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黒風の羽ばたき、虚空を裂く風きり

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泥濘に伏した右手が、冷たい鉄の感触を求めて這う。


耳の奥で、キィィンという金属の擦れ合うような高周波の雑音が、脳を内側からかきむしっていた。先ほど、折れ剣の墓場で巨大な大剣を粉砕した代償は、想像以上に風馬(ふうま)の肉体を蝕んでいる。両手の神経は完全に麻痺し、指先はまるで凍りついた木切れのように感覚を失っていた。手のひらが激しく震え、泥を掴むことすらおぼつかない。耳からは生暖かい血が絶え間なく流れ落ち、冷たい雨に打たれて泥濘へと溶けていく。


「どこだ……俺の、刃……」


手探りで泥をかき分け、ようやく指先が、見慣れた不格好な「風刃の折れ刃」の柄に触れた。一尺(約30cm)ほどの、先端が不規則に砕けた錆びた鉄片。かつて父・風十郎が鍛え、皇無惨(すめらぎむざん)に折られた家伝の剣の残骸。それだけが、この不毛の流刑地で風馬が持つ唯一の魂だった。


「風馬、無茶をするな!」


岩陰から、老鉱夫の茂吉(もきち)が声を殺して叫んだ。風馬の神がかり的な「破刃の理」を目撃し、腰を抜かしていた老人は、今や恐怖に顔を歪めている。風馬は泥だらけの右手に力を込め、感覚の失せた指でどうにか折れ刃を握りしめ、泥の中から引きずり出した。


「来るぞ……。ただの風じゃねえ。木々の葉を揺らす、あの不自然な羽ばたき……黒風党(こくふうとう)の回し者だ!」


風馬の「風の領域(ウィンド・ドメイン)」が、周囲の暴風雨のノイズを突き抜けて這い寄る、冷たい殺気を捉えていた。森の入り口、立ち並ぶ巨木の梢から、ピィィ、ピィィ、と不自然に澄んだ鳥の鳴き声が響く。それは、落剣渓谷を支配する野盗集団・黒風党の首領である巌鉄(がんてつ)の命令を受け、流刑者たちの「錆び村」を容赦なく搾取する斥候――「烏(うからす)」の口笛だった。


「チッ、不吉なカラスが鳴きやがるな」


ぬかるんだ泥を踏みしめ、隻腕の巨漢・鉄平(てっぺい)が風馬の背後に滑り込んできた。その左手には、黒鉄の野太刀が硬く握られている。その大柄な体躯から放たれる威圧感が、雨幕をわずかに揺らした。


「風馬、お前の両手、完全にイカれてやがるな。剣もまともに握れねえ状態で、あの樹上のネズミをどうするつもりだ?」


「……問題ない。鉄平、下がっていろ。奴の狙いは俺だ」


風馬は掠れた声で答え、震える両手で折れ刃の柄を握り直した。感覚の消えた指を、布で柄に縛り付けたいほどの焦燥感が胸を焼く。しかし、ここで退けば、錆び村の者たちは黒風党の搾取から永遠に逃れられない。


梢の上で、烏が不敵に笑う気配が風に乗って伝わってきた。


「目隠しの小僧が、大剣を壊したと聞いて来てみれば……ただの死に損ないではないか。巌鉄頭領への手土産に、その折れ刃、貰い受ける!」


烏が黒い羽をあしらった服を揺らし、樹上の細い枝の上でしなやかにバランスを取りながら、手にした特殊な吹き矢筒を口元に運ぶ。


*シュッ*


極小の風切り音。音速に近い速度で、細い麻痺針が放たれた。


風馬は耳飾りの音響定位に頼り、飛来する針の軌道を捉えようとした。しかし、耳の奥で鳴り響く強烈な耳鳴りが、音の輪郭を完全に曇らせていた。風の乱反射が、針の正確な位置を惑わせる。


(しまっ――)


反応がコンマ数秒遅れた。


*チッ*


冷たい感触が風馬の右頬をかすめ、雨に濡れた皮膚に一本の赤い線が走った。微小な麻痺毒が塗られた極細の針。かすり傷だというのに、毒が瞬時に浸透し、顔の右半分が急速に冷たく、感覚を失っていく。


「風馬!」


鉄平が野太刀を構えて前に出ようとする。


「来るな!」風馬は鋭く制した。「耳を澄ますな……肌で風を詠め。音は、奴が偽る」


烏は樹上を素早く飛び移りながら、鳥の鳴き声を模した口笛を吹き鳴らした。さらに、わざと周囲の枝を激しく揺らし、濡れた葉を大量に落とすことで、風馬の聴覚を徹底的に混乱させようとしている。四方八方から落ちる木の葉の音が、風馬の耳元で巨大なノイズの壁となって立ち塞がった。


(落ち着け。雑念を消せ。皇無惨への憎しみも、失明した恐怖も、すべて風の中に溶かせ)


風馬は「風詠みの呼吸法」を起動した。錆の粉塵が混ざった極寒の空気を、肺の奥深くへと吸い込む。肺胞が激しく痛み、口の端から生暖かい血が滲み出たが、彼は構わずに呼吸の周期を大気のうねりと同調させた。心拍数が劇的に低下し、脳の雑音が消えていく。


「風の領域(ウィンド・ドメイン)」を展開する。


当初は周囲五歩だった感知半径が、全神経を皮膚の毛穴へと集中させることで、十歩、二十歩へと、梢の高さまで静かに押し広がっていった。耳に入ってくる不協和音はすべて「ノイズ」として脳内で遮断した。彼が信じるのは、空気という物質が動くときに物理的に発生する「気流の乱れ(風圧)」だけだった。


烏が次の太い枝へと跳躍する。


その瞬間、枝がしなり、周囲の空気が一瞬だけ「押し出される」摩擦気流が、風馬の皮膚に鮮明な触覚として伝わった。さらに、烏が放った吹き矢の針が通り抜けた後の、極小の「空気の真空の穴(引き波)」が、気圧の急変となって風馬の頬の毛穴を刺激する。


(そこだ。お前の逃げ道は、すでに風が語っている。どれほど音を偽ろうと、お前の肉体が空気を押しのける流れまでは消せない)


烏は、風馬が麻痺と毒によって完全に動きを止めた無防備な状態であると誤認し、勝利を確信して次の毒針を吹き矢筒に装填していた。その油断が、彼の動作をわずかに大きくし、周囲の気流をさらに激しく乱した。


風馬は、感覚の消えた両手に残るすべての「気」を、折れ刃の刀身へと一気に収束させた。一尺の錆びた鉄片が、周囲の風を貪るように吸い込み、刀身の結晶構造が微細に高速振動を始める。目に見えない半透明の「真空の刃」が、折れ刃の先端から前方の空間へと、牙を剥くように伸びていく。風の民の血統が、彼の肉体の限界を超えて覚醒し始めていた。


「風斬(かぜきり)――!」


風馬は、麻痺した両手を腰の回転と連動させ、折れ刃を樹上に向けて鋭く一閃させた。


*ヒュン!*


空気が一瞬にして切り裂かれ、超高速で圧縮された空気の刃が、目に見えない巨大な風の爪となって虚空を裂いた。巨木が立ち並ぶ森の静寂が、一瞬にして打ち破られる。


*ズガァァァン!*


凄まじい衝撃音と共に、烏が陣取っていた太い巨木の枝が、斜めに美しく、真っ二つに切り裂かれて宙を舞った。

HẾT CHƯƠNG

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