雨の大聖堂と信じる心
雨は容赦なく帝都の夜を叩いていた。大正折衷の面影を残すガス灯の光は、激しい豪雨のカーテンに遮られ、ぼんやりとにじんでいる。その冷たい銀の雨が降りしきる中、羽沢麗奈は帝都大聖堂の冷たい石の螺旋階段を、喘ぎながら登っていた。
「はぁ、はぁ……っ……」
一歩踏み出すたびに、右肩の亜脱臼が焼けるような激痛を放つ。昨夜の激闘、そして新条館長が放った「蜘蛛の神経毒液」の残毒による微熱が、彼女の華奢な肉体を容赦なく蝕んでいた。ずぶ濡れになった黒い防寒マントが鉛のように重く、体温を容赦なく奪っていく。
最悪の状況だった。新条が用意した「偽ルナ」による警備員惨殺事件。その濡れ衣を着せられた本物のルナ――麗奈は、今や帝都中から追われる「殺人犯」へと仕立て上げられていた。警視庁捜査一課、そして大河原剛隊長が率いる重武装の特殊突撃隊からは「発見次第射殺命令」が下り、大聖堂の周囲はすでに無数のサーチライトによって包囲されつつある。
「お父様……私は、誰も殺していない……」
麗奈は仮面の下で血の混じった息を吐き、大聖堂の最上部、ゴシック様式の尖塔がそびえ立つ鐘楼の頂上へとたどり着いた。周囲は吹きさらしの風が吹き荒れ、巨大な青銅の鐘が雨に濡れて鈍く光っている。眼下を見下ろせば、サーチライトの鋭い光線が、雨の霧を切り裂きながら大聖堂の壁を舐めるように動いていた。逃げ場はどこにもない、完全な袋小路だった。
「ここで、終わりなの……?」
麗奈は痛む右腕をかばいながら、左手で『超硬質ワイヤーウォッチ』を隣のビルの屋上へ向けて構えた。しかし、亜脱臼した右肩の激痛と極限の疲労により、照準が定まらない。引き金を引いたものの、チタンワイヤーは濡れた梁に弾かれ、空しく巻き戻った。その衝撃で足元が滑り、麗奈は鐘楼の濡れた石の縁から、暗黒の虚空へと身体を滑らせた。
「――っ!」
声にならない悲鳴が豪雨の音に消える。落下する、そう確信した刹那。
濡れた空気を切り裂いて伸びてきた強靭な手が、麗奈の左手首を寸分の狂いもなく掴み取った。凄まじい握力。引き上げられる身体。麗奈が冷たい石畳の上へと引き戻されたとき、目の前に立っていたのは、傘も差さずにずぶ濡れになった、あの盲目の探偵紳士――皇蓮司だった。
「……蓮司、さん……?」
麗奈は息を呑んだ。彼の鈍いブルーの光を放つ『音響ソナー義眼』が、激しい雨音の中でジィ……と微弱なハミング音を立てている。蓮司の仕立ての良いダークグレーの外套は雨を吸って黒く染まり、端正な顔を伝って冷たい水滴が滴り落ちていた。彼は傘も持たず、ただ一本の『漆黒の仕込み杖』を手に、そこに立っていた。
「来ないで!」
麗奈は反射的に彼を突き放そうとした。声を「怪盗ルナ」の冷徹なトーンへと偽装し、冷たく言い放つ。
「私は人殺しよ。新条の警備員を無残に殺した、冷酷な泥棒。探偵なら、その仕込み杖で私を捕らえるか、下で待ち構える警察に突き出せばいいわ」
しかし、蓮司は動かなかった。彼はただ、激しい雨音が大聖堂のゴシック彫刻や青銅の鐘に跳ね返る『エコーロケーション(反響定位法)』の極限を使い、彼女の位置を正確に捉えていた。そして、彼の鋭い超聴覚が、彼女の声の裏にある「乱れ」を聴き取っていた。
「嘘だ」
蓮司の声は、嵐の風を切り裂くほどに静かで、圧倒的な確信に満ちていた。
「君の声の周波数には、微かな震えが混ざっている。それは、人を殺めた者の傲慢な響きではない。ただ、孤独と恐怖に凍える、一人の少女の悲鳴だ。君は『不殺』の怪盗道を守り続けている。私の耳が、君の魂の呼吸をそう告げている」
「何を根拠に……!」
「根拠なら、今ここで証明してみせる」
蓮司は一歩踏み出し、麗奈の拒絶を無視して、彼女の細い手首を再び掴んだ。そして、そのまま彼女の身体を自身の胸へと引き寄せた。力強く、しかし彼女の痛む右肩を決して刺激しないように細心の注意を払いながら、そのずぶ濡れの身体を強く抱きしめた。
「……っ!?」
麗奈の息が止まった。蓮司の胸の鼓動が、濡れた外套越しに彼女の肌へとダイレクトに伝わってくる。温かい。凍えるような銀の雨の中で、彼の体温だけが狂おしいほどに熱かった。
「呼吸の完全同期(レベル5)」
蓮司は自身の心拍と呼吸のペースを、麗奈の激しく乱れる呼吸へと完全に同調させていった。スー、ハー……。二人の肺が同じリズムで酸素を吸い、吐き出す。その極限のシンクロニシティの中で、麗奈の胸の奥に澱んでいた「殺人犯」としての孤独と絶望が、彼の温もりによって静かに溶かされていくのが分かった。
「君の心音を聴いている。これは、怯える少女の音だ。殺戮者の音じゃない。私は探偵だ。目に見える偽の証拠や、新聞の号外などに惑わされることはない。私が信じるのは、この指先と耳が捉えた、君の真実だけだ」
蓮司の囁きが、麗奈の耳元で熱く響く。探偵としての客観性を保ち、容疑者との私的接触を禁じる「探偵倫理」――彼は今、その倫理を自らの意志で粉々に打ち砕き、目の前の「犯罪者」を庇う共犯者となる道を選んだのだ。その人生最大の社会的代償を払ってでも、彼は彼女を信じることを決意した。
「蓮司、さん……どうして……」
麗奈の目から、雨水とは異なる熱い涙が溢れ、ガラスの仮面を濡らした。初めて、自分の本当の魂を理解してくれる人に出会えた。嘘にまみれた関係の中に、本物の「愛の光」が灯った瞬間だった。
その時だった。麗奈を強く抱きしめる蓮司の脳裏に、かつてない強烈な衝撃が走った。
幼少期の事故以来、強いトラウマによって脳の視覚野が機能を停止していた「精神的ロック」。しかし、麗奈を絶対に失いたくないという極限の恐怖と、彼女を自らの手で救い出したいという強烈な愛の衝動が、彼の脳神経を激しく揺さぶった。
ドクン!
心臓が大きく跳ね上がると同時に、蓮司の暗黒の視界に、奇跡的な「光」が走った。一瞬だけ、本当に一瞬の刹那。降りしきる銀の雨の軌跡、大聖堂の黒い石肌、そして――自身の胸の中で濡れている、麗奈の深い黒髪の美しい色彩が、彼の網膜に鮮やかに映し出されたのだ。
(……美しい……)
蓮司は息を呑んだ。それは、彼が生まれて初めて「目」で見た、彼女の魂の色彩だった。すぐに視界は再び暗黒へと戻ったが、その残像は、彼の心に生涯消えない愛の刻印を刻みつけた。
突如、鐘楼の真下から強烈なサーチライトの光束が照射され、二人の姿を白々と照らし出した。大河原隊長率いる突撃隊の声が、スピーカーを通じて響き渡る。
『怪盗ルナ! および皇蓮司! お前たちは完全に包囲されている! 武器を捨てて投降しろ! さもなくば、射殺する!』
同時に、警告を告げるライフルの銃声が響き、鐘楼の石柱が砕け散って火花が散った。警察の物理的な包囲網が、二人を完全に追い詰めていた。
しかし、麗奈と蓮司の表情に、もはや恐れはなかった。精神的な完全同期を果たした今、二人の知恵は一つの完成された歯車のように噛み合っていた。
「蓮司さん、私の足元に……」
「ああ、分かっている。大聖堂の雨樋の排水管は、地下の放棄された旧地下鉄連絡路へと繋がっている。敷島警部から借りた『通行鍵』のデータが、ここの死角を示している」
蓮司は麗奈の細い腰を左腕で強く抱き寄せ、右手で『漆黒の仕込み杖』をしっかりと握りしめた。麗奈は彼の首に左腕を回し、二人の重心を完全に一つに重ねる。警察の「即射殺命令」に対し、二人は大聖堂の鐘楼からの飛び降り逃走という、怪盗の「死角理論」を応用した極限のカウンターを仕掛ける。
「僕の共犯者になってくれるかい、ルナ」
蓮司が仮面越しの彼女の耳元で囁いた。
「ええ、喜んで。私の探偵さん」
麗奈が微笑んだ瞬間、二人はサーチライトの光を嘲笑うように、大聖堂の鐘楼の縁から、暗黒の虚空――地下連絡路へと続く闇の穴へと、迷わずその身を投じた。背後で激しい銃撃の音が響き渡る中、二人は手を固く繋ぎ合い、奈落の深淵へと落ちていった。
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