ほぐされた呪い、星霊の狼
「そこまでだ、泥鼠め」
領主直属衛兵団の隊長ブラッドの、氷のように冷徹な声が岩陰に響いた。その直後、鎖に繋がれた魔導犬たちの不気味な咆哮が、凍てついた霧を激しく切り裂く。赤い瞳をらんらんと輝かせた三頭の獣は、雪の上に鼻を押し付け、確実にソウタたちの熱源を捉えかけていた。
岩石の死角に身を伏せるソウタの額から、冷たい汗が流れ落ちる。目隠しの奥で、彼の「点群脳内再現」は極限まで稼働していた。ブラッドの重厚な「氷霜の鎧」が発する魔力の波形、そして魔導犬たちの肺から吐き出される熱の渦が、数億の青い光の点となって脳裏に立体的に描き出されている。
距離は、わずか七メートル。
(……あと三十秒。これ以上『運命偽造の外套』で魔力を遮断し続ければ、僕の心臓が先に凍りつく)
極限の寒さがソウタの皮膚を直接突き刺し、肺を凍らせようとしていた。右手の親指から手首にかけて、青く透き通る「星氷化」の結晶がじわじわと侵食を広げている。闇医者ゲンジから託された「星氷融解の軟膏」の薬効は、極寒の魔力消費によってすでに限界を迎えていた。
「ハンスさん、合図と同時に左へ跳んでください」
ソウタは隣で息を殺すハンスに、声にならない微振動で伝えた。
「おい、ソウタ、正気か? 囲まれているんだぞ」
「僕の靴の『ほつれ』を、一瞬だけ解放します。僕の影に隠れて、一気に地脈の死角へ」
ソウタは「静寂の靴」のソールに施された刺繍糸に、自身の「無宿命」の魔力を逆流させた。音波を吸収するための幾何学模様が、摩擦熱でパチパチと音を立てて焼き切れかける。しかしその一瞬、靴底から放たれた不規則な魔力のノイズが、魔導犬たちの鋭敏な嗅覚と聴覚を完全に狂わせた。
「今です!」
ソウタの叫びと同時に、ハンスが雪を蹴り、逆方向へと氷獣の骨を投げつけた。魔導犬たちが狂ったようにデコイの方向へ吠え立てる。ブラッドが「星図スキャナー」の杖をそちらへ向けた刹那、ソウタたちはセンサーの杭の死角をすり抜け、吹雪が吹き荒れる森の深部へと影のように滑り込んだ。
背後からブラッドの怒号が聞こえたが、それもすぐに、凍てつく樹々のざわめきの中に掻き消されていった。
◇
二人が辿り着いたのは、森の最深部――「星涙の滝(せいるいのたき)」だった。
ソウタの脳裏に、圧倒的な光景が点群データとして再構築される。そこは、流れ落ちる巨大な水流が瞬時に凍りついてできた、青く輝く氷の滝だった。滝壺の周囲には、夜空の星光が屈折して固まった「starlight crystal」が、無数の鋭い針のように地面から突き出て、冷たくも美しい青白色の光を放っている。
しかし、その神秘的な静寂を切り裂くように、地響きが轟いた。
ズシン、ズシン。
凍りついた大気が激しく震え、ソウタの脳内の立体マップが一瞬にして警告の「赤」に染まる。滝の奥から現れたのは、全長五メートルを超える巨大な氷の狼――星霜の魔獣「グラキエス」だった。
全身を青く輝く硬質な結晶で覆われたその巨獣は、しかし、気高い野生の姿を失っていた。その背中には、悍ましい漆黒の魔力糸が、肉に直接縫い付けられるようにして幾何学的な紋様を描いていたのだ。
「……隷属の星図」
ソウタは呟いた。領主アルフレッドのお抱え呪術師ゾラが施した、強制使役の呪い糸。グラキエスの本来の気高い心音は、その黒い糸によって物理的に締め付けられ、狂乱と苦痛のテンポへと歪められていた。赤い瞳を血走らせたグラキエスが、ソウタたちを侵入者と見なし、絶対零度の咆哮を上げる。
「グルゥゥァァァッ!」
咆哮と共に、滝壺の周囲の空気が一瞬にして凍結した。大気中の水分が結晶化し、数十発の鋭利な氷の弾丸となって、猛烈な速度でソウタたちへと降り注ぐ。
「させるかよ!」
ハンスが素早く背中の大弓を引き絞り、冷気を切り裂く魔導矢を放った。矢はグラキエスの額に命中して火花を散らしたが、頑強な氷の皮膚に弾かれる。グラキエスはさらに狂暴化し、巨大な氷の爪をハンスに向けて振り下ろした。
「ハンスさん!」
鈍い衝撃音。ハンスの身体が、氷の岩壁へと叩きつけられた。肩の皮膚を深く切り裂かれ、血が白い雪を赤く染める。ハンスは苦悶の声を上げ、その場に倒れ伏した。動けない。
グラキエスの赤い瞳が、残された盲目の青年へと向けられる。巨獣の顎が開き、その奥に再び絶対零度の魔力が集束していく。射出される氷結弾の軌道が、ソウタの脳内で光の線となって交差した。
(逃げるスペースはない。僕の『静寂の靴』の糸はもう限界だ。ならば――解くしかない)
ソウタは懐から、亡き師の形見である「星霊の銀針」を抜き放った。指先から「無宿命体」の空白の魔力を針に通すと、極細の銀針が眩い銀色に発光する。
「ほつれ崩し」
飛来する巨大な氷結弾。その幾何学的な構造の中心にうごめく、魔力回路の『結び目のズレ(ほつれ)』を、ソウタの超感覚は正確に捉えていた。針先がわずか一ミリでもブレれば、自身の肉体が物理的に粉砕される極限の恐怖。
ソウタは一歩も退かず、迫り来る氷の弾丸の幾何学的中心へと、銀針の先端を正確に突き刺した。
チッ、と硬質な音が響く。
次の瞬間、絶対零度の氷塊は、まるで解けた毛糸のように物理的な構造を失い、ただの無害な光の粒子となってソウタの周囲に霧散した。
「……グル、ア?」
自身の魔法が完全に分解されたことに、グラキエスが一瞬、困惑の声を漏らす。その隙を、ソウタは逃さなかった。靴底の刺繍糸が完全に焼き切れるのを覚悟で、ソウタは雪原を蹴った。
音のない、極限の突進。
グラキエスが気づいた時には、ソウタの華奢な身体は、その巨獣の凍てつく毛並みへと飛び移っていた。衣服が触れた瞬間から、白く凍りつき始める。毛の一本一本が氷の針のようであり、体温が急速に奪われ、意識が遠のきかける。
(まだだ……まだ、僕の指先は動く! リンの命を繋ぐために、こんなところで凍りつくわけにはいかない!)
ソウタは巨獣の背中へと這い上がり、その中心にうごめく黒い呪いの糸――「隷属の星図」の結び目を探し当てた。ゾラの血が染み込んだその糸は、グラキエスの肉の経絡に深く食い込み、脈打っていた。ソウタは「星霊の銀針」を黒い結び目の中心へと突き立てた。
「星図解体(アンラベル)」
指先から自身の「無宿命」の空白の魔力を一気に流し込み、呪いの幾何学パターンを内側から狂わせる。一本、また一本。黒い糸が銀針によって物理的に解きほぐされていく。グラキエスが激しい苦痛に暴れ狂い、ソウタの身体を振り落とそうと激しく身悶えした。遠心力と極寒の冷気がソウタを襲うが、彼は左手で凍った毛を必死に掴み、右手で針を動かし続けた。
(解け……解けろ!)
黒い結び目が、完全に解きほぐされる――。
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