内で瞬時に組み上がっていく。
「肩峰の下に骨頭が完全に落ち込んでいる。前方への亜脱臼だ。筋肉が激しい拒絶反応を起こして硬化している。このまま無理に力を加えれば、靭帯が完全に断裂する」
「……う、あ……」
麗奈は痛みに耐えかねて、蓮司の濡れたダークグレーの外套を左手できつく握りしめた。彼女の防衛本能が、他者からの接触に対して無意識に筋肉を緊張させていた。これでは、どんなに正確な力を加えても関節は嵌まらない。
「羽沢さん、私を信じるんだ。身体の力をすべて抜き、私の呼吸に合わせるんだ」
蓮司は彼女の額に自身の額をそっと押し当てた。至近距離で、二人の吐息が交錯する。
「呼吸の完全同期(レベル5)」
蓮司は自身の心拍と呼吸のペースを、麗奈の激しく乱れる呼吸へと完全に同調させていった。スー、ハー……。冷たい暗闇の中で、二人の肺が同じリズムで酸素を吸い、吐き出す。蓮司は自身の呼吸を意図的に深く、そして緩やかにしていくことで、彼女の自律神経へと働きかけ、その極限の緊張を解きほぐしていった。それは、言葉を介さない、指先と吐息だけで紡がれる密やかな精神的麻酔だった。
麗奈の身体から、徐々に強張りが消えていく。彼女は自身の肉体のすべてを、この盲目の探偵の指先へと完全に委ねる精神的降伏を受け入れていた。
「……今だ」
蓮司は麗奈の呼吸が完全に吐き出され、筋肉が最も弛緩した一瞬の刹那を捉えた。
彼の左手が彼女の鎖骨を固定し、右手が彼女の肘を支えながら、外側へと優しく、しかし電撃のような速さと正確さで回転を加えた。接骨術の極意に基づいた、無駄のない一瞬の軌道。
ゴトッ、という鈍い感触が、二人の肉体を通じて響いた。
「――っ、ああ……!」
麗奈は短い悲鳴を上げ、蓮司の胸の中に顔を埋めた。全身を貫く激痛の後に、すうっと痛みが引いていく感覚が訪れた。骨頭が、本来あるべき関節窩へと完璧に収まったのだ。だらりと垂れ下がっていた彼女の右腕に、温かい血液が再び流れ出すのが分かった。
麗奈は激しい呼吸を繰り返しながら、蓮司の胸にしっかりと抱き留められていた。彼女の肩の治療は成功した。しかし、彼女の身体は幻覚毒による微熱で依然として熱く、荒い息を吐き続けている。満身創痍の逃亡劇は、まだ始まったばかりだった。
蓮司は彼女の濡れた黒髪を優しく撫で、その呼吸が安定していくのを静かに聴き取っていた。彼の手のひらに残る、彼女の肌の温もり。探偵としての倫理を捨て、自ら犯罪者の「共犯者」となったことへの迷いは、彼の心には一辺すら存在しなかった。
だが、その静寂は、冷酷な現実によって切り裂かれた。
ウゥゥゥ、ワン!
連絡路の遥か奥、湿ったトンネルの闇の深淵から、低く、地を這うような不気味な遠吠えが響き渡った。それは、帝都警察の追跡犬のものではない。もっと狂暴で、血の匂いに飢えた、シンジケートの追跡専門員「黒い犬」が放った特級の軍用犬の咆哮だった。
蓮司の耳がピクリと跳ね上がり、足元に置いた仕込み杖を静かに握りしめた。暗闇の迷宮の奥から、冷酷な獣たちの足音が、確実に二人の残り香を追って近づいてくる――。
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