闇医者の忠告、凍てつく森の影
カラン、と寂しげな金属音が、静まり返った星霜庵の床に響いた。
それは、ソウタが幼い頃から幾万回と握り締めてきた仕立て針が、彼の指先から滑り落ちた音だった。
ソウタは古い作業台の前に立ち、麻布の目隠しの奥にある、光を失った両目をそっと伏せた。右手の親指を持ち上げようとする。しかし、脳からの命令は、手首の先で冷たい壁に突き当たったかのように遮断されていた。親指の皮膚は硬く、青く透き通る結晶――「星氷化」の呪いに侵食されている。触覚はおろか、温度を感じる力さえも完全に失われていた。
「……これが、因果を弄んだ代償か」
ソウタは静かに呟き、左手で硬直した右の親指を包み込んだ。凍てつくような冷気が、左の指先を通じて伝わってくる。昨夜、花売りの少女セラの「三等星」の星図を「五等星」へと偽造した。平民が不当に天命を奪われる不条理を許せなかった。だが、世界の因果律を書き換えたしっぺ返しは、確実に彼の肉体を蝕み始めていた。
奥の部屋から、微かな、しかし酷く不規則な呼吸音が聞こえてくる。妹、リンの寝息だ。
ソウタは音もなく歩を進め、リンの枕元に立った。彼の脳内に広がる「点群の立体世界」には、リンの身体から銀色の魔力が絶え間なく立ち上り、霧のように霧散していく光景が青白く描き出されていた。生まれながらに刻まれた「衰退の星図」が、彼女の生命力を体外へと垂れ流し続けている。
枕元に置かれた「銀の魔力ボトル」に触れる。カイルが鍛え上げたボトルの表面は、限界まで充填された魔力の圧力でカタカタと微震していた。リンから漏れ出た魔力を一時的に保存し、彼女の体内に再注入するための命綱。だが、このボトルの許容量はもう限界だ。
(ボトルが完全に満たされれば、これ以上の魔力回収はできない。そうなれば、リンの星図は数週間のうちに枯渇し、魂ごと凍りつく……)
ソウタの胸を、冷たい焦燥が締め付けた。その時、星霜庵の木扉が激しく叩かれた。重く、急かすような、だが聞き慣れたリズムの足音。
ソウタが鍵を開けると、吹雪の冷気と共に、苦い薬草と安煙草の臭いを纏った男が滑り込んできた。スラムの地下で違法な診療所を営む闇医者、ゲンジだった。
「ソウタ、リンの様子はどうだ?」
ゲンジは外套に積もった雪を乱暴に払い落とすと、ソウタの返事を待たずに奥の寝室へと直行した。ソウタは無言でその後を追う。
ゲンジはリンの枕元に膝をつき、彼女の細い手首を掴んで脈を測った。彼の心臓が、深刻な緊張のテンポを刻み始めるのをソウタの耳は逃さなかった。
「……チッ、最悪だな。魔力の漏出速度が以前の倍以上に跳ね上がっている。ボトルの再注入も追いついていない。ソウタ、このままでは数週間……いや、下手をすれば十日も保たんぞ」
ゲンジの宣告は、氷の楔のように部屋の空気を凍らせた。
「そんな……。何か、一時的にでも進行を遅らせる薬はないのか、ゲンジ」
「あるわけがないだろう。これは病気じゃない、星図そのものの破綻だ。神殿が定めた不変の法が、この娘の肉体を内側から削り取っているんだ。それを止める薬など、この世のどこにも――」
言いかけたゲンジの視線が、不自然にソウタの右手に留まった。ソウタは無意識に、結晶化した右の親指を上着の袖の中に隠そうとした。しかし、長年スラムの修羅場をくぐり抜けてきた闇医者の目は欺けなかった。
「おい、その右手を見せろ」
ゲンジの声から、先ほどの焦りとは異なる、怒りに満ちた鋭さが宿った。
「何でもない。ただの軽い凍傷だ」
「嘘をつくな! お前の心音が激しく乱れているぞ!」
ゲンジはソウタの右腕を強引に掴み取り、袖を乱暴に捲り上げた。露わになったのは、親指の付け根から手首にかけて、青く透き通る結晶と化した「星氷化」の皮膚だった。大気中の微弱な星光を反射して、それは不気味なほど美しく輝いていた。
「……お前、またやったな」
ゲンジの鼓動が、激しい怒りと深い失望のテンポへと変わる。
「セラを救うためだった。ハリスのランタンを狂わせ、彼女の星図を偽装するには、あれしかなかったんだ」
ソウタは静かに、しかし断固とした口調で言った。だが、ゲンジは彼の胸ぐらを掴み、壁に押し付けた。
「馬鹿野郎が! 他人の運命を繕う前に、お前自身の命の糸が擦り切れるぞ! お前は生まれつき星図を持たない『無宿命体』だ。運命の鎖を持たないからこそ他人の星図を縫い直せるが、その代償はお前の肉体に直接跳ね返る! 忘れたわけではあるまい!」
ゲンジの息が、ソウタの目隠しを揺らす。その鼓動の奥には、激しい怒りと共に、深い恐怖の残響が眠っていた。
「占星神殿の奴らはな、平民の星図をただの家畜の烙印としか思っていない。逆らう者は容赦なく使い潰す。私の家族も……奴らの非道な『星図適合実験』の犠牲になって、生きたまま魔力を吸い尽くされた。お前が一人で抗えるような相手じゃないんだ!」
ゲンジの叫びは、彼自身の消えない傷跡の告白でもあった。ソウタは壁に背を預けたまま、胸ぐらを掴むゲンジの手の上に、そっと左手を重ねた。
「わかっている、ゲンジ。神殿の恐ろしさも、自分の愚かさも。でも……」
ソウタは顔を上げ、光のない両目をリンの眠るベッドへと向けた。
「僕たちの母親は、この辺境の寒波に耐えかねて凍死した。あの時、僕には何もできなかった。だが、今は違う。この指先に糸を感じる力がある。リンまで同じように冷え切った骸にさせるわけにはいかないんだ。そのためなら、僕の右腕が一本、完全に氷に閉ざされようとも構わない」
ソウタの「絶対に譲らない鉄の意志」が、静かな言葉となって部屋に満ちた。ゲンジはソウタの心音をじっと聞き取っていたが、やがて、諦めたように深く、長い溜め息を吐き、胸ぐらを掴んでいた手を離した。
「……狂ってやがる。ジンに仕込まれた職人のプライドが、お前の脳味噌を完全に麻痺させたらしいな」
ゲンジは外套の内ポケットを探り、青いガラス瓶をソウタの作業台の上に乱暴に置いた。瓶の中には、不気味に揺らめく青い軟膏が入っていた。
「『星氷融解の軟膏』だ。先住民族の秘薬『陽だまりの草』を調合して作った。それを凍りついた皮膚に塗れ。一時的に凍った神経が融解し、針仕事に必要な触覚が戻る」
「ゲンジ、これは……」
「勘違いするな。治療薬じゃない、ただの劇薬だ。塗った瞬間、凍りついた血管と神経が無理やり引き裂かれるような激痛が走る。一日三回以上の使用は皮膚の壊死を招き、結晶化の進行をさらに早める。お前の寿命を前借りするだけの悪魔の薬だ」
ゲンジは冷たく言い放ち、出口へと歩き出した。
「リンの星図を根本から修復するには、どうすればいい?」
ソウタの問いに、ゲンジは足を止めた。振り返ることなく、絞り出すような声で告げる。
「星霜の森の最深部に自生する野生の『星霜草』。その極上の繊維から紡いだ星霊糸と、満月の夜にしか採取できない『星光の露』が必要だ。だが、あの森は領主アルフレッドの厳重な禁域だ。侵入すれば即座に処刑される。お前のような盲目が立ち入れば、魔力に狂った氷獣の餌食になるのがオチだ」
「ありがとう、ゲンジ」
「感謝される筋合いはない。私はお前たちが死ぬのを見たくないだけだ」
闇医者はそれだけを残し、吹雪の闇の中へと去っていった。
一人残されたソウタは、作業台の上の青いガラス瓶を見つめた。右手の親指にそっと触れる。やはり冷たい。彼は意を決して瓶の蓋を開け、指先で軟膏を掬い取ると、結晶化した親指へと塗り込んだ。
「――っ、あ、がっ……!」
凄まじい衝撃がソウタの脳を突き抜けた。ゲンジの言葉通り、凍りついた肉体の内側で、何千本もの針が一斉に神経を突き刺し、引き裂くような激痛が荒れ狂う。ソウタは作業台にしがみつき、歯を食いしばって絶叫を堪えた。全身から冷たい汗が吹き出し、視界(点群世界)が真っ赤なノイズで埋め尽くされる。
数分間の地獄のような苦痛の後、嵐が去るように痛みが引いていった。
ソウタは恐る恐る右手の親指を動かした。動く。冷たい大気の温度が、微かに、だが確かに皮膚に伝わってきた。彼は床に落ちていた仕立て針を拾い上げた。指先が、針の冷たさと金属の張力を正確に記憶していた。
「これなら……まだ縫える」
ソウタは針を握り締め、静かに立ち上がった。リンを救うため、立ち入り禁止の「星霜の森」へ潜入する。そのための準備を始めようとしたその時、庵の裏口の扉が勢いよく開き、冷たい風と共に十歳の助手テオが飛び込んできた。
「ソウタ兄さん! 大変だ、大変だよ!」
テオは息を切らし、肩を激しく上下させながら叫んだ。
「どうした、テオ。落ち着いて話せ」
「領主軍のブラッド隊長が率いる精鋭衛兵団が、さっき『星霜の森』の入り口に到着したんだ! 大規模な魔獣狩りを行うって言って、森の境界線に魔導センサーの杭を何本も打ち込んで、警備をいつもの五倍以上に強化してる! スラムの平民は、森に近づくだけでその場で切り捨てられるって……!」
テオの持ってきた情報は、ソウタの潜入計画を根底から打ち砕く最悪の知らせだった。神殿の魔力センサーが張り巡らされた森へ、盲目のソウタが一人で潜入するのは、もはや自殺行為を通り越して不可能に近い。
「ソウタ兄さん、どうするの……? リンお姉ちゃん、もう時間がないんでしょう?」
テオが不安そうにソウタの袖を引っ張る。
ソウタは麻布の目隠しの奥で、静かに思考を研ぎ澄ませた。右手の合金針が、彼の指先で冷たく光っている。
(正面からの潜入は不可能。だが、衛兵団の目を盗み、センサーの死角を突くルートが必ずあるはずだ。そのためには、あの男の力が必要だ)
ソウタはテオの肩にそっと手を置いた。
「テオ、お前はここに残ってリンを看ていてくれ。僕はこれから、森の抜け道を誰よりも熟知している凄腕の狩人――ハンスに接触する」
Chưa có bình luận nào. Hãy là người đầu tiên!