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酸の沼地、錆び喰う寄生虫

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「はぁ、はぁ……! クソが、戻ったか、風馬……! 剛三のデカブツが、山門を突破しやがった……! アヤと慧海のジジイが、奥で奴の鉄槌を食い止めてるが、もう限界だ!」


本堂の隠し扉を押し開けた瞬間、風馬の鼓膜を揺らしたのは、血の匂いと、戦友である鉄平の悲痛な叫びだった。奈落の修行を終え、感覚の第二段階である「鋼鉄級・音響定位」を掴み取った風馬だったが、その喜びは一瞬にして焦熱の現実に塗り潰される。


「鉄平、動くな。傷が深い」


風馬は素早く滑り込み、よろめく鉄平の巨体を左腕で支えた。手探りで触れた彼の胸当ては激しくひしゃげ、右肩からは温かい鮮血が泥のように溢れ出ている。剛三の鉄槌「砕骨」の凄まじい質量攻撃を、鉄平は左手一本の野太刀で強引に受け止めたのだ。野太刀の刃は無惨に歪み、鉄平の骨格が悲鳴を上げているのが、風馬の皮膚を通じて伝わってきた。


本堂の奥からは、避難民たちの絶叫と、空気を物理的に押し潰すような不吉な風切り音が響いている。剛三が鉄槌を振り回すたびに、古い寺院の太い柱が一本、また一本と悲鳴を上げて軋んでいた。


(今の俺の折れ刃では、あの鉄槌とまともに交われば一撃で粉砕される……!)


風馬は、右手にした一尺の「風刃の折れ刃」を静かに握り締めた。奈落の共鳴修行を経て、内部の金属結合は一時的に極めて安定している。だが、それはあくまで「微細な振動」に耐えるためであり、剛三の放つ圧倒的な「物理的質量」を真っ向から受け止めれば、折れた刃先から一瞬で破断し、風馬の腕の骨ごと砕け散るだろう。それは師・弦庵や慧海が警告した通りの結末だ。


「風馬、これを持っていけ……!」


鉄平が血を吐きながら、風馬の懐に重いものを押し付けた。鉄平が錆鉄同盟の仲間たちと作り上げた「漆塗りの折れ刃筒」だ。内部の気流を完全に遮断し、金属の不要な共鳴を防ぐための防音容器。


「慧海のジジイが言ってたぜ……。この廃寺の地下水路の先にある『酸の沼地』に、お前の親父さんが遺した『風鳴鉄の残屑』が沈んでいるってな。それをお前の折れ刃に溶接しなきゃ、剛三の鉄槌には絶対に勝てねえ!」


「酸の沼地……」


風馬の黒い目隠しの奥の瞳が、一瞬だけ鋭く動いた。そこは、あらゆる金属を瞬間的に腐食させる酸性の水が湧き出る、渓谷で最も忌み嫌われる湿地帯だ。しかし、そこに家伝の剣「風刃」の破片があるというなら、迷っている時間はない。


「百息だ」


風馬は静かに、しかし冷徹な決意を込めて告げた。


「百息の間だけ、持ちこたえてくれ。必ず、奴を叩き折る刃を持ち帰る」


「へっ、百息だな……。地獄の門番をからかうには、ちょうどいい時間だぜ!」


鉄平が野太刀を構え直す気配を背後に感じながら、風馬は本堂の仏壇の裏にある隠し通路へと身を躍らせた。暗い縦穴を滑り降り、酸性の異臭が立ち込める地下水路のバイパスを疾走する。彼の「風詠みの呼吸法」が、大気中の湿度の急激な上昇と、皮膚を刺すような化学物質の刺激を捉えていた。


やがて、頭上の岩盤が途切れ、目の前に不気味な広がりを持つ空間が出現した。常に黄色い有毒ガスが地表を這うように漂い、足元には泡立つ酸性の泥が広がる禁忌の領域――「酸の沼地」だった。


グチャリ、と泥を踏みしめる音が、風馬の耳飾りに微かに響く。音が、おかしい。沼地のあちこちから「ボコ……ボコ……」と酸性のガスが気泡となって弾ける音が絶え間なく湧き上がり、風馬が奈落で培った「音響定位」の波形を激しく乱していた。反響する音が泥に吸い込まれ、世界の輪郭が不鮮明に歪んでいく。


(焦るな。耳だけに頼るな。肌で風の『層』を詠むんだ)


風馬は「有毒ガス回避呼吸法」を起動した。鼻腔内の気を特殊なフィルターとして活性化させ、重く湿った酸性の有毒ガスを左右に押し流し、上層にあるわずかな清浄な空気だけを選択的に肺の奥深くへと吸い込む。肺胞が熱を帯びるが、脳の処理速度は極限まで維持された。


その時、風馬の「風の領域」の端に、極めて不快な気流の乱れが引っかかった。泥の擦れる音、そして、金属を化学的に腐食させる酸の匂い。この沼地を支配する「錆喰い」の野盗――蛭五郎(ひるごろう)だった。


「ひひっ! 誰かと思えば、十神剣宗を追放された盲目の小僧じゃねえか。こんな毒の沼に、わざわざ錆びた鉄屑を持って死にに来るとはな!」


闇の中から、蛭五郎の卑劣な嘲笑が響く。彼は全身に湿地の泥と苔を塗りたくり、気配を完全に沼と同化させていた。その手には、旅人の武器を瞬時に錆びさせる強酸性の粘液を仕込んだ「酸吹き筒」が握られている。


*シュッ!*


吹き筒から放たれた極小の風切り音。風馬は音響定位でその軌道を捉えようとした。しかし、足元の泡立つ泥の音波ノイズが彼の感覚を狂わせた。一瞬、着地を誤り、風馬の右足が酸の泥水に深く沈み込む。


「しまっ――」


ジワリと、強烈な激痛が右足を襲った。履いていた草履が瞬時にドロドロに融解し、酸の液体が足の裏の皮膚を直接焼き焦がす。風馬は思わず顔をしかめ、体勢を崩した。


「ハハハ! 泥に足を取られたな! そのナマクラごと、泥水に溶けて消えちまいな!」


蛭五郎が勝ち誇り、さらに広範囲に「酸吹霧」を吹き散らした。吸い込めば肺を溶かし、触れれば鉄すら一瞬で赤錆に変える死の霧が、風馬の全方位から這い寄ってくる。


(冷徹になれ。肉体の痛みはただの信号だ。大自然の理に、私の風を合わせる)


風馬は右足の激痛を「無我の精神統一法」で完全に脳から遮断した。そして、足裏の湧泉穴から微細な気を放出し、泥の表面張力と自身の重心移動を完全に同調させる「泥濘歩行術」を起動する。彼の身体は泥に沈むことなく、まるで乾いた平地を滑るように超高速で移動を開始した。


迫り来る酸の霧に対し、風馬は折れ刃を泥濘の表面に滑り込ませた。気の力を刃先に集中させ、一気に上空へと跳ね上げる――「泥濘の足払い」。


*ザザァァァッ!*


風馬が放った真空の風圧に乗り、大量の泥水が巨大な散弾となって前方へと吹き飛んだ。泥の弾丸が蛭五郎の酸の霧を物理的に叩き落とし、中和しながら遮断する。霧の防壁が晴れた一瞬、風馬の皮膚感覚が、蛭五郎が動揺して後退する「空気の乱れ」を完璧に捉えた。


「な、何だと……!? 泥の上を走ってやがるのか、この化け物め!」


蛭五郎はパニックに陥り、酸吹き筒の最大出力を風馬の「風刃の折れ刃」に向けて直接噴射した。緑色に泡立つ強酸の粘液が、風馬の突き出した折れ刃の刀身を完全に包み込む。


蛭五郎の目に、邪悪な勝利の光が宿った。どんな名剣であっても、この酸を浴びれば一瞬で分子結合が崩壊し、ただの赤錆びたクズ鉄へと変わるはずだった。


しかし――金属の軋む悲鳴は、どこからも聞こえなかった。


「な、なぜだ……!? なぜ溶けねえ! なぜ錆びねえんだ!」


蛭五郎が驚愕の声を上げる。風馬の持つ一尺の刃は、かつて皇無惨によって叩き折られ、落剣渓谷の冷たい暴風雨と泥濘の中で「すでに錆び果てた不格好な鉄片」だったのだ。すでに極限まで酸化し、安定した錆の保護膜を纏っているその刃には、蛭五郎の酸が反応するための「純粋な金属表面」が最初から存在しなかった。


すでに錆びているからこそ、これ以上の腐食を受け付けない。持たざる者の「折れ刃」が持つ、皮肉なまでの絶対の耐性がそこにあった。


「形ある美しさは、容易に崩れる」


風馬は静かに告げ、目隠しの奥で世界の気流の線を捉えた。動揺して立ち尽くす蛭五郎の胸元に向けて、一尺の折れ刃を鋭く一閃させる。――「風斬」。


*ヒュッ!*


目に見えない透明な真空の刃が超高速で湿地を走り、蛭五郎の酸吹き筒ごと、彼の胸元を正確に切り裂いた。蛭五郎は短い悲鳴を上げて泥濘の中に沈み込み、二度と動かなくなった。


風馬は静かに歩み寄り、蛭五郎が懐に隠し持っていた、青い光を放つ小さな金属の破片を拾い上げた。これこそが、かつて父が鍛え、皇無惨に折られた家伝の剣「風刃」の破片――「風鳴鉄の残屑」だった。手のひらに載せた瞬間、折れ刃がまるで生き物のように歓喜の共鳴音を放ち、風馬の右腕の経絡を温かい気が駆け抜けた。


(手に入れた……。だが、時間が足りない。錆鉄製錬法で溶接している余裕は、一息すらない)


風馬の右足の裏は酸による軽い火傷で焼け付くように痛み、鼻の粘膜は極度の乾燥で血が滲んでいた。しかし、本堂の方向から、建物の柱が完全に破壊され、瓦礫が崩れ落ちる凄まじい地鳴りが地下水路を通じて伝わってきた。


剛三の最後の鉄槌が、アヤと慧海に振り下ろされようとしている。


風馬は「風鳴鉄の残屑」を漆塗りの折れ刃筒に押し込み、不完全な状態のまま、激しい痛みに耐えて廃寺の本堂へと向けて全力で引き返し始めた。

HẾT CHƯƠNG

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