無音の狂犬、闇を這う爪
地響きを立てて巨木の枝が泥濘へと崩れ落ちる。その轟音の裏で、烏(うからす)の短い悲鳴が風馬(ふうま)の耳に届いた。
「ぐ、あああっ!」
頭上から叩き落とされた烏は、ぬかるんだ泥の中へと無様に転がった。骨が折れる鈍い音が響き、吹き矢筒が手から滑り落ちる。すかさず、隻腕の巨漢・鉄平(てっぺい)がその巨体を泥濘に滑り込ませ、残された左手で黒鉄の野太刀を烏の首元に突き立てた。
「動くな、小悪党。これ以上羽ばたけば、その首を胴体から切り離してやる」
鉄平の野太い声が、暴風雨の音を裂いて響く。巨木の枝が倒れた地響きを感知しながら、風馬は折れ刃を構えたまま立ち尽くしていた。右頬にかすった毒針の麻痺が、すでに右顔面から首筋へと這い寄り、皮膚を凍てつかせるように蝕んでいる。両手の神経は麻痺で感覚を失い、耳からは微量の血が流れ落ちていた。激しい耳鳴りが頭の中で不協和音を奏で、周囲の気流の解像度を著しく低下させていく。
「風馬、こいつの身柄は押さえたぞ」鉄平が烏の胸を踏みつけながら言った。「おい、カラス。お前ら黒風党(こくふうとう)の巌鉄(がんてつ)が、なぜ十神剣宗の追討隊と繋がっていやがる。吐け!」
泥まみれの烏は、首元に突きつけられた野太刀の冷たさに震えながら、引きつった笑いを浮かべた。
「ひ、ひひ……。俺を殺しても、無駄だ……。巌鉄頭領は、すでに『狂犬』を放った……。お前たち死に損ないの鉄屑どもは、この森から一歩も出られずに切り刻まれるのさ……!」
「狂犬だと?」鉄平の眉が不快そうに歪んだ。
その刹那、風馬の皮膚を撫でる風の質が、劇的に変化した。常に冷たい暴風が吹き荒れる落剣渓谷において、不自然なほどに「静寂な真空」が周囲の空間を侵食し始めたのだ。木の葉が擦れ合う音が消え、雨粒が地面を叩く音さえも、まるで防音の幕で遮られたかのように遠ざかっていく。
「鉄平、離れろ!」
風馬が叫ぼうとしたが、右頬の麻痺のせいで声がかすれ、十分に喉が震えない。
闇の奥から、一切の足音を消し去った「死の気配」が這い寄ってきた。気配の主は、黒風党の斥候長・狂介(きょうすけ)。「狂犬」の異名を持つ、猫のようにしなやかで痩せ細った暗殺者だった。狂介は一対の「毒牙短刀」を操り、空気の摩擦音すらも完全に消し去る変則的な歩法で、風馬の死角である真後ろへと回り込んでいた。
風馬は「鳴り石の耳飾り」の増幅効果を極限まで高め、耳を澄まして敵の足音を追おうとした。だが、耳の奥の激しい耳鳴りと、狂介が放った「小石のデコイ音」に完全に惑わされた。
*コツン*
右斜め後方から響いた微小な音。風馬は反射的に右へ折れ刃を振り抜いた。しかし、それは虚空を切り裂いただけだった。本物の狂介は、左側から完全に無音で肉薄していたのだ。
「ひひっ、見えないってのは不便だねえ、お坊ちゃん!」
闇を切り裂く、湿った嘲笑。次の瞬間、狂介の毒牙短刀が風馬の背後から襲いかかった。
*ズシュッ!*
鋭い痛みが風馬の右肩から背中にかけて走った。錆びた短刀の刃が肉を深く削ぎ、鮮血が夜の闇へと飛び散る。短刀に塗られた強烈な麻痺毒が、傷口から体内へと侵入し、ただでさえ麻痺していた右腕の感覚を完全に消失させた。激しい痛みが脳を直撃し、視界を失った風馬の心に、絶対的な「暗闇の恐怖」が這い上がってきた。
(見えない……音が、聞こえない……!)
耳鳴りはさらに激しくなり、周囲の音の輪郭を完全に塗り潰していく。狂介の不気味な気配が、まるで四方八方から同時に迫ってくるかのように感じられ、風馬の心拍数は異常なまでに跳ね上がった。恐怖が気の流れを乱し、経絡が激しく軋む。
「どうした、お坊ちゃん! その錆びた鉄屑じゃ、俺の爪は防げないぜ!」
狂介が猫のような不規則なステップで、再び無音の連撃を仕掛けてくる。短刀の刃先が、風馬の喉元を目がけて滑り込んできた。
(落ち着け……。雑念を消せ。耳で聴こうとするな。肌で、風の流れを詠め)
絶体絶命の淵で、風馬の脳裏に師・弦庵(げんあん)の冷徹な声が響いた。*「目に見える美しさは真実を曇らせ、見えぬ風の音こそが本質を語る」*
風馬は深く、鋭く「風詠みの呼吸法」を起動した。極寒の空気を肺の奥深くへと吸い込み、心拍数を強制的に低下させて気の乱れを鎮める。脳内の雑音を完全に遮断し、自身の存在を一時的に「無」にする「無我の精神統一法」の境地へと滑り込んだ。
「風の領域(ウィンド・ドメイン)」を展開する。
感知半径を周囲五歩から、全身の皮膚の毛穴へと収束させた。音が消された空間であっても、狂介という「質量」が移動する以上、空気が物理的に押し出される流れは決して偽装できない。狂介が短刀を突き出すために踏み込んだ瞬間、彼の衣服が空気を押すことで発生する「微細な気流の圧縮(風圧の乱れ)」を、風馬の剥き出しの皮膚が鮮烈に捉えた。
さらに、狂介の短刀が通り抜けた後の、極小の「空気の真空の穴(引き波)」が、気圧の急変となって風馬の首筋の毛穴を刺激する。
(そこだ……。お前の刃の軌道は、すでに風が語っている!)
風馬は全身の筋肉の緊張を完全に排除する「脱力の身のこなし」を使い、狂介の突き出す短刀の風圧に押されるようにして、物理的な接触を未然に回避した。狂介の刃先が、風馬の喉元の皮膚を一厘の差でかすめて通り過ぎる。
「なっ……かわしただと!?」
狂介が驚愕し、その動作がわずかに大きく乱れた。その油断が、周囲の気流をさらに激しく乱し、風馬の脳裏に敵の正確な骨格の輪郭を描き出した。
風馬は、感覚の消えた両手に残る最後の「気」を折れ刃へと注ぎ込んだ。一尺の錆びた鉄片が、周囲の風を吸い込んで微細に高速振動を始める。目に見えない「真空の刃」が、折れ刃の先端から前方の空間へと鋭く伸びていく。風の民の血統が、彼の肉体の限界を超えて完全覚醒しようとしていた。
その瞬間、風馬の黒い目隠しの奥、光を失ったはずの濁った両目の奥が、微かに青く、神秘的な光を放った。
狂介の身体が引き起こす「目に見えぬ気流の歪み」が、鮮やかな光の線として、風馬の脳裏に完璧に可視化されたのだ。これが、一族の血統がもたらす「真実の視界(金属の死相)」の目覚めだった。
「破刃(はじん)――!」
風馬は身を翻し、振り向きざまに折れ刃の先端を、狂介の毒牙短刀の「接合部(鍔と刃の連結ピン)」に向けて正確無比に突き立てた。力による激突ではない。狂介の武器の最も脆い分子結合の点を、ピンポイントで突いたのだ。
*キィィン!*
強烈な高周波の共鳴音が炸裂し、狂介の毒牙短刀の連結ピンが内部から分子崩壊を起こして粉々に砕け散った。刃を失った短刀の柄だけが、狂介の手の中に虚しく残る。
「ば、馬鹿な……俺の短刀が……!」
狂介が絶叫する間もなく、風馬は折れ刃を滑らせ、狂介の両腕の腱を無音で切り裂いた。
「ぐああああっ!」
両腕の力を失った狂介は、泥濘へと崩れ落ち、這いつくばりながら森の闇奥へと逃走していった。撃退には成功したものの、風馬の肉体も限界を迎えていた。背中と右肩の傷から流れ出る麻痺毒が全身の経絡を焼き切り、立っていることすら困難なほどの激痛と虚脱感が襲う。
(毒が……回って……)
風馬の膝が折れ、折れ刃を握る右手が泥の中に滑り落ちた。感覚が遠ざかり、世界の音が完全な静寂へと沈んでいく。意識を失いかけた風馬の濁った視界(脳内映像)に、温かい光のような気流が近づいてくるのが感じられた。
その温かい気流の持ち主は、廃寺の老僧・慧海(えかい)と、言葉を失った少女・アヤだった。アヤの小さな手が、泥にまみれた風馬の手を優しく握りしめる感触を最後に、風馬の意識は深い闇へと沈んでいった。
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