深まる昏睡、ジンの遺した奈落への地図
ハリスが去った後の星霜庵は、嵐の後のような静寂と、凍てつく極寒に包まれていた。
バルトロを霜天牢へと送り、仕立て屋ギルドの独占を一時的に打ち砕いたものの、ソウタの心に安堵の兆しは一瞬たりとも訪れなかった。ハリスが去り際に残した「因果があまりにも綺麗に回りすぎている」という冷酷な疑惑の言葉が、破壊された工房の寒気の中に重く澱んでいる。神殿の監査官としての彼の執念は消えておらず、この店は今後、領主軍と神殿の厳重な監視下に置かれることになるだろう。
だが、ソウタにとってそれ以上に切迫していたのは、背後に横たわる妹の命の灯火だった。
「あ……う、にぃ……さん……」
奥の寝室から、かすれた掠れ声が漏れ出た。
ソウタは心臓が跳ね上がるのを感じ、すぐに寝室へと駆け込んだ。ベッドの上で、十四歳の妹リンが、透き通るような青白い顔で苦しそうに寝息を荒くしている。彼女の背中に刻まれた「衰退の星図」から、銀色の魔力光が、まるで決壊したダムから溢れ出す水のように激しく噴き出していた。寝室の壁や床が、彼女の漏れ出した冷気によって物理的に白く凍りつき始めている。
「リン!」
ソウタは左手を伸ばし、リンの体表から立ち上る銀色の魔力光を「漏出魔力の回収法」で必死に集めようとした。右手の親指と人差し指はバルトロの因果反噬によって完全に凍結し、感覚を失っている。そのため、動く左手の指先だけを細かく動かし、大気中に霧散しかけている光の糸を一本の束に紡ぎ直す。極限の集中力が要求される作業だった。一滴でもこぼせば、この極寒の魔力がスラム一帯に溢れ出し、神殿のセンサーに即座に感知されてしまう。
しかし、集めた銀の魔力を注ぎ込もうとした「銀の魔力ボトル」は、すでに限界まで満たされていた。カチリ、とボトルが微震し、内部の過剰な圧力が冷たい火花となって蓋の隙間から漏れ出す。これ以上の魔力を蓄積することは、物理的に不可能だった。
「ソウタ、無茶はやめろ!」
背後から、闇医者のゲンジが部屋に入ってきた。彼はリンの脈を測り、厳しい表情で首を振った。
「魔力の漏出速度が以前の倍以上に跳ね上がっている。ボトルの再注入じゃ、もう命を繋ぎ止められんぞ。ソウタ、この娘の寿命はあと数日……いや、下手をすれば十日も保たん」
ゲンジの宣告は、氷の楔のようにソウタの胸に突き刺さった。
「そんな……。何か、一時的にでも進行を遅らせる薬はないのか、ゲンジ。『星氷融解の軟膏』をリンに……」
「馬鹿を言うな!」ゲンジはソウタの言葉を遮った。「あの軟膏は、お前の凍りついた肉体神経を無理やり融かす劇薬だ。リンの症状は肉体の凍結じゃない。背中に刻まれた『衰退の星図』の幾何学回路そのものが、王都の何者かに魔力を吸い取られる接続端子にされているんだ。根本から星図を縫い直さなければ、この娘の命の糸は完全に擦り切れるぞ!」
数日。その言葉が、ソウタの脳裏に冷酷な死の宣告として響いた。根本から縫い直す。だが、ソウタの今の未熟な技術と通常の糸では、リンの星図にかかる王都からの吸引圧に耐えられない。もっと高純度な星霊糸と、因果の跳ね返りを防ぐ防壁がなければ、縫った瞬間にリンもソウタも因果の嵐に裂かれて死ぬだろう。
ソウタは、亡き師ジンが遺した言葉を思い出した。
『因果のしっぺ返しを欺くには、一切の魔力が通っていない純白の布――無垢の白布が必要だ。それがあれば、運命を縫い直す際の反噬を身代わりに吸い取ってくれる。だが、それは神殿の目を逃れた奈落の底に眠っている』
(奈落の底……氷星洞(ひょうせいどう)か)
ソウタは、作業台の上に置かれた「ジンの古い木製針箱」へと歩み寄った。右手の麻痺した二本の指を庇いながら、左手の指先で針箱の底をそっとなぞる。箱の底面には、一見するとただの装飾に見える、複雑な幾何学模様が立体的にエンボス加工されていた。盲目のソウタにしか読み解けない、ジンが遺した宮廷刺繍の極秘理論の結晶だ。
ソウタがその模様の特定の交差点に、自身の「無宿命体」の微弱な魔力を通した瞬間――。
キィン、と耳奥で高周波の金属音が鳴り響いた。
「うっ……!」
激しい偏頭痛がソウタの脳を直撃する。しかし同時に、彼の「点群脳内再現」が急激に拡張された。暗黒の中に、青い光の点が無数に咲き乱れ、一本の巨大な立体地図を描き出していく。
(これは……氷星洞の立体図面!?)
ジンの針箱の底に隠されていたのは、数十年にわたって神殿が「立ち入り禁止の危険区域」として封印してきた、忘れられた廃坑「氷星洞」の完全な3Dマップだった。マップの最深部、地殻の歪みのさらに奥に、青く輝く隠し工房の座標が示されている。そこに、ジンの遺した「初代星霊の刺繍台」と、因果を欺く「無垢の白布」が封印されているのだ。
しかし、図面を脳内に展開し続ける負荷は凄まじかった。ソウタの右手の凍結が、人差し指の第二関節まで急速に這い上がり、青い結晶が皮膚を覆っていく。感覚がさらに失われていく恐怖が、彼の胸を締め付けた。
「はぁ、はぁ……」
ソウタは針箱から手を離し、激しい呼吸を整えた。
「ルートは分かった。だが、廃坑の地脈は現在、領主の星霊炉の過負荷で極めて不安定だ。盲目の僕一人では、突発的な崩落や物理的な罠を回避しきれない。廃坑の構造を完全に知る『目』が必要だ」
ソウタは、スラムの片隅に住む、片脚を失った古い炭鉱夫の老人、オルガの存在を思い出した。彼はかつて炭鉱事故の際、ジンに命を救われた古い友人だった。
吹雪が吹き荒れる中、ソウタは外套を羽織り、オルガの住処へと向かった。オルガの薄暗い小屋の扉を開けると、石炭と安酒の匂いが鼻を突いた。
「盲目の仕立て屋が、何の用だ?」
オルガは木製の松葉杖に寄りかかり、不機嫌そうにソウタを睨みつけた。だが、ソウタがジンの木製針箱をテーブルの上に静かに置いた瞬間、老人の心音が激しく乱れた。
「それは……ジンの針箱か! お前、なぜそれを持っている?」
「僕はジンの弟子です。オルガさん、リンの命を救うために、氷星洞の最深部へ行かなければならない。僕に廃坑の案内をしてください」
「正気か! あそこは神殿が鉄鎖で封印した禁域だ! それに地脈が荒れていて、いつ崩落してもおかしくない。ただの自殺志願だ!」
「リンの星図はあと数日しか保たない」ソウタは、オルガの目をまっすぐに見つめた。目隠しの奥の「空白」が、老人の魂を射抜くようだった。「ジンの遺産を回収できなければ、妹は死ぬ。僕は、二度と家族を失いたくない。オルガさん、あなたもかつて、ジンに命を救われたはずだ」
オルガは絶句した。彼の心臓が、過去の記憶と葛藤で激しく脈打つ音が、ソウタの耳に克明に聞こえていた。やがて、オルガは深くため息をつき、松葉杖を床に強く叩きつけた。
「……相変わらず、ジンの弟子は頑固で命知らずだな。わかった、案内してやる。だが、お前が仕立てたその細い針と糸だけで、廃坑の魔導トラップを突破できると思うなよ。カイルが鍛造してくれた合金針が、物理的な支えになるはずだ」
「十分です。僕には『視える』。世界のほつれが」
深夜。ソウタとオルガは、吹雪に紛れて氷星洞の入り口へと到達した。
しかし、ジンの立体地図が指し示す廃坑の入り口の前に立った瞬間、ソウタの「点群世界」に、不穏な影が投影された。巨大な縦穴の入り口は、領主軍が「立ち入り禁止の危険区域」として重い鉄鎖によって厳重に封印されており、その鉄鎖には、侵入者の魔力を感知して爆発する赤い警告のルーンが明滅していた。
さらに――。
ザッ、ザッ、と雪を踏みしめる重い足音が、暗闇の奥からこちらに向かって近づいてくる。領主軍の哨兵の巡回だ。
「ソウタ、来るぞ……!」
オルガが松葉杖を握りしめ、息を殺した。ソウタの指先から、冷たい大気に向かって、銀色の星霊糸が静かに伸びていく。
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