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反逆の針目、スラムを温める衣

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煮詰めた星霜草の、青臭くもどこか甘い香りが、古い木造の工房に満ちていた。


「……にい、さん」


細く、消え入りそうな声が静寂を破る。ソウタは手探りでベッドの傍らへ進み、妹リンの額にそっと触れた。野生の星霜草から煎じた薬を飲ませて数時間。シーツを濡らしていた冷たい汗は引き、肌には微かに温かみが戻っている。背中の「衰退の星図」から漏れ出していた銀色の魔力光も、今はガラス瓶の底に沈む澱のように、静かに凪いでいた。


「大丈夫だ、リン。薬は効いている。もう、寒くはない」


ソウタは微笑み、妹の薄青い髪を優しく撫でた。しかし、その手を引き戻した瞬間、彼の胸の奥に冷たい楔が打ち込まれる。


右手の親指から、人差し指の先端にかけて――皮膚が完全に青く透き通り、感覚を失っていた。星霜の森で魔獣グラキエスの呪いを解きほぐした代償。因果の反噬は、確実にソウタの肉体を蝕み、結晶化を進めている。指先を擦り合わせても、そこには冷たい摩擦の感触があるだけで、神経の通う温もりは一切感じられなかった。


(指先が、死んでいく。だが……まだ針は持てる。人差し指の腹が生きている限り、僕は糸を操れる)


ソウタは麻布の目隠しの奥で、静かに奥歯を噛み締めた。リンが命を繋ぎ止めた温かい日常。それを守るためなら、右腕の一本など、支払うべき安い代償に過ぎない。


「ソウタ兄さん……」


工房の扉が小さく開き、十歳の赤毛の助手、テオが潜り込んできた。その小さな肩は、外の極寒の空気で凍りつき、ガタガタと震えている。


「スラムの様子はどうだ、テオ」


ソウタが尋ねると、テオは泣き出しそうな声を絞り出した。


「ひどいよ……。仕立て屋ギルドのボス、バルトロの野郎が、領主の兵隊と結託して『辺境絹』を全部買い占めたんだ。暖房用の『星霊石』も、昨日から価格が十倍に跳ね上がってる。みんな、家の中で震えてる。このままだと、今夜の寒波で、スラムの半分が凍死しちゃうよ!」


ソウタの脳裏に、テオの言葉と同調して、霧氷街の「点群地図」が不気味な灰色に染まっていく。暖を奪われ、凍てつく泥の家々で身を寄せ合う平民たちの、弱々しい心音。それはまるで、吹雪の中に晒された蝋燭の灯火のようだった。


「ギルドの倉庫には、まだ布地が山ほどあるんだ!」テオが悔しそうに拳を握る。「僕、夜中に忍び込んで盗み出そうとしたんだ。でも、入り口に神殿の重い魔導結界が張られてて……触ることもできなかった。ごめんなさい、兄さん。僕がもっと役に立てれば……」


「謝る必要はない、テオ。危険な真似をさせてすまなかった」


ソウタはテオの頭を優しく撫で、思考を巡らせた。バルトロは「法的な独占権」を盾に、平民の命を人質に取って暴利を貪っている。正面から抗議したところで、領主軍の武力で圧殺されるだけだ。ならば、職人として、彼らのルールを裏側から解きほぐすまで。


「布地がないなら、作ればいい」


「え……? でも、ギルドの許可がないと糸も買えないよ?」


「僕たちには、ハンスさんが森から持ち帰ってくれた『星霜草の繊維』がある。それに、廃品回収広場から拾ってきた古い魔法回路の銅線もある。これらを組み合わせれば、辺境絹など比較にならない防寒布が織れるはずだ」


ソウタは作業台に向かい、感覚を失った右手で慎重に星霜草の茎を掴んだ。指先の熱を完全にゼロにし、大気中の星光と同調させながら、極細の繊維を一本ずつ引き出す。これこそが、ジンの手記に記されていた「星霜草糸紡ぎ」の技術だ。引き出した銀の繊維に、廃棄された魔導具の極細の銅線を絡め、一本の強靭な魔力糸へと紡ぎ上げていく。


紡がれた糸は、ソウタの感覚の中で、冷たくも鋭い銀色の光を放っていた。


「テオ、スラムの住民たちの『擦り切れた古い上着』を、気づかれないように集めてくれ。仕立て直すという名目でいい」


「わかった! すぐに行ってくる!」


テオが嵐のように飛び出していった後、ソウタは一人、作業台に向かった。古い木製の針箱から一本の縫い針を取り出す。右手の親指と人差し指が凍りついているため、針の穴に糸を通すだけでも、通常の数倍の時間がかかった。だが、ソウタは焦らない。呼吸を整え、世界の幾何学的な流れに自身の意識を同調させていく。


やがて、テオが運んできたボロボロの平民たちの衣服が、作業台の上に山積みにされた。どれも凍った泥で汚れ、生地は薄く擦り切れている。


ソウタは針を執った。彼が目指すのは「素糸の領域」。布地の繊維の一本一本に自身の無宿命魔力を通し、物理的な強度と保温性を極限まで高める基礎技術だ。


チク、チク、と静かな針音が工房に響く。


右手の感覚がないため、針が皮膚を突き刺し、赤い血が布地に滲むことが何度もあった。だが、ソウタは眉一つ動かさず、ただ機械のように正確に針を動かし続けた。衣服の裏地、目立たない縫い目の隙間に、彼は防寒の幾何学紋様――「針紋」を隠すように刺繍していった。表向きはただのツギハギの修理に見えるが、その内側には、着用者の周囲の冷気を無害な熱源へと変換する完璧な魔力回路が縫い込まれている。


(これで、彼らの命の糸は繋がる)


夜が明ける頃、数十着の防寒着が完成した。どれも見た目はただのボロ着だが、ソウタの感覚の中では、内側から穏やかな青白い星光を放つ「奇跡の衣」へと生まれ変わっていた。


テオの手によって、衣服はスラムの住民たちへと秘密裏に返却された。


その日の午後、ソウタはスラムの片隅で、仕立て直したボロ上着を羽織った老女の姿を、音と温度の変化で感知した。それまで寒さで青ざめ、死を待つだけだった彼女の心音が、衣服を身に纏った瞬間に、トクトクと力強い温かなリズムを取り戻していく。老女は自身の身体を見つめ、信じられないといった様子で、目に大粒の涙を浮かべた。


「温かい……。まるで、お日様を羽織っているみたいだ……。仕立て屋の坊や、ありがとう、本当にありがとう……」


周囲の平民たちからも、次々と歓声が上がる。ソウタの「針目」が、凍てつくスラムに、確かに小さな「希望の火」を灯した瞬間だった。


だが、その温もりを打ち消すように、冷酷な現実が星霜庵の扉を叩く。


深夜、工房の裏口から、全身を雪で濡らしたエリナが飛び込んできた。彼女の心臓は、恐怖と焦燥で激しく脈打っている。


「ソウタ、大変よ……!」エリナは息を切らし、ソウタの肩を掴んだ。「バルトロが、あんたの店を領主軍に通報したわ。『星霜庵がギルドの許可なく違法な私的刺繍を行い、平民たちに魔導具を配っている』って! 明日の朝、あの無慈悲な徴税官ハリスが、衛兵たちを連れてここを強制捜査しにくる!」


「ハリスが……」


ソウタの脳裏に、あの青く発光する魔導ランタンを携えた冷酷な男の姿が浮かび上がる。ハリスの持つスキャナーは、衣服の内側に隠された微弱な「針紋」の魔力反応を確実に見つけ出すだろう。そうなれば、私的刺繍の罪で両手を切断され、リンもろとも霜天牢へ送られるのは確実だ。


「逃げて、ソウタ! 今すぐリンちゃんを連れて、この街を出るのよ!」


エリナの悲痛な叫びが、狭い工房に響き渡る。しかし、ソウタは静かに首を振った。


「ありがとう、エリナ。だけど、今のリンの身体では、この吹雪の中を移動することはできない。それに……僕が逃げれば、防寒着を受け取ったスラムの人々が、代わりに神殿の怒りに晒される」


「でも、このままじゃあんたが……!」


「方法はある」


ソウタは、感覚を失った右手の指先をそっと見つめた。その指先には、紡いだばかりの星霜草の銀糸が、静かに巻き付いている。


「バルトロが法と権力で僕たちを縛るなら、僕は僕の技術で、彼らの幾何学を欺くだけだ」


翌朝。霧氷街を覆う冷たい星霊の霧が、星霜庵の窓を白く染めていた。リンは静かに眠り、テオはソウタの傍らで、恐怖に身体を硬くさせていた。


ガツン! と、重厚なブーツが木製の扉を物理的に蹴り破る音が、静寂を暴力的に切り裂いた。


「違法私的刺繍の容疑者、ソウタだな」


冷酷な声と共に、部屋の中に冷たい風が吹き込む。扉の向こうに立っていたのは、青く怪しく発光する「星霜の魔導ランタン」を掲げた徴税官ハリス。そして、その後ろには、抜刀した領主軍の衛兵たちが、星霜庵の狭い入り口を完全に包囲していた。


ハリスがランタンをソウタの顔へと向け、不敵な笑みを浮かべる。その手には、神殿が発行した、赤く光る家宅捜索令状が握られていた。

HẾT CHƯƠNG

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