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針音のジャミング、闇夜の追跡

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凍てつく闇の底から吹き上げる風は、獣の吐息のように生臭く、そしてどこまでも冷たかった。 


「チッ……完全に囲まれてやがるな」


 老炭鉱夫オルガが、掠れた声で毒づきながら、片脚の松葉杖をきしませた。彼の荒い息遣いは、廃坑「氷星洞」の湿った空気の中で白い霧となり、すぐに消えていく。先ほどの脱出劇で魔力石の全量を使い果たした彼の身体からは、すでに平民としての微弱な魔力の輝きさえも失われ、ただの泥と煤に汚れた老人の輪郭だけが、ソウタの「点群脳内再現」の世界に寂しく浮かび上がっていた。


 ソウタは無言で自身の右腕をさすった。亡き師の形見である「無垢の白布」が巻き付けられたその腕は、皮肉にも熱を失うことで、因果の反噬による「星氷化」の痛みを一時的に麻痺させていた。だが、親指と人差し指の第二関節から先は、完全に硬質な氷の結晶と化し、動かすことすら叶わない。今、彼が頼れるのは、無傷な左手と、脳裏に展開される青い光の立体マップだけだった。


 廃坑の出口。そこは、外の世界の吹雪が激しく吹き込む、光と闇の境界線だった。その白い吹雪のカーテンの向こう側に、ソウタの超感覚は、決して無視できない「異物」を捉えていた。


 カチャリ、と重厚な金属が擦れ合う冷たい音。そして、グルルルという地を這うような低い唸り声。


「魔導犬が三匹、それに領主直属衛兵団の重装歩兵が少なくとも十人は配置されています」


 ソウタは目隠しの奥の瞳を動かすことなく、静かに囁いた。彼の脳内マップには、衛兵たちの全身を包む「氷霜の重鎧」が放つ冷たい青色の魔力光が、正確な座標を持って点滅していた。彼らの手には、周囲の星図エネルギーを強制的に可視化し、未登録の魔力を持つ者を炙り出す「星図測定盤」が握られている。そのスキャナーから放たれる青い光の帯が、吹雪を切り裂きながら、廃坑の入り口を執拗に舐め回していた。


「ソウタ、俺のピッケルで奴らの鎧の隙間をぶち抜いてやる。お前はその隙に走れ」


 オルガが錆びない星霊鉄のピッケルを構え、残された片脚を踏み込もうとした。その心音は、恐怖を職人の意地で圧し潰した、激しくも歪んだテンポを刻んでいる。だが、ソウタは左手を伸ばし、オルガの頑強な肩をそっと制止した。


「無駄です、オルガさん。彼らの鎧は領主館の『星霊炉』と魔力回線で直接同期しています。一撃でも与えれば、その衝撃データが瞬時に本隊へ伝達され、数分もしないうちに増援に包囲されます。それに、あの魔導犬たちは僕たちの足音ではなく、体内から漏れ出す微弱な魔力の『匂い』を追っている」


「じゃあ、どうすりゃいい! このままここで凍りつくのを待つか?」


「いいえ。彼らの『目』と『耳』を、同時に叩き潰します」


 ソウタは、ハリスの魔導ランタンを一時的に機能不全に陥れたあの時の感覚を、脳内で急速に再現していた。神殿製の軍用測定盤や通信用の占星盤は、極めて精密な「星の幾何学数式」に基づいて稼働している。それは、完璧に対称な星座のパターンを受信することで初めて機能するシステムだ。 


 ならば、そのシステムに、幾何学的な構造を一切持たない「完全なノイズ」を叩き込めばどうなるか。 


 ソウタは生まれつき星図を持たない「無宿命体」――世界の因果律における「空白」そのものだ。彼の魔力には、神殿の占星盤が認識できるパターンが何一つ存在しない。それは、精密機械にとっての、致命的なバグプログラムに等しかった。 


 ソウタはゆっくりと膝をついた。極寒の岩肌が、ズボンの布地を通して膝頭を刺す。彼は左手を懐に滑り込ませ、そこに眠る「星霊の銀針」の冷たい感触を確かめた。この針は、星のコアから削り出された超高密度の導体だ。これを使えば、自身の「空白の魔力」を地脈の微振動に乗せて、広範囲に拡散させることができる。


「オルガさん、耳を塞いで、地面から身体を離してください。松葉杖の先を浮かせるんです」


「あ? 何を――」


「早く!」


 ソウタの鋭い声に押され、オルガは慌てて松葉杖を脇に抱え、壁の突起に身を預けて両脚を地面から浮かせた。 


 ソウタは左の指先で「星霊の銀針」を硬く握り締めると、廃坑の入り口の、鉱物成分が最も濃く露出している地割れの隙間へと、迷うことなく突き刺した。 


 カツン、と鋭い金属音が暗闇に響く。 


 次の瞬間、ソウタは自身の体内に眠る「宿命なき虚無の魔力」を、銀針の先端へと一気に流し込んだ。針の幾何学的な微振動を、地中の鉱物脈と同調させ、特定の高周波へと増幅していく。 


「銀針の共鳴――ジャミング!」


 キィィィィィィィン――!


 目に見えない、しかし脳を直接揺さぶるような、極めて鋭い高周波の精神音波が、地脈を通じて廃坑の出口全体へと爆発的に放射された。 


 ソウタの「点群世界」が、水面に落とされた一滴の雫のように、激しく波打ち、歪んでいく。現実世界においても、銀針を突き刺した地面を中心に、大気が万華鏡のように微かに歪み、青白い火花が空間のあちこちでパチパチと弾けた。 


 直後、吹雪の向こう側で、凄まじい混乱が沸き起こった。 


「な、なんだこの音は……!? 耳が、耳が裂けるッ!」


 重装歩兵の一人が悲鳴を上げ、手に持っていた「星図測定盤」を雪の上に放り出した。彼の測定盤のガラス面には、あり得ないほどの不規則な幾何学ノイズが走り、次の瞬間、内部の占星回路が過負荷でバチバチと激しい火花を散らしながら、黒い煙を上げて完全にショートした。 


 他の衛兵たちが持つ占星盤も、ドミノ倒しのように次々と火花を吹いて機能停止していく。彼らが本隊や領主館と同期していた通信用の占星プレートは、不気味な赤色に発光した後に物理的にパキパキとひび割れ、ただの冷たい石の破片へと成り果てた。 


 さらに悲惨だったのは、聴覚が異常に発達した魔導犬たちだった。 


「キャン! キィィン!」


 脳を直接抉られるような高周波のノイズに耳を破壊された魔導犬たちは、狂乱状態に陥り、自身の頭を前脚で激しく掻きむしりながら、吹雪の闇の中へと暴走し始めた。一匹の魔導犬が、混乱して立ちすくんでいた重装歩兵の脚に噛み付き、広場は一瞬にして敵同士が衝突し合う修羅場と化した。 


「通信が途絶えた! 本隊との同期が消えたぞ!」


「敵の魔力反応はどこだ!? スキャナーが何も映さない!」


 闇夜と吹雪の中、唯一の『目』と『耳』を失った衛兵たちは、ただの重い鉄の塊と化し、お互いの鎧をぶつけ合いながら怒号を上げていた。彼らの「氷霜武装」の青い光は完全に掻き消え、ただの暗闇が彼らを支配している。


「……今です。僕の足音に付いてきてください」


 ソウタは地面から銀針を引き抜いた。その瞬間、指先に激しい熱傷のような痛みが走る。銀針の表面は、過負荷による摩擦熱で、触れることもできないほど赤く高熱を帯びていた。この針は、少なくとも向こう一時間は使い物にならない。 


 だが、突破口は開かれた。 


 ソウタは右腕の白布を締め直し、オルガの松葉杖が雪を突く音を「点群」で誘導しながら、大混乱に陥っている衛兵たちの真横を、風のように通り抜けた。彼らの「静寂の靴」はすでにボロボロで、ソールに施された刺繍糸が摩擦で微かな擦れ音を立てていたが、狂乱する魔導犬の悲鳴と吹雪の咆哮が、その僅かな音を完全に掻き消していた。 


 一歩、また一歩。背後で衛兵たちが虚空に向かって氷の槍を突き出す音を聞きながら、二人は廃坑の包囲網を完全に突破し、吹き荒れる白銀の闇夜へと身を投じた。



 吹雪は容赦なく彼らの体温を奪い去ろうとしていた。 


「ハァ、ハァ……仕立て屋の小僧、大したもんだぜ……。あの神殿の機械を、針一本でイカれさせちまうとはな……」


 オルガが雪に足を取られながらも、必死に松葉杖を動かしている。ソウタは彼の左脇を支え、自身の「点群世界」に映る、雪に埋もれた岩石や段差を避けるようにして、黙々と歩みを進めた。 


 走るたびに、ソウタの足元からパチ、パチと小さな音が聞こえていた。彼の履いている「静寂の靴」の底で、音波を吸収するために幾何学的に縫い込まれていた星霊糸が、極寒の摩擦熱と岩石との衝突によって、一本、また一本と焼き切れているのだ。無音の歩行を支える職人の護符が、その寿命を迎えつつあった。 


(僕の靴も、もう限界だ。急がなければ、足音が衛兵の探知網にかかる……)


 右腕の結晶化は手首まで完全に固定化し、冷たい感覚だけが肩に向かって静かに這い上がっていた。肺に吸い込む空気が、まるでガラスの破片のように気管を傷つける。だが、ソウタの心臓を動かしているのは、ただ一つ――昏睡状態のまま、スラムの闇薬局で待っている妹リンの命を繋ぎ止めるという、凍ることのない執念だけだった。


 やがて、吹雪のカーテンの向こう側に、見慣れた、しかしどこまでも陰鬱な街の輪郭が浮かび上がってきた。 


 北の貧民街「霜降区」。 


 凍りついた泥と石で造られた家々が、肩を寄せ合うようにして並ぶ最貧困地帯。領主の搾取によって暖房用の星霊石を買えない平民たちが、寒さに震えながら夜を明かす場所だ。街頭さえも冷たく青い光しか放たないそのスラムに、ソウタたちは地下水道の隠し通路を抜けて、ようやく辿り着いた。 


 ここまで戻れば、ハリスの追跡も一時的には届かない。オルガを彼の炭鉱夫仲間の隠れ家へと送り届けたソウタは、安堵の息を漏らしながら、自身の自宅兼工房である「星霜庵」へと続く、細い路地を曲がった。 


 リンの漏出魔力を集めた「銀の魔力ボトル」は、作業台の奥の隠し金庫に眠っている。それを回収し、獲得した「無垢の白布」を使って、今夜こそ彼女の星図の修復儀式を――。 


 そう思考を巡らせた瞬間、ソウタの「点群世界」が、不自然な『空間の空白』を捉えて、ピきりと凍りついた。 


 いつもそこにあるはずの、古い木造の建物の、温かみのある繊維の残響が、どこにも存在しなかった。 


「な……に、これ……」


 ソウタは目隠しの奥の瞳を大きく見開き、その場に立ち尽くした。 


 彼の「感覚」が描き出したのは、無残に崩壊した木材の山と、鋭く凍りついた氷の槍が、地面から何本も突き出ている異様な光景だった。 


 仕立て屋「星霜庵」の古い木製の看板は、真っ二つに叩き割られて雪の中に転がり、壁は領主軍の「氷霜武装」の魔力によって物理的に粉砕され、家財道具の一切が、冷たい青い氷の中に完全に閉じ込められていた。作業台も、色とりどりの星霊糸が掛けられていた棚も、すべてが凍りついた灰の下で、無残な瓦礫の山と化していたのだ。 


 領主軍の襲撃。それも、ただの捜索ではない。この場所を、ソウタの存在ごと完全に消滅させようとした、冷酷な暴力の爪痕だった。 


 ソウタは、自身の右腕の結晶化が急激に冷たさを増していくのを感じながら、ただ、言葉を失ってその場に愕然と立ち尽くしていた。

HẾT CHƯƠNG

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