這い寄る血糸、暗黒の縦穴
天井から滴り落ちる赤い血の糸が、二人の唯一の退路を塞ぐように、冷酷な氷の防壁を形成し始めていた。
「チッ、なんておぞましい気配だ……! ソウタ、こいつはただの氷じゃねえ。人間の血の臭いがしやがる!」
老炭鉱夫オルガが、煤に汚れた松葉杖を握りしめ、掠れた声で毒づいた。彼の足元では、先ほどソウタの肉体を守るために限界まで魔力を放出しきった魔力石が、ただの灰色に濁った石ころとなって転がっている。オルガの呼吸は荒く、その強靭な身体は極限の疲労で小刻みに震えていた。
ソウタは無言で自身の右腕を引き寄せた。そこには、先ほど「骸骨の織手」から受け取ったばかりの「無垢の白布」が巻き付けられている。一切の魔力を持たないその純白の布は、触れているソウタの肌から、因果の反噬による「星氷化」の激痛を驚くほど静かに吸い取っていた。手首から肩にかけて青く透き通っていた結晶が、微かにその冷気を和らげている。しかし、親指と人差し指の第二関節から先の感覚は、未だ凍りついたように失われたままだ。
「血を紡ぐ呪術師ゾラ……。領主アルフレッドのお抱え呪術師が、僕の残した星霊糸の残滓を辿って、ここまで呪いを送り込んできたんです」
ソウタは白麻の目隠しの奥で、静かに「指先空間測定」を起動した。彼の脳内に展開される「点群脳内再現」の世界――普段は静謐な青い光の点で構成されるその立体マップに、今、異様な「赤」が侵入していた。
天井の岩肌の隙間から、まるで生き物の血管のように脈動しながら這い出てくる無数の赤い糸。それは大気中の冷気と混ざり合いながら、滴り落ちる瞬間に凍りつき、隠れ庵の入り口を塞ぐ鋭い氷の格子を形成していく。その糸の一本一本から、ゾラの執念深い呪詛と、生贄にされた平民たちの怨嗟の心音が、ソウタの耳に不気味なノイズとなって届いていた。
「退路を完全に塞がれる前に、ここを突破しなければなりません。オルガさん、僕の背後に」
ソウタは左手で懐から、カイルが密造してくれた極細の特殊合金針を取り出した。まだ「星霊の銀針」は魔力を帯びすぎており、ゾラの呪い糸に直接干渉すれば、さらなる魔力逆流を招く危険がある。合金針に、自身の体内に残るわずかな星霊糸を通す。
(まずは、あの結び目を解く……!)
ソウタは左手の指先を弾き、赤い呪い糸の幾何学的な「結節点」に向かって星霊糸を放った。「因果の結び目(ノット)」を作り、魔力回路を内側からバグらせて霧散させる。それが、彼の得意とする職人のカウンター技術だった。
しかし――。
ジュウゥゥッ!
ソウタの放った糸が赤い血の糸に触れた瞬間、激しい煤煙と共に、生臭い熱風がソウタの脳内を襲った。因果の結び目は、血の糸に含まれる人間の怨念と呪詛の圧倒的な熱量によって、一瞬にして焼き切られたのだ。幾何学的な構造を突く以前に、その呪いは純粋な「悪意の質量」でソウタの繊細な糸を押し潰した。
「くっ……!」
ソウタは短い呻き声を上げ、一歩後退した。目隠しの奥の視神経が、焼け付くような痛みに襲われる。呪い糸は、ソウタの魔力を喰らうことでさらにその赤みを増し、生き物のようにのたうち回りながら、天井から二人の足元へと急速に這い寄ってきた。
「ソウタ、下がってろ! 炭鉱夫の戦い方を見せてやる!」
オルガが叫び、残された片脚で力強く踏み込んだ。彼はジンから贈られた「決して錆びない星霊鉄のピッケル」を両手で高々と振り上げた。オルガの五等星の微弱な魔力が、ピッケルの刃先に宿る。
オルガは、這い寄る血の糸を直接叩くのではない。長年の炭鉱仕事で培った「地質の目利き」により、天井の岩肌に刻まれた、崩落寸前の「構造的な弱点」を瞬時に見抜いていた。ピッケルが、天井の一点に猛烈な速度で叩き込まれる。
ドガァァァン!
凄まじい破壊音と共に、天井の巨大な岩石が崩れ落ちた。落石の山が、這い寄る赤い血の糸を物理的に押し潰し、一時的にその進行ルートを完全に遮断する。隠れ庵の内部に、冷たい石塵が激しく舞い上がった。
「今だ、走れ!」
オルガがソウタの肩を掴み、崩落の隙間を縫って縦穴の方向へと走り出そうとした。しかし、ソウタの「点群世界」は、さらなる絶望的な光景を捉えていた。
ジジジ……、ジュウゥゥッ……!
落石の山の隙間から、赤い蒸気が立ち上っていた。押し潰されたはずの血の糸が、岩石の鉱物成分を不気味な酸のように溶かしながら、まるで赤い蜘蛛の群れのように、崩落の隙間から這い回り、再び二人を追いかけてくる。ゾラの呪詛は、物理的な質量さえも溶かして進む、執念の塊だった。
(物理的な遮断も通用しない……。気配を消しても、僕がこれまでに放った星霊糸の残滓を辿ってくる。防ぎ、かつ動きを止める方法は――)
ソウタは走りながら、脳内で高速の演算を繰り返した。右手の麻痺した指先を「無垢の白布」に押し付け、冷気による思考の鈍化を強引に防ぐ。
(あの赤い糸は、ゾラの血液を媒介にした『物理的な物質』だ。魔法そのものを解体することはできなくても、物質である以上、この暗黒の坑道において、光と影の法則からは逃れられない……!)
隠れ庵の壁に埋め込まれた青白い星霊石の残光が、這い寄る赤い血の糸を照らし出し、岩壁にその「影」を長く落としていた。呪い糸がのたうち回るたびに、その影もまた、壁の上で不気味にうごめいている。
「影があるなら……縫い止められる」
ソウタは立ち止まり、深く呼吸を整えた。彼の脳内で、ジンの手記に記されていた「影縫い(シャドウ・スティッチ)」の幾何学式が、完璧な立体回路として再構築されていく。
ソウタは左手の合金針に、自身の血液を微かに滲ませた。無宿命体の血が染み込んだ星霊糸が、針の先端で静かに銀色に発光する。
「オルガさん、僕の左肩を支えてください。一瞬だけ、動きを止めます」
「おうよ! 信じてるぜ、仕立て屋の小僧!」
オルガがソウタの身体をがっしりと支え、松葉杖を岩床に固定した。ソウタは「指先空間測定」で、這い寄る血の糸の「影の中心点」――魔力と物理的な影が最も濃く交差する幾何学的な座標をミリ単位で特定した。
シュッ!
ソウタの左手が、目に見えない速度で合金針を弾いた。針に通された銀色の糸が、大気中の冷気を切り裂き、のたうち回る赤い血の糸の「影」へと突き刺さる。
「影縫い――シャドウ・スティッチ!」
パキィィン!
針が影を貫いた瞬間、岩壁の影から漆黒の魔力糸がクモの巣のように爆発的に広がり、赤い血の糸の『影の接続点』を、物理的な岩壁に完全に縫い留めた。影を縛られたことで、本体である赤い血の糸もまた、空中で引きむしられるようにしてピンと張り詰め、それ以上の前進を完全にロックされた。
ジジジ……! と、呪い糸が動きを封じられたことに激昂し、赤い冷気を放ちながらのたうち回るが、ソウタの縫い付けた「影の結び目」は、ビクリとも動かなかった。
「ぐあぁっ……!」
その瞬間、ソウタの右手の親指と人差し指の先端に、凄まじい冷気の衝撃が走った。呪いを一時的に縫い止めた因果の反噬が、白布の防壁をすり抜けて、彼の肉体を直接蝕んだのだ。二本の指の皮膚が、瞬時に青白い星霜の結晶で覆われ、完全に感覚を失って硬化した。合金針を握る左手さえも、その冷気で微かに震え始める。
「ソウタ! 大丈夫か!?」
「……いけます。影縫いの効果が保つのは、せいぜい数分です。オルガさん、早くこの縦穴を上へ!」
ソウタは結晶化した右腕を胸元に抱え込み、オルガの松葉杖が刻むテンポに合わせて、暗黒の縦穴へと続く急斜面を駆け上がり始めた。背後では、縫い止められた赤い血の糸が、岩壁を凍らせながら狂暴な咆哮を上げるようにのたうち回っている。
オルガの案内は正確だった。崩落する廃坑の地鳴りが周囲で響き渡る中、彼は松葉杖を巧みに使い、崩れかけた支柱を避け、奈落の亀裂を飛び越えていく。ソウタは彼の足音と空気の振動だけを頼りに、一歩の狂いもなくその後に続いた。背後から這い寄る赤い呪いの気配が、徐々に遠ざかっていく。
ハァ、ハァ、と二人の荒い息遣いだけが、凍てついた坑道内に響き渡る。上部へと続く縦穴の傾斜が徐々に緩やかになり、前方の空気の中に、外の世界の「吹雪の匂い」が混ざり始めるのを感じた。出口は近い。
「やったぞ……! 出口が見えた! ゾラの呪いも、ここまで追っては来れねえ!」
オルガが歓喜の声を上げ、縦穴の最後の曲がり角を曲がった。外から差し込む微かな星光が、ソウタの「点群世界」の輪郭を白く照らし出す。
しかし――。
ソウタの耳が、吹雪の咆哮の奥から、決して聞こえてはならない「音」を捉えた。
グルルルゥ……、ガルゥ……!
それは、地を這うような不気味な獣の唸り声。領主軍が平民の魔力を追跡するために使役する、魔導犬(まどうけん)の獰猛な咆哮だった。さらに、それと同時に響く、無数の重厚な金属鎧が擦れ合う冷たい音。
ソウタの「点群脳内再現」の世界が、一瞬にして凍りついた。
廃坑の出口の光の向こう側――。そこには、吹雪の中に整然と整列した、領主直属衛兵団の冷酷な鉄の鎧の輪郭が、逃げ場のない包囲網となって、完全に展開されていたのだった。
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