泥濘の隻腕、錆びた同盟
冷たい雨が、容赦なく黒い世界を叩きつけていた。
落剣渓谷(らっけんけいこく)の底に広がる「錆び村」の境界地帯。ここは泥濘と化した不毛の地であり、絶えず吹き荒れる暴風が、雨水を鋭い針のように変えて風馬(ふうま)の肌を刺していた。
「はぁ、はぁ、はぁ……」
風馬は泥の中に膝を突き、荒い呼吸を繰り返していた。左肩の切り傷からは、今も温かい血が流れ落ち、雨水に薄められながら泥濘へと吸い込まれていく。一族の秘伝である「風詠みの呼吸法(ふうよみのこきゅうほう)」を急激に酷使した代償として、彼の肺は火を噴くように熱く、口の端からは鉄の味がする血が滴り落ちていた。
両目を覆う黒い目隠しの奥で、風馬は必死に周囲の「風」を詠もうとしていた。だが、激しい豪雨の音と、岩壁に乱反射する雨の残響が、彼の「音響定位」を激しく掻き乱す。世界は、濁ったノイズの嵐で満たされていた。
グチャ、グチャリ。
泥を踏みしめる不快な足音が、四方から近づいてくる。先ほどの流刑者たちを撃退したものの、その騒ぎを聞きつけた別の「ハイエナ」どもが集まってきたのだ。彼らは黒風党(こくふうとう)の下級野盗。飢えに狂い、他者の剥ぎ取りだけで生き延びてきたスラムの亡者たちだった。
「おい、見ろよ。本当にガキが一人で倒れてやがるぞ」
「その手に握っている折れ刃……錆びちゃいるが、いい鉄だ。よこしな!」
欲望に濡れた声と共に、正面から荒々しい風圧が迫る。風馬は「脱力の身のこなし(だつりょくのみなし)」を起動し、襲い来る木槌の風圧に身体を預けて回避しようとした。
だが、その瞬間、風馬の足元がズブズブと深く沈み込んだ。錆び村の境界を囲む底なしの泥濘。まとわりつく粘土質の泥が、彼の足首を掴んで離さない。重心移動を物理的に制限された肉体は、滑らかな回避運動を行うことができなかった。
「しまっ――」
体勢が崩れた風馬の脳天に向けて、錆びた槍の穂先が冷たい風を切り裂きながら突き出される。泥に足を取られ、跳躍して避けることもできない。見えない暗闇の中で、死の槍が風馬の首筋へと迫る。肺の炎症による激しい咳き込みが、彼の反応を一瞬遅らせていた。
その絶体絶命の瞬間、風馬の感知領域(ドメイン)を、これまでに経験したことのない「巨大な質量」が横切った。
ゴォォォン!
空気を、そして激しい雨幕を力任せに薙ぎ払う、凄まじい重低音。それは風を切り裂く音ではなく、風そのものを物理的に叩き潰すような暴力的な風圧だった。
*ギィィン!*
金属同士が激しく激突する、耳を聾するような不協和音が炸裂した。風馬の喉元に迫っていた錆びた槍は、その圧倒的な質量の一撃によって、根元から叩き折られて虚空へと吹き飛んでいった。
「チッ、目隠しのガキ一人に、大の大人が群がって何をもたついてやがる!」
濁った豪雨の向こうから響いたのは、岩を削り出したかのように野太く、粗野な男の声だった。
風馬は泥にまみれながら、必死に呼吸を整え、その男が引き起こす「風の流れ」を詠んだ。男は右腕を失っていた。左手一本で、自身の身長ほどもある巨大な「黒鉄の野太刀」を軽々と操っている。その大柄な体躯から放たれる圧倒的な威圧感は、周囲の野盗たちを一瞬で恐怖に陥れた。
「て、鉄平(てっぺい)……! なぜ元野盗の幹部がこんなところにいやがる!」
「隻腕の化け物め、邪魔をする気か!」
野盗たちが怯えながらも、獲物を諦めきれずに武器を構え直す。鉄平と呼ばれた隻腕の男は、鼻で冷たく笑うと、巨大な野太刀を肩に担ぎ直した。その動作に伴って発生する気流の乱れから、風馬は彼の正確な位置を把握し、自身の背後をカバーするように静かに身を寄せた。
「邪魔だと? 勘違いするな。俺はこのガキの『折れ刃』に用があるだけだ。だが、お前らのような雑魚にこいつを切り刻まれるのは、少々寝覚めが悪いんでな」
鉄平は風馬に背中を向け、にやりと笑った気配を見せた。
「おい、盲目のガキ。死にたくなければ俺の背中に合わせろ。この泥地じゃ、一人で動けば自滅するだけだぞ」
風馬は一瞬、強い警戒心を抱いた。十神剣宗の裏切りを経験して以来、他者を信じることは死を意味していた。だが、傷ついた今の肉体と、このまとわりつく泥濘の中では、一人で全ての敵を防ぎきることは不可能だ。風馬は自身の「銅鉄級・気流感知(どうてつきゅう・きりゅうかんち)」を極限まで研ぎ澄まし、鉄平の左腕が引き起こす風のうねりを皮膚で捉えた。
「……背中は、預ける」
風馬は短く、冷徹な声で応じた。二人の錆びた同盟が、この冷たい雨の中で結ばれた瞬間だった。
「へっ、話が早くて助かるぜ!」
鉄平が泥を蹴って前に踏み出した。その巨体が動くことで、前方の空気が一気に押し出され、風馬の皮膚に「強い引き波(低気圧)」が伝わる。風馬はその引き波に乗るようにして、自身の身体を脱力させ、泥に足を奪われることなく滑らかに移動を開始した。
野盗たちが一斉に襲いかかってくる。雨粒が彼らの汚れた革鎧や剥き出しの皮膚に衝突し、パチパチと極小の音を立てていた。風馬の耳は、その雨粒の衝突音を媒介にして、敵の踏み込みのタイミングをミリ単位で感知し始める。
「死ねぇ!」
一人の野盗が、横から錆びた大鎌を振り回して突進してきた。風馬は「脱力の身のこなし」を使い、大鎌が空気を切り裂く風圧をギリギリまで引きつけ、木の葉のように身体を傾けてかわした。しかし、泥の深みに右足が沈み込み、身体のバランスが大きく崩れる。大鎌の刃が風馬の目隠しを掠め、あわや脳天を叩き割られそうになる。
「甘ぇんだよ、ガキ!」
すかさず鉄平が叫び、左手一本で黒鉄の野太刀を豪快に地面へと叩きつけた。
*ザシュゥゥゥン!*
野太刀の平が泥濘を激しく叩き、大量の厚い泥水が波濤となって前方の野盗たちの顔面へと跳ね上がった。視界を完全に泥で塞がれた野盗たちは、悲鳴を上げてその場に立ち往生する。泥水が跳ね上がったことで、周囲の気流が激しく乱れ、風馬の脳裏に「敵の体幹のブレ」が鮮明な線の情報として描き出された。
「そこだ」
風馬は沈み込んだ右足の力を抜き、泥の表面張力を利用して滑るように前方へと踏み込んだ。手にするのは、一尺の不格好な「風刃の折れ刃」。
*シュッ、シュッ!*
短い刃先が、泥に足を取られて動けない野盗二人の、鎧の隙間である「膝の関節」と「手首の経絡」を正確に貫いた。無駄な力を一切使わない、風の抵抗をゼロにした突刺。野盗たちは武器を落とし、泥の中に転倒して悶絶した。
「な、なんだあのガキの突きは……! 盲目のくせに、俺たちの動きが完全に見えてやがる!」
鉄平の圧倒的な野太刀の薙ぎ払いと、風馬の視覚を超えた精密な「風詠み」の連携の前に、包囲網は一瞬にして切り裂かれた。生き残った数人の野盗たちは、隻腕の化け物と盲目の死神の組み合わせに完全に戦意を喪失し、泥を跳ね上げながら闇の向こうへと逃げ去っていった。
静寂が、冷たい雨音と共に戻ってきた。錆び村の境界線には、ただ泥水が滴る音だけが響いている。
風馬は折れ刃を鞘に納めることなく、荒い息を吐きながら鉄平の気配を警戒し続けた。肺が激しく痛み、口から垂れる血が雨に流されていく。全身の筋肉は、泥濘での急激な戦闘によって悲鳴を上げていた。
鉄平は巨大な野太刀を背中に背負うと、ふぅ、と大きなため息をついた。そして、風馬の持つ一尺の錆びた折れ刃をじっと見つめた。
「十神剣宗の『風刃』……。折れてなお、その風を詠む力は健在ってわけか。お前、風十郎のガキだな?」
風馬は答えず、ただ折れ刃の先端をわずかに鉄平の方向へと向けたままでいた。鉄平の言葉に、消えぬ憎悪と警戒の火が宿る。
鉄平は首を振ると、汚れた着物の懐に左手を差し入れた。風馬の皮膚が、彼の動作に伴う微細な金属の擦れ合う音を捉える。身構える風馬の前に、鉄平は左手を差し出し、握っていたものを風馬の手元へと落とした。
*ジャラリ。*
風馬の冷え切った手の平に、いくつかの冷たくて重い、ザラザラとした金属の塊が乗せられた。それは、角が丸く削れ、赤錆に覆われた一握りの「錆鉄屑(さびてつくず)」だった。
「……これは?」
風馬は困惑し、掠れた声で尋ねた。
「錆鉄屑だ。この落剣渓谷における、唯一の『命』であり『通貨』さ」
鉄平は風馬の肩をぽんと叩き、泥濘を歩き始めた。
「生きたければ、その鉄を握り締めろ。ここでは、鉄屑を持たぬ者は飢えて死ぬか、他人に喰われるだけだ。その折れ刃を鍛え直すためにも、まずはその錆びた鉄の価値を知るんだな、風馬」
手の平に残された錆鉄屑の重みと、冷たい雨の感触。風馬は、自身の失われた視覚の代わりに、この錆びた鉄片こそが、渓谷の底で生き残り、皇無惨への復讐を果たすための「唯一の真実」であることを、その肌で深く理解し始めていた。
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