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月光に踊るガラスの仮面

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帝都・鳳凰街の夜は、ガス灯の淡いオレンジ色の光と、湿り気を含んだ煉瓦の匂いに支配されていた。和洋折衷のレトロモダンな建物が立ち並ぶ大通りから一本入った路地裏の終着点に、ひっそりと佇む木造二階建ての店舗がある。大正から続く古い看板には、『羽沢骨董店』と掠れた文字で刻まれていた。


 店主の羽沢麗奈は、帳簿机の上に広げた数枚の白い紙を見つめ、静かにため息をついた。それは、帝都中央病院から届いた妹・紗季の治療費の請求書だった。

「今月も、金貨五十枚……」

 心臓を患う紗季の命を繋ぐには、ドイツから輸入される特殊な特効薬が不可欠だった。その『紗季の特効薬購入権』を維持するための費用は、寂れた骨董店の細々とした売り上げだけで賄える額を遥かに超えている。麗奈が奥歯を噛み締めたその時、店の古びた真鍮のドアベルが、けたたましい音を立てて鳴り響いた。


「おいおい、麗奈ちゃん。景気悪そうな顔をしてるねえ」

 現れたのは、派手なストライプの三つ揃えスーツを身に纏い、指にいくつもの金の指輪をはめた男――悪徳美術ブローカーの石原茂雄だった。その後ろには、鳳凰街の鮫島組と思しき、ガラの悪いならず者たちが二人、威圧するように立っている。


 麗奈は瞬時に帳簿を閉じ、眼鏡の位置を直しながら立ち上がった。昼の彼女は、着物にエプロン姿の、どこにでもいる地味な骨董店の店主だ。

「石原様。本日はどのようなご用件でしょうか」

「とぼけるなよ。お前の叔父の宗二が作ったギャンブルの借金、金貨百枚の期限は今日だ。払えないなら、約束通りこの店の『羽沢骨董店の営業許可証』を差し押さえさせてもらう。この土地の地代も皇財閥の手で急騰しているんだ。お前のような小娘に、この一等地で商売を続けられるわけがないだろう」


 石原は下卑た笑みを浮かべ、懐から一枚の書状を取り出して机に叩きつけた。麗奈の脳裏に、幼少期から父・宗一郎に叩き込まれた骨董鑑定の「三原則」が去来する。――歴史を見る、傷を見る、人の心を見る。麗奈の「絶対鑑定眼」が、石原の持ってきた書状のインクの不自然な滲みを捉えた。これは叔父の筆跡を真似て作られた、精巧な偽の鑑定取引書だ。石原の狙いは最初から、この店を経済的に追い詰め、父が遺した貴重な美術品と営業権利を安値で買い叩くことにある。


「お引き取りください、石原様。その書状には、法的な効力はありません。それに、この店は亡き父の形見です。何があってもお渡しすることはできません」

 麗奈の凛とした拒絶に、石原の顔が怒りで引き攣った。

「ふん、強情な小娘め。三日だ。三日以内に金貨百枚を用意できなければ、力ずくでもこの店から叩き出してやる。そうなれば、病院の病弱な妹がどうなるか……分かっているな?」

 石原は不気味な捨て台詞を残し、ならず者たちを連れて店を出て行った。嵐のような静寂が、再び店内に満ちる。


 麗奈は深く息を吐き、奥の本棚へと歩み寄った。特定の古い洋書を引くと、背後の壁が音もなく開き、地下へと続く隠し階段が現れる。そこは、麗奈と十四歳の天才助手、小林マイだけの秘密の作戦室だった。


「おかえり、お姉ちゃん! またあの悪党が来たの?」

 オーバーオール姿のマイが、スパナを手にしたまま心配そうに駆け寄ってきた。麗奈は静かに首を振り、作業台の上に一冊の古い黒革の手帳を広げた。亡き父・羽沢宗一郎の形見である『宗一郎の革手帳』。そこには、闇のシンジケート「黒い砂時計」に奪われた、呪われた美術品群「レガリア」の詳細が記されていた。


「マイ、準備はできている?」

「もちろん! お姉ちゃんの『ガラスの仮面』の光学反射フレームも、ビルを滑空するための『超硬質ワイヤーウォッチ』のゼンマイも、完璧に調整しておいたよ」


 麗奈は手帳の最初のページを見つめた。そこには、国立美術館の特別収蔵庫に保管されている『嘆きの首飾り』のスケッチが描かれていた。現在の美術館長である新条九郎は、表向きは芸術の保護者を装っているが、裏ではシンジケートと結託し、美術品の密輸で私腹を肥やしている。そして何より、彼は十年前、麗奈の父・宗一郎に偽物鑑定の濡れ衣を着せ、自殺に追い込んだ張本人なのだ。


「新条館長……あなたが父から奪った名誉と、レガリアをすべて取り戻す。それが、私の戦い」

 麗奈は純白の燕尾服とシルクハットを手に取った。父が遺した絶対の鉄則――「怪盗は芸術を愛し、人を救う者。決して人を殺めてはならない」という『不殺』の信念を胸に抱き、彼女は今夜、帝都を騒がせる怪盗「ルナ」として産声を上げる決意を固めた。


 *


 同じ頃、帝都の一等地に立つ近代ビルの三階。『皇感覚調査室』のプレートが掲げられたその場所は、外の雑音を完全に遮断する特殊な防音壁に囲まれていた。


 部屋の中央に置かれた革張りの椅子に、一人の青年が静かに腰掛けていた。皇蓮司――盲目の天才探偵であり、帝都を支配する皇財閥の三男。彼は光を失った瞳を閉じ、微動だにせず、ただ「音」を聴いていた。


 ドアが静かに開く音がした。入ってきたのは、よれよれのトレンチコートを着たベテラン刑事、敷島警部だった。

「蓮司、また厄介な事件だ。新条館長率いる国立美術館から、捜査一課に特別要請があった。近頃、帝都の闇社会で囁かれている怪盗『ルナ』を名乗る者から、近々予告状が届くという噂があるらしい」


 蓮司は表情を変えず、右手の指先を軽く動かした。その動作に伴い、彼の右目の奥に仕込まれた『音響ソナー義眼』が微弱なハミング音を立てる。彼は「舌を鳴らす音(クリック音)」を一つ響かせた。その音波が部屋の壁や家具に当たり、跳ね返ってくるミリ単位の「反響」が、蓮司の脳内に色彩豊かな三次元の空間マップを描き出す。


「敷島さん。その話の前に、部屋の隅のカーテンの影にいる男を、どうにかしてくれないか」

 蓮司が仕込み杖をそちらに向けると、影からツイードジャケットを着た大柄な青年――助手の影山聡が、苦笑いを浮かべながら姿を現した。

「さすがですね、所長。気配を完全に消していたつもりだったのですが」

「君の心拍数は1分間に68回。普段より2回早い。動揺しているね、影山。そして敷島さん、新条館長の身辺には、すでに焦げ付いた美術品密輸の『悪意の音』が漂っている。ルナという怪盗がそれを狙うなら、私はその『呼吸』を聴き取るまでだ」


 蓮司は立ち上がり、漆黒の仕込み杖を床にコツンと響かせた。

「どんなに完璧に変装しようとも、人間の骨格から発せられる足音のピッチ、そして嘘をつく瞬間の声帯の微細な震えまでは隠せない。ルナが美術館に現れるなら、私が設計した最新の『音響トラップ』で、その美しい羽を毟り取って差し上げましょう」


 *


 深夜、羽沢骨董店の地下作戦室。麗奈は月光に透ける特殊な和紙を取り出し、青いインクを吸わせた万年筆を走らせた。


『月光の夜、国立美術館に眠る「嘆きの首飾り」をいただきに参ります。――怪盗ルナ』


 麗奈はガラスの仮面を顔に当て、鏡に映る自身の純白の姿を見つめた。その瞳には、妹を救い、父の無念を晴らすための、決して揺らぐことのない強固な意志が宿っていた。しかし彼女はまだ知らなかった。自身が放つ予定のその予告状が、盲目の天才探偵・皇蓮司という「怪物の耳」に届き、最初から完璧に先読みされる恐怖の始まりであることを。帝都の夜空に、運命の歯車が静かに回り始めた。

HẾT CHƯƠNG

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