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虚無の試練、封印されし無垢の盾

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吹雪が咆哮を上げる氷星洞(ひょうせいどう)の入り口で、ソウタの指先から伸びた目に見えない星霊の糸が、封印の鉄鎖へと音もなく絡みついた。


「……解け」


 ソウタは左手の指先を微かに弾いた。右手の親指と人差し指は、人為的な因果の跳ね返りによってすでに第二関節まで完全に凍りつき、冷たい石のようになっている。しかし、動く左手と、カイルが密造してくれた極細の特殊合金針があれば、この程度の結界を解くことは造作もなかった。針先が鉄鎖に刻まれた赤い警告ルーンの幾何学的な「結び目のズレ」を正確に貫く。チリ……と微かな熱が走り、爆発の術式は作動することなく、煙のように霧散した。


「よし……。オルガさん、今です」


 ソウタの囁きに応え、隣に潜んでいた老炭鉱夫オルガが、木製の松葉杖を雪に突き立てて素早く動いた。二人は巡回する領主軍の哨兵が吹雪に視界を奪われた一瞬の隙を突き、音もなく暗黒の縦穴へと滑り込んだ。


 一歩足を踏み入れると、外の吹雪の音は遠のき、代わりに地底特有の重苦しい静寂と、凍てついた大気の匂いが二人を包んだ。廃坑の内部は、領主アルフレッドが「星霊炉」を暴走させて魔力を過剰に搾取している影響で、異常なほど冷え切っていた。


「ソウタ、ここから先は俺の足音についてこい。地脈が荒れてやがる。一歩間違えれば、天井のつららが物理的に頭をぶち抜くか、底なしの亀裂に真っ逆さまだ」


 オルガは松葉杖を器用に使いながら、地中を叩く音の反響で安全なルートを見出していく。失明しているソウタにとって、その音は脳内の「点群脳内再現」を補完する最高の灯火だった。ソウタの脳内には、崩落しかけた古い坑道の支柱、突き出た青い結晶、そして奈落へと続く縦穴の輪郭が、鮮明な青い光の点群データとして立体的に再構築されていく。


 ジンの古い木製針箱から解読した立体地図のルートに従い、二人は坑道の分岐を何度も曲がり、地中深くへと進んだ。やがて、通常の炭鉱夫なら決して近づかない、空間そのものが不自然に歪んだ行き止まりに到達した。


「……ここだ。だが、行き止まりだぞ、ソウタ。岩壁しかねえ」


「いいえ、壁ではありません。空間の『縫い目』がここにあります」


 ソウタは一歩前に進み出た。彼の点群世界の中では、目の前の岩壁の奥に、不自然に歪んだ魔力の空白(バグ)がノイズのように脈動していた。これこそが、かつて師ジンが神殿の追跡を逃れるために、空間の幾何学を物理的に歪めて構築したポケットディメンションの入り口だった。


 ソウタは懐から極細の合金針を取り出し、空間の歪みの中心点――幾何学的なバグの「ほつれ」に向かって、左手で正確に一突きした。


 キィン、と澄んだ金属音が響き、岩壁の表面に銀色の光の亀裂が走った。空間がまるで古い布地のように左右に開き、二人の前に未知の領域が姿を現した。「初代天命刺繍師の隠れ庵」――数百年間、神殿の探知魔法から完全に隔離されていた絶対安全圏の聖域だった。


 一歩中へ入ると、そこは言葉を失うほど静謐で美しい廃墟だった。大理石で造られた古い工房の跡地。空気は極限まで澄み渡り、周囲の壁には、かつて初代刺繍師が使用していた古い機織り機のパーツや、色褪せない最高級の絹糸の束が、青白い星光を浴びて万華鏡のように色彩を変化させていた。


 そしてその中央に、目的の場所があった。「無垢の白布」の封印の間。


 部屋の祭壇の前には、一人の衣服を纏った骸骨が静かに座っていた。かつてこの地で運命を紡ぎ、そして息絶えた古代の天命刺繍師の遺骸――「骸骨の織手」だった。その枯れ果てた骨の手は、一台の古い木製の刺繍台の上にそっと置かれていた。刺繍台の上には、一切の魔力が通っていない、吸い込まれるほどに純白な布が、手つかずのまま残されていた。


「……無垢の白布」


 ソウタはその布から放たれる、周囲の冷気や星霊魔力を一時的に完全に無効化する神聖な波動を指先で感知した。これがあれば、リンの星図を修復する際、王都からの因果の反噬を身代わりに吸い取ってくれる絶対的な盾となる。


 ソウタは静かに歩み寄り、白布に触れようと手を伸ばした。しかし、彼の指先が純白の繊維に触れた瞬間――。


 ゴオォォォッ!


 突如として、ソウタの意識は物理的な肉体から引き剥がされ、無限の銀白色が広がる精神世界へと強制的に引きずり込まれた。オルガの声も、廃墟の冷気も一瞬で消失し、ただ完全な静寂と虚無だけが支配する空間が広がっていた。


 ソウタの目の前に、半透明の銀色のローブを纏った、顔のない巨大な影が立ち上った。その周囲には、無数に切断された運命の糸が、まるで宇宙の星々のように漂っている。


『我が名はボイドの残滓。かつて世界システムに挑み、そして敗れた最初の無宿命者。資格なき者がこの布に触れることは許されぬ』


 その声は、物理的な音ではなく、ソウタの魂の経絡を直接震わせる絶対的な精神的威圧だった。


『他人の星図を書き換えることは、世界の法則に傷を刻む大逆。その因果の重みを、お前のような矮小な魂が背負えると思うか。お前の天命の重さを測らせてもらおう』


 ボイドの残滓が手をかざした瞬間、虚無の空間から無数の銀色の光の糸が伸び、ソウタの精神体に絡みついた。「天命の重さを測る光の糸」。それは、ソウタがこれまでに関わってきた、そしてこれから背負うであろう他人の運命の「重力」を、物理的な重さとして再現する試練だった。


「くっ……!」


 ソウタの膝が、凄まじい重圧によって一瞬にして折れそうになった。背中に刻まれた見えない天命の重さが、彼の精神的な肉体を押し潰そうとする。まるで、巨大な星が直接胸の上に乗り上げてきたかのような圧迫感。ソウタの精神体の骨がきしむ音が聞こえた。


(このままでは、魂ごと押し潰されて消滅する……!)


 ソウタは咄嗟に、ジンの手記に記されていた「因果の結び目」の理論を脳内で展開した。絡みつく光の糸を、星霊糸で物理的に絡め取り、重力をバイパスさせようと試みた。しかし――。


 バチィィン!


 ソウタが放った糸は、ボイドの残滓の圧倒的な古代の魔力の前には、一瞬で焼き切られて霧散した。理論が通じない。相手の魔力量は、ソウタの理解を遥かに超越していた。


 その頃、現実世界の隠れ庵では、ソウタの物理的な肉体が激しく convulse(痙攣)し、目隠しの隙間から銀色の魔力血が流れ出していた。


「ソウタ! おい、しっかりしろ!」


 オルガは悲鳴を上げ、自身の松葉杖を投げ出してソウタの身体を支えた。ソウタの体温が急速に低下し、右腕だけでなく、全身の皮膚が微かに結晶化し始めている。オルガは懐から、自身の最後の蓄えであった魔力石を取り出し、それを握りつぶして防衛結界を展開した。ソウタの肉体が、精神世界の試練の負荷によって崩壊するのを防ぐため、彼は自身の微弱な魔力を限界まで放出し続けた。


 精神世界の中では、ソウタの意識は完全に限界を迎えていた。


『お前の星図を示せ。その星座の強さによって、お前が背負える運命の量が決まる。一等星か、二等星か……それとも、ただの塵か』


 ボイドの残滓が放つ光の糸が、ソウタの背中を暴こうと、彼の衣服を切り裂いた。光の測定盤がソウタの頭上に浮かび上がり、彼の「天命の重さ」を測定し始める。


 ソウタは、重圧の中で歯を食いしばりながら、冷徹に思考を巡らせた。


(違う……。この試練は、魔力量の多さを競うものではない。世界システムの中で、どれだけの『席』を与えられているかを測っているんだ。だが、僕は――)


 ソウタは、自身の出生の真実を思い出した。彼は生まれつき、星図を一切持たない「無宿命体」だった。神殿の占星盤にも、帝国のデータベースにも存在しない、完全な空白。システムの外側に存在する、ただのバグ。


(だったら、測るべき『重さ』など、最初から存在しない!)


 ソウタは自身の体内の魔力循環を、完全にゼロへと落とした。呼吸を止め、自身の存在確率を世界の因果律から完全に切り離す。無宿命体「空」の、完全な解放。


「私は、何者にも縛られない。神殿の星にも、天が定めた宿命にも――私は、ただの仕立て屋だ!」


 ソウタが叫んだ瞬間、彼の背中から、一切の星図が存在しない「完全な白い皮膚(空白)」が露わになった。


 絡みついていた銀色の光の糸が、ソウタの空白の背中に触れた瞬間、測定すべき「星座」を見失い、空回りするようにソウタの体内に吸い込まれて消滅した。


 頭上に浮かんでいた巨大な光の測定盤の針が、狂ったように回転し始める。測定値:ゼロ。天命の重さ:存在しない。


 パキィィン!


 世界の法則を測定するはずの光の測定盤が、その「空白」の存在を処理しきれず、過負荷によってガラスのように砕け散った。


 ボイドの残滓の顔のない影が、初めて大きく揺らいだ。


『星図を持たぬ、無宿命の空白……。そうか、お前は世界の理の『外』に立つ者か。ならば、その運命のハサミで、世界の歪みを切り裂くがいい』


 影は静かに微笑むようにして、青白い光の粒子となって消えていった。


 ソウタの意識が、現実世界へと急激に引き戻された。


「はぁ、はぁ、はぁっ!」


 ソウタは激しく喀血し、冷たい大理石の床板の上に膝をついた。目隠しの下から流れた銀色の血が、床を濡らす。しかし、彼の目の前にあった「骸骨の織手」の遺骸は、静かに崩れて白い塵となり、その下から、完全に封印が解かれた「無垢の白布」がソウタの腕の中へと滑り落ちてきた。


 布は一切の重さを持たず、触れた瞬間にソウタの右腕の星氷化の痛みを一時的に完全に中和した。冷たい結晶が、微かに融解していく感覚が指先に伝わる。試練は突破されたのだ。


「やったな、ソウタ! お前、本当にやりやがった!」


 オルガが魔力石を使い果たして息を切らしながら、ソウタの肩を揺すった。しかし、二人が喜びを共有する時間は、一瞬たりとも与えられなかった。


 ズズズ……と、隠れ庵の天井から、不気味な地鳴りのような音が響いた。


「……オルガさん、伏せて!」


 ソウタの「点群世界」の天井に、突如として無数の不気味な「赤い光の線」が投影された。それは物理的な崩落の音ではなかった。人間の血液を媒介にして紡がれた、粘り気のある悍ましい呪いの魔力流。


 領主アルフレッドのお抱え呪術師ゾラが放った、「血を紡ぐ呪い糸」だった。ソウタがこれまでに使用してきた星霊糸の残滓(因果の痕跡)を辿り、呪いの糸は空間の歪みさえも突き破って、隠れ庵の天井を蜘蛛の巣のように覆い尽くそうとしていた。


「ひっ……! なんだ、この赤い糸は!?」


 オルガが松葉杖を握りしめ、恐怖に満ちた悲鳴を上げた。天井から滴り落ちる赤い血の糸が、二人の唯一の退路を塞ぐように、冷酷な氷の防壁を形成し始めていた。

HẾT CHƯƠNG

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