仮縫いの身代わり、青き指先
「……な、何だと!?」
徴税官ハリスの驚愕に満ちた絶叫が、極寒の広場に鋭く響き渡った。
ハリスが握る「星霜の魔導ランタン」の青い発光が、まるで生命活動を停止したかのように一瞬で掻き消えていた。ランタンの底面にある魔力吸入孔。そこに、ソウタが放った目に見えない星霊糸が絡みつき、吸気の幾何学回路を物理的に「仮縫い(バステ)」して目詰まりを起こさせたのだ。ランタンは不気味な金属の摩擦音を立て、ただの冷え切った鉄塊と化していた。
「故障か? この寒さのせいで地脈との同期が狂ったのか……!」
ハリスは苛立たしげにランタンを揺すり、起動レバーを何度も乱暴に叩いた。背後に控える重装歩兵たちも、突然の魔導具の不調にざわめき始める。周囲を包む冷たい星霊の霧が、彼らの困惑を吸い込んでさらに濃くなっていくようだった。
ソウタは麻布の目隠しの奥で、静かに「心音の糸聞き」を研ぎ澄ませていた。ハリスの心臓が、想定外の事態への焦りと怒りで激しく脈打っている。その不規則な鼓動のテンポは、ソウタにとってハリスの視線が今どこに向いているかを正確に指し示す羅針盤だった。
(今だ。ハリスの意識がランタンの復旧に向いている、この短い時間しかない)
ソウタはテオの肩をそっと叩き、耳元で囁いた。
「テオ、僕をセラの側へ誘導してくれ。自然に、ただの哀れな仕立て屋としてだ」
「う、うん……わかった、兄さん」
テオは衛兵に突き飛ばされた膝の痛みに耐えながら、ソウタの手を引き、這うようにして雪の上にへたり込んでいるセラの元へと歩み寄った。
「お嬢ちゃん、大丈夫かい? 酷い目に遭ったね」
ソウタはハリスの視界の死角に入るよう、セラの前に膝をついた。盲目の青年が、怯える少女を気遣う無害な姿。ハリスの心音は、ソウタたちを単なる「無能な平民の群れ」として処理しており、警戒のトーンは全く上がっていない。
ソウタはそっとセラの肩に触れた。その瞬間、彼の脳内に再現された「点群の立体世界」に、セラの背中から立ち上る魔力の波形が鮮明に浮かび上がった。
(美しい……。やはり、これは純粋な『三等星』の星図だ)
セラの幼い身体には、平民には決して現れるはずのない、立体的に交差する美しい星座の幾何学が眠っていた。もしハリスのランタンが再起動すれば、彼女のこの輝かしい才能と寿命は、瞬時に吸い尽くされてしまうだろう。
「靴が……破れているね」
ソウタはセラの足元に触れた。彼女の右足の古い革靴は、底がすっかり擦り切れ、凍った泥が入り込んでいた。ソウタはセラの目を見つめるように顔を向け、穏やかな声で言った。
「私は仕立て屋だ。こんな極寒の泥の上で、破れた靴のままでは足が腐ってしまう。お詫びと言ってはなんだが、私が今ここで、この靴を直してあげよう」
「え……? でも、仕立て屋のお兄ちゃん……」
セラが戸惑う中、ソウタは素早い手つきで彼女の右足から革靴を脱がせた。そして、隣に立つ木製の荷車の陰に身を寄せ、懐から「星霜草の繊維」から紡いだ極細の糸と、一本の普通の縫い針を取り出した。まだ「星霊の銀針」を使うわけにはいかない。神殿の鋭い魔力センサーが周囲を警戒しているからだ。
ソウタは指先の触覚だけで、靴底の擦り切れた革の繊維を読み取った。彼の脳内で、セラの「三等星」の星図の接続点を、一時的に別の幾何学パターンで覆い隠す数式が高速で組み立てられていく。目指すは、凡庸な平民の証である「五等星」のダミーデータだ。衣服の補強に見せかけ、靴底に「偽装星霜紋」の刺繍を施すことで、ハリスの測定器が発する光の波形を屈折させ、欺く。
(星霜草の糸を針に通す。繊維の摩擦、張力、よし――)
ソウタは無音で針を動かし始めた。極寒の大気の中で、彼の指先だけが正確な円を描くように動く。一針、また一針。
しかし、その瞬間、ソウタの「点群世界」の端で、不気味な赤いノイズが走った。
(しまっ――!)
ハリスが叩いていたランタンから、残留していた魔力探知波が不規則に放射されたのだ。その微弱なスキャン光が、ソウタが通していた星霜草の糸に接触した。魔力同士が干渉し、糸の先端がパチパチと青い火花を散らして微かに発火する。このままでは、違法な刺繍魔術の行使がハリスに一瞬で露見してしまう。
ソウタの心臓が跳ね上がった。ハリスの心音が、不審な魔力反応を察知して急速に緊張のテンポへと移行していくのが聞こえる。
(落ち着け。まだ回路は破綻していない。ノイズを吸収する触媒が必要だ)
ソウタは迷わなかった。彼は自身の左手の指先を、針の先端で深く突き刺した。ぷつりと赤い血の玉が湧き上がる。ソウタはその自身の血を、星霜草の糸に素早く擦り込ませた。
「無宿命体」であるソウタの血液は、あらゆる星の運命から切り離された「完全な空白」だ。血を吸った糸は、ハリスの探知波を底なしの虚無へと吸い込み、発火を瞬時に鎮火させた。赤い血が染み込んだ青白い糸は、不気味なほど静かに、革靴の底へと吸い込まれていく。
ソウタの指先が、肉眼では捉えられないほどの速度で残りの針目を縫い進める。セラの「三等星」の接続点を一時的に迂回させ、単純な一本の線へと繋ぎ直す幾何学的結び目。これこそが、ジンの手記に記されていた禁忌の技術「運命の偽造」の一端だった。
「よし……できた」
ソウタは素早くセラの足に靴を履かせ直した。その直後、ハリスの持つランタンが、鋭い金属音と共に再び青い光を放ち始めた。
「動いたぞ! 頑丈なだけが取り柄の神殿の魔導具が、この程度の寒さで壊れるはずがないからな!」
ハリスは勝ち誇ったように叫び、再びセラに向かって歩み寄ってきた。彼の心音は、再び傲慢なリズムへと戻っている。
「おい、盲目の仕立て屋。いつまでその小娘を庇っている? 邪魔をするなら、お前も同罪として星の残滓を徴収するぞ」
「申し訳ございません、徴税官様。ただ、この子の靴があまりにも痛々しかったので、老婆心ながら手当てをしておりました」
ソウタは頭を深く下げ、セラをそっとハリスの前に押し出した。セラは恐怖で身体を震わせながら、ハリスの前に立たされる。
「ふん、無駄な足掻きを。神殿の占星盤が示したのだ、この娘には相応の『星の残滓』が宿っているはずだ」
ハリスは冷酷な笑みを浮かべ、稼働した魔導ランタンの先端をセラの背中に向けた。ランタンから放たれた青い探知光が、セラの背中を包み込む。広場の中央にある巨大な「星図測定盤」の針が、カタカタと音を立てて回り始めた。
ソウタは、セラの靴底から自身の指先へと繋がっている、目に見えない「因果の糸」を微かに握りしめた。
(頼む、耐えてくれ……)
測定盤の針が、一時的に「三等星」の領域を指しかけ、激しく揺れ動いた。ハリスの眉がピクリと跳ね上がる。
「む? 波形が安定しないな。この娘の星図はどうなっている?」
「衛兵、測定盤の出力を上げろ!」ハリスが鋭く命じる。
探知光の出力が上がり、セラの靴底に施された「偽装星霜紋」の幾何学回路に、猛烈な魔力圧が押し寄せる。ソウタの脳内の点群世界で、縫い合わせた赤い血の糸が一本ずつ引き裂かれそうになるのが見えた。回路が破綻すれば、偽装は一瞬で剥がれ、セラの本来の星図が暴かれてしまう。
ソウタは、自身の指先に繋がる糸を、ミリ単位の感覚で微かに引っ張った。自身の「無宿命」の魔力を糸を通じて逆流させ、測定盤から押し寄せる探知波の幾何学的な「結び目」を相殺し、回路を強引に安定させる。
*カチリ。*
測定盤の針が、静かに一つの数値を指して停止した。
表示されたのは、星座を形成しない、孤立した一つの点。価値のない、極めて薄い星の残滓――。
「……五等星だと?」
ハリスは信じられないといった様子で、測定盤の数値を凝視した。
「馬鹿な。神殿の占星盤には、確かにこの区画に強力な『三等星』の反応があると記録されていたはずだ。それが、ただの五等星の平民の子供だと?」
ハリスは何度もランタンをセラに向け直したが、表示されるデータは変わらない。ソウタの施した偽装刺繍が、測定器の光を完璧に屈折させ、ただの「無価値な平民」としての偽りのデータを返し続けていた。
「チッ……! 占星盤のノイズだったか。あるいは、この極寒の霧のせいで測定がバグを起こしたか」
ハリスは忌々しげに舌打ちをし、ランタンを乱暴に収めた。彼にとって、五等星の子供から魔力を徴収したところで、領主への上納金の足しにもならない。時間の無駄だった。
「失せろ、小娘が。神殿の温情に感謝するがいい」
ハリスはセラを地面に突き放し、重装歩兵たちに向かって手を振った。
「行くぞ。こんな凍えそうなスラムに長居は無用だ。仕立て屋ギルドのバルトロのところへ行く。あそこなら、もっとマシな魔力石が集まっているはずだ」
衛兵たちの重い足音が、徐々に広場から遠ざかっていく。ハリスの心音が完全に消え去るまで、ソウタは頭を下げたまま、静かに呼吸を整えていた。
「……お兄ちゃん、ありがとう……」
セラが、泥に汚れた顔を上げて、ソウタの袖を掴んだ。その瞳には、恐怖から解放された涙が溢れていた。
「いいんだ、セラ。もう大丈夫だよ。早くお母さんのところへお帰り」
ソウタは優しくセラの頭を撫で、彼女が広場から走り去る音を耳で追った。テオが隣で「兄さん、やったね! ハリスの奴、完全に騙されてたよ!」と興奮気味に声を跳ね上げる。
「静かに、テオ。まだ街の中に衛兵がいる。早く店に戻ろう」
ソウタはテオに支えられながら、凍りついた路地を歩き、仕立て屋「星霜庵」へと急いだ。スラムの冷たい風が、ソウタの頬を容赦なく叩く。しかし、彼の身体を襲っていたのは、外気の寒さだけではなかった。
店に戻り、古い木製の扉を閉めて鍵をかけた瞬間、ソウタの全身を猛烈な衝撃が襲った。
「がはっ……!?」
ソウタは崩れ落ちるように床に膝をついた。喉の奥から、鉄の味がする熱い液体が込み上げてくる。彼は激しく咳き込み、床に銀色の魔力が微かに混ざった赤い血を吐き散らした。
「兄さん!? どうしたの、兄さん!」
テオが悲鳴を上げてソウタの身体を支えようとする。だが、ソウタはそれを手で制した。
「触るな……テオ。今、僕に触ると、お前まで凍りつく……」
ソウタの右手の親指。セラの運命を書き換えるために、自身の血の糸を通したその指先が、不気味な青い光を放ち始めていた。
皮膚の表面が、徐々に硬く、冷たくなっていく。それは、ただの凍傷ではなかった。皮膚の細胞が、物理的に青く透き通る「氷の結晶」へと変貌していくのだ。
これが「因果の反噬(跳ね返りの呪い)」。
他人の星図を書き換え、世界の因果律を揺るがした代償として、術者の肉体が星霜の冷気に侵食される不可逆的な呪いだった。セラの「三等星」という高位の運命を偽造した跳ね返りは、ソウタの右手の親指を完全に標的にしていた。
「痛い……か?」
テオが涙を浮かべながら、ソウタの青く光る親指を見つめる。
「いや……感覚が、消えていくんだ」
ソウタは静かに呟いた。激痛の波が去った後、彼の右手の親指からは、あらゆる温度と触覚が物理的に消失していた。まるで、その指だけが最初から自分の身体に存在していなかったかのように、冷たく、硬い結晶と化している。
ソウタは震える左手で、作業台の上に置かれた古いハサミと、愛用の縫い針を手に取ろうとした。
しかし、右手の親指が物理的に動かない。
*カラン、と寂しげな音が響いた。*
ソウタが一生をかけて磨き上げてきた仕立て屋の道具が、彼の青く凍りついた指先から滑り落ち、冷たい床の上に転がった。
針を握る感覚が、完全に消失している。
仕立て屋にとって、そして運命を繕う刺繍師にとって、指先の感覚を失うことは死と同義だった。ソウタは床に転がる針の音を聞きながら、麻布の目隠しの奥で、底知れぬ恐怖と孤独に愕然と立ち尽くしていた。
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