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死せる刃の悲鳴、破刃の理

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「明日から、あの『折れ剣の墓場』へ行け。そこで、死せる鉄が風に震えて発する、最期の悲鳴を聴き分けるのだ」


 先代剣聖・弦庵(げんあん)の冷徹な言葉が、夜明け前の薄暗い絶壁に未だ残響となって留まっているようだった。風馬(ふうま)は、切り立った絶壁の庵を後にし、一歩一歩、落剣渓谷の底へと向かって歩みを進めていた。


 左肩の裂傷は、鉄平(てっぺい)が巻いてくれたボロ布で固く圧迫止血されているものの、腕をわずかに揺らすだけで、焼けるような激痛が走る。肺の奥は「風詠みの呼吸法」を極限まで酷使したせいで、呼吸を吸い込むたびに血の味がせり上がってきた。だが、風馬は黒い目隠しの奥で、ただひたすらに前方の「風の乱れ」に全神経を集中させていた。


 彼の懐には、弦庵から授かった「風詠みの古文書」――風鳴鉄の薄板がずっしりと重みを持って収まっており、左手には鉄平から渡された「錆鉄屑(さびてつくず)」が握り締められている。これらは、彼がこの地獄で生き延びるための、唯一の拠り所だった。


 谷の底へ下るにつれ、風の質が変わっていくのが肌で分かった。絶壁を吹き抜ける鋭く冷たい突風とは異なり、地表に近づくほど、風は重く、湿り気を帯び、そして強烈な「鉄の錆びる臭い」を運んできた。酸化した鉄の、人間の血に酷似した生臭い臭気が、鼻腔を容赦なく満たしていく。


 やがて、風馬の「聴風境(ちょうふうきょう)」の知覚領域に、異様な音の嵐が飛び込んできた。


 キィィン、キィン、ヒュルルル、ワン、ワン――。


 それは、言葉にできない不気味な不協和音の合奏だった。何百、何万という折れた鉄片が、渓谷を吹き荒れる冷たい暴風に震わされ、それぞれの「死の声」を上げて泣き喚いている。帝国の歴史の中で、御前試合や戦場で叩き折られ、不毛の流刑地へと遺棄された伝説の神兵、名剣の残骸。それらが突き刺さる丘こそが、「折れ剣の墓場(おれけんのはかば)」だった。


「ぐっ……!」


 無数の金属音が四方八方から鼓膜を突き刺し、風馬は思わずその場に膝を突き、両耳を押さえた。あまりのノイズの多さに、脳が激しく揺さぶられ、強烈な耳鳴りが頭痛となって襲いかかる。風の通り道(気流)を詠もうとしても、鉄片たちが発する振動が風をズタズタに切り裂き、世界の輪郭が完全に混濁して見えなくなってしまったのだ。


「おいおい、そんなところでへたり込んでいたら、風に飛ばされた鉄片で首を刈り取られちまうぞ、小僧」


 混濁する音の嵐の奥から、不意に、泥と錆に汚れた、しかし低く落ち着いた老人の声が聞こえた。


 風馬は警戒し、右手で腰の「風刃の折れ刃」を握り締めた。立ち上がろうとするが、足元の泥が滑り、肩の傷が痛んで体勢が崩れる。


「おっと、無理をするな。殺気立つ必要はない。俺はただの、錆を掘るだけの薄汚れた年寄りだ」


 コツ、コツ、コツ――。


 風馬の感知領域(ドメイン)に、一本の小さな金属槌が岩を叩く、小気味よい規則的な音が描き出された。その音をたどると、背中が丸く曲がった小柄な老人が、泥だらけの皮エプロンを纏い、地面にしゃがみ込んでいる気配が伝わってきた。老鉱夫・茂吉(もきち)だった。


「お前、弦庵のジジイのところにいたガキだな。その目隠しと、腰の一尺のナマクラを見れば分かる。あいつに言われて、ここで『鉄の悲鳴』を聴きに来たんだろう?」


 茂吉は手にした小さな探鉱槌で、近くに突き刺さっていた錆びた大剣の刀身を軽く叩いた。


*コン――*


 鈍く、しかしどこか濁った音が、風馬の耳に届く。


「いいか、小僧。鉄にも命がある。人間と同じようにな。叩き鍛えられ、名剣と持て囃された鉄も、戦いの中で傷つき、応力を溜め込み、やがて限界を迎える。限界に達した鉄はな、風に吹かれるだけで、目に見えぬ細かな亀裂から悲鳴を上げるんだ」


 茂吉はしゃがみ込み、風馬の目の前にある錆びた鉄片を指差した。


「この墓場にある鉄は、みんな死にたがっている。だが、死にきれずに風に震えて泣いているんだ。お前がやるべきなのは、その『最期の悲鳴』を、この暴風のノイズの中から、ただ一音だけ分離して聴き取ることだ」


 風馬は、茂吉の言葉を噛み締めながら、冷たい泥の上に静かに座り込んだ。風に吹かれて飛んでくる鋭い鉄片が、彼の煤けた灰色のボロ布をかすめ、頬に微小な切り傷を作る。錆の粉塵が舞い散り、呼吸をするたびに肺が激しく咳き込んだが、風馬は「風詠みの呼吸法」を起動し、自身の呼吸を大気のうねりと同調させ始めた。


 心拍数を極限まで下げ、頭の中の雑念(皇無惨への憎悪、暗闇への恐怖)を消し去る。耳飾りの青い共鳴鉱石が、周囲の音を物理的に増幅するが、それを脳内で「不要なノイズ」と「必要な情報」へと冷徹に分離していく。


 初めはただの巨大な雑音の塊だったものが、呼吸を重ねるにつれ、一本一本の折れ剣が奏でる固有の振動波へと解れていくのが分かった。鋼、青銅、玄鉄――材質によって、風に震える音階がわずかに異なる。


(聴き分けるんだ……。鉄の、死の音を……)


 その時、突風が墓場の丘を激しく吹き抜けた。何万もの鉄片が一斉に鳴り響く中、風馬の「鉄疲労の聴音術」が、ある特定の高周波を捉えた。


 彼の間近に突き刺さっている、かつては名門の剣士が使っていたであろう、厚刃の錆びた大剣。その刀身が、風の圧力に耐えかねて、キィィィ……と、極めて微細な、しかし耳の奥を掻きむしるような悲鳴を上げていた。


 風馬は無意識に手を伸ばし、その大剣の冷たく錆びた刀身に指先を触れた。その瞬間、彼の脳裏(黒い目隠しの奥の暗闇)に、衝撃的な光景が描き出された。


 大剣の内部結晶が、長年の金属疲労によってズタズタに引き裂かれ、今まさに崩壊しようとしている「赤い歪みの点(メタル・デスライン)」が、鮮烈な光の交点として脳内に浮かび上がったのだ。これこそが、物質としての名剣が抱える、限界の真実だった。


「そこか――」


 風馬は、腰の帯から「風刃の折れ刃」を静かに引き抜いた。長さわずか一尺の、錆び果てた不格好な鉄片。彼は力任せに振り回すのをやめ、全身の力を完全に抜いた。風の抵抗をゼロにする「脱力の身のこなし」のまま、風の流れに刃を乗せる。


 そして、脳裏に描かれた大剣の「赤い歪みの点」に向けて、自身の折れ刃の先端を、そっと滑り込ませるように衝突させた。


*キィィン――パキィィン!*


 激しい激突の衝撃音はなかった。ただ、極小の澄んだ共鳴音が響いた瞬間、人間の胴体ほどもある巨大な錆びた大剣が、まるで凍りついたガラスのように、その接合部から一瞬にして粉々に砕け散り、泥濘へと崩れ落ちた。


 最小の力で、巨大な質量を粉砕したのだ。


「……なん、だと……?」


 傍らでそれを見ていた老鉱夫・茂吉が、手にした探鉱槌を泥の中に落とし、目を見開いて絶句した。力ではなく、鉄の「限界の悲鳴」を聴き、その崩壊の瞬間を突く技術。これこそが、風馬が初めて体得した「破刃の理・初期(はじんのり・しょき)」の覚醒の瞬間だった。


 しかし、大剣が砕け散った瞬間の強烈な金属の共鳴振動が、風馬の折れ刃を通じて、彼の両手へと容赦なく逆流した。


「うぐっ……!」


 両手の神経が激しく麻痺し、腱が引き裂かれるような激痛が走る。風馬は折れ刃を握る力を失い、剣を地面に落としてしまった。両手は激しく震え、感覚が完全に消失している。さらに、耳の奥からは、高周波の過剰な負荷によって、微量の鮮血が冷たく流れ落ち、頬を伝った。肺に吸い込んだ錆の粉塵が、彼の喉を激しく刺激し、泥の中に這いつくばって激しく咳き込んだ。


「おい、大丈夫か、小僧!」


 茂吉が慌てて駆け寄ろうとした、その時だった。


 風馬の過剰に覚醒した「風の領域」が、墓場の入り口を吹き抜ける風の乱れの中に、極めて不自然な「淀み」を感知した。


 それは自然の風ではない。何者かが、自身の気配を殺し、風の抵抗を最小限に抑えながら、こちらに向けて静かに、しかし確実に這い寄ってくる「殺意の気流」だった。


(誰かが、来る……。この錆の煙に紛れて、俺を狙っている……)


 風馬は震える手を泥に押し当て、落とした折れ刃を必死に探りながら、暗闇の先から迫る「黒風の牙」の予兆を、その肌で敏感に感じ取っていた。

HẾT CHƯƠNG

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