盲目の剣聖、絶壁の庵
「ここから先は、俺の入る領域じゃねえ」
豪雨が絶え間なく叩きつける落剣渓谷の最果て。切り立った絶壁の麓で、隻腕の戦士・鉄平は足を止め、背負った巨大な黒鉄の野太刀を濡らしながら言った。
「あの偏屈クソジジイ――先代剣聖の弦庵(げんあん)の庵は、この絶壁のてっぺんだ。命綱なしでこの嵐の中を登る度胸がなけりゃ、大人しく泥の中に帰るんだな、風馬」
風馬は何も答えなかった。黒い目隠しの奥で、ただ上空から吹き下ろす猛烈な風のうねりを静かに聴いていた。左肩の深い裂傷は、鉄平が引きちぎったボロ布で急場をしのいだだけに過ぎず、一歩動くたびに鋭い激痛が走る。手の平には、先ほど鉄平から手渡された冷たくて重い「錆鉄屑(さびてつくず)」が握り締められていた。これが、この地獄で生き抜くための最初の鉄の価値。そして、己の折れ刃を鍛え直すための足がかりだ。
風馬は折れ刃を腰の帯に差し込むと、ためらうことなく垂直の岩壁に手をかけた。
「おいおい、本当に登りやがるか……。死ぬんじゃねえぞ、ガキ」
鉄平の野太い声が風に消えていく。風馬は全身の感覚を指先に集中させた。岩肌は雨と泥で滑り、どこを踏み外しても確実な死が待っている。しかし、風馬には「見えて」いた。岩壁に衝突した暴風が、どのように跳ね返り、どの割れ目に「風の淀み(安全な足場)」を作り出しているのかが、皮膚を撫でる気圧の変化で立体的に伝わってくるのだ。
「風詠みの呼吸法」を極限まで深く、静かに回す。肺の奥が焼けるように痛み、喉元から血の味がせり上がってくるが、それを無理やり飲み込んだ。指先が岩の割れ目を捉え、一歩、また一歩と、命綱なしで絶壁を登りつめていく。突風が身体を剥ぎ取ろうとするたびに、風馬は筋肉の緊張を抜き、風の圧力に身体を滑らせるようにして衝撃を逃がした。呑龍(どんりゅう)から教わった「脱力の身のこなし」の基本が、この極限の絶壁において彼の命を繋ぎ止めていた。
どれほどの時間が流れただろうか。ついに風馬の指先が、絶壁の頂の冷たい平地を掴んだ。身体を引き上げ、泥まみれの岩肌に這い上がる。激しく咳き込みながら、口から溢れた血を雨水が洗い流していった。
立ち上がった風馬の皮膚を、これまで経験したことのない「異質な気流」が撫でた。嵐の暴風の中に、ぽっかりと空いた、不自然なほどに「静寂な空間」――気配が完全に消失したその場所に、古い木造の小屋が佇んでいる。弦庵の庵(げんあんのいおり)だ。
「誰に立ち入りを許した、死に損ないめ」
背後から響いたのは、枯れ木が擦れ合うような、冷酷で乾いた老人の声だった。風馬の背筋に、氷のような戦慄が走る。一切の足音も、衣擦れの音すらも聞こえなかった。ただ、そこに「絶対的な死の真空」が存在していることだけが、風馬の風詠みの領域(ドメイン)に冷たく突き刺さっていた。
振り返ると、そこには襤褸を纏い、白い目隠しをした小柄な老人が立っていた。先代剣聖・弦庵。その佇まいは、まるで千年もそこに立ち続ける枯れ木のようで、一切の生命の揺らぎを感じさせない。
「弦庵……先生」
風馬は掠れた声で呼びかけ、腰の「風刃の折れ刃」に手をかけた。皇無惨(すめらぎむざん)への復讐を果たすため、この地獄から這い上がるための力を求めて、ここへ来たのだと示すように。
しかし、弦庵は冷たく鼻で笑った。
「お前の中に燃えるのは、ただの泥臭い憎悪の火だ。皇無惨への復讐だと? 己の刃すら信じ切れず、ただ奪われたものへの未練で剣を握るナマクラが、あ奴の『天無(てんむ)』に届くと思うか。その折れた鉄屑と共に、崖の下へ転がり落ちるがいい」
「俺の剣は、折れていない……!」
風馬は激昂し、一尺の不格好な折れ刃を引き抜いた。だが、その瞬間、弦庵の身体が一瞬にして「風の隙間」へと消えた。
「ならば、証明してみせよ」
無音。弦庵が手にするのは、刃の付いていない一本の「無鉄の木剣(むてつのぼっけん)」。それが、空気を切り裂く風切り音を一切立てず、完全な無音の軌道を描いて風馬の喉元へと突き出された。
風馬は「鳴り石の耳飾り」の増幅効果に頼り、音で敵の刃を捉えようとした。しかし、耳に入ってくるのは周囲の激しい嵐の雑音だけで、弦庵の木剣が放つ「音」はどこにも存在しない。完全に耳を欺かれた風馬は、反応がコンマ数秒遅れた。
*ゴン!*
「がはっ……!」
冷たい木剣の先端が、風馬の喉元を正確に捉えた。息が詰まり、衝撃で身体が大きく宙に浮く。風馬は防護の気の壁を作る暇もなく、絶壁の端へと弾き飛ばされ、背後の奈落へと滑落しかけた。
「音を聴くのではない。世界の震動と同調しろ!」
弦庵の叱咤が、嵐の雷鳴よりも鋭く響く。風馬は必死に崖の縁に指をかけ、這い上がろうとしたが、その焦りから力任せに折れ刃を振り回した。弦庵の木剣を叩き落とそうとする、ただの暴力的な一撃。だが、その刃は虚空を虚しく切り裂くだけだった。弦庵は一歩も動かず、風馬が自ら作り出した風の乱れをわずかに避けると、木剣の柄で風馬の足を軽く払った。
*ドサリ!*
風馬は冷たい岩肌に叩きつけられ、泥の中に転がった。全身の傷口が開き、激しい痛みが脳を支配する。かつて十神剣宗の天才と持て囃されたプライドは、この盲目の老人の前で、完全に粉々に打ち砕かれていた。何もできない。音を消されただけで、自分はただの無力な盲人に過ぎないのか。
「目に見える強さに惑わされ、耳に聞こえる雑音に魂を奪われる。お前の剣は、心の中でとうに折れているのだ」
弦庵の木剣が、再び風馬の眉間に向けられる。その静かな、しかし絶対的な死の圧力を前に、風馬の脳裏に父・風十郎の言葉が蘇った。
*『風馬、目に見える美しさは、時に真実を曇らせる。見えぬ風の音こそが、物事の本質を語るのだ』*
雑音を聴くのではない。風を、世界の動きそのものを、自身の肌で、経絡で感じろ。風馬は深く息を吐き、「風詠みの呼吸法」を極限まで遅くした。一分間に一回という、心臓の鼓動すらも停止させるかのような深い呼吸。嵐の雑音が、彼の脳内で徐々に「規則的な気圧の波」へと変わっていく。絶壁を叩く突風の周期が、彼の全身の毛穴を通じて、鮮明な立体の波紋として描き出された。
弦庵が、再び木剣を突き出してきた。やはり音は一切しない。しかし、その刃が突き進む瞬間、前方の空気が物理的に左右に押し出され、風馬の顔の皮膚に「極小の引き波(低気圧の渦)」が触れた。
(そこだ――)
風馬は折れ刃を力任せに振るうのをやめた。全身の力を完全に抜く。そして、迫り来る引き波の軌道に合わせ、一尺の折れ刃をわずかに「斜め四十五度」に傾けた。気の巡りを刃先に集中させ、気流を滑らせるように誘導する。
*フッ。*
弦庵の無音の突きが、風馬の折れ刃の平に接触した。激突の衝撃はない。ただ、風馬が傾けた刃が作り出した「微細な気流の歪み」によって、木剣の突進のベクトルが物理的に横へと滑り、風馬の首筋の数寸横を不自然に通り抜けていった。
風の流れを詠み、その流れを逸らす。無形の剣の、最初の一歩だった。
弦庵の木剣が止まった。嵐の突風が二人の間を吹き抜ける中、老剣士の白い目隠しの奥の表情が、微かに和らいだ気配を見せた。その枯れ木のような佇まいに、初めて「生きた人間の温度」が宿る。
「……ほう」
弦庵は静かに木剣を引くと、汚れた着物の懐から、ずっしりと重い一枚の古い鉄板を取り出し、風馬の足元へと投げ出した。
*ガシャリ。*
鈍い金属音が響く。それは、微細な風の揺らぎを受けて「キィン」と青く共鳴する、特殊な風鳴鉄(かぜなみてつ)で作られた薄板だった。その表面には、風馬の指先が触れれば読み取れる、微細な凹凸の紋様が刻まれている。
「これを受け取れ。お前の一族の、失われた遺産だ」
風馬が震える手でその鉄板に触れた瞬間、一族の失われた功法を記した「風詠みの古文書(ふうよみのこもんじょ)」の記憶が、彼の脳裏に鮮烈な光となって流れ込んできた。弦庵は風馬を見下ろし、冷酷だが確かな道標を示すように告げた。
「庵への立ち入りは許そう。だが、修行は始まったばかりだ。明日から、あの『折れ剣の墓場』へ行け。そこで、死せる鉄が風に震えて発する、最期の悲鳴を聴き分けるのだ」
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