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氷の社交界

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夕闇が帝都「常盤」を包み込む頃、ガス灯の淡い光が、白川大蔵大臣の私邸を白々と照らし出していた。日本庭園の厳かな静寂と、大正ロマンの薫り高い西洋建築が見事に融合したその豪邸は、今夜、帝国最高格の慈善夜会の舞台となっていた。


 車寄せに滑り込んだ漆黒の高級乗用車から、九条黎真が先に降り立つ。金モールが月光にきらめく厳格な陸軍少将の軍服を完璧に着こなした彼は、すっと車内に手を差し伸べた。その手に応じるようにして車外へと降り立った有栖川結衣の姿に、周囲に控えていた給仕や警護兵たちが一瞬、息を呑んだ。


 黎真から贈られた漆黒のベルベットドレスは、彼女の透き通るような白い肌と濡れたような黒髪を、残酷なまでに際立たせていた。首元にぴったりと吸い付く漆黒のベルベット・チョーカーは、その下に隠された隣国のスパイ組織「蛇の目」の焼印を完璧に覆い隠している。しかし、結衣の左手の小指にある銀の指輪の下、そしてトゲによる新たな裂傷を負った指先には、今も「月下香」の毒素による微細な麻痺とじくじくとした激痛が走り続けていた。さらにドレスの袖口には、黎真を暗殺するための猛毒「三号毒」のガラス瓶が、物理的な重みとなって忍ばされている。


「緊張しているか、結衣」


 黎真が結衣の細い腰を引き寄せ、耳元で低く囁いた。その手のひらは驚くほど熱く、結衣の身体を支配するように引き寄せる。結衣は「表情筋偽装術」を総動員し、完璧な愛の微笑みを返した。


「いいえ、閣下。あなたのお隣に立てるのですもの。これ以上の光栄はございませんわ」


「フッ、素晴らしい舞台度胸だ。だが、ここから先は本物の戦場だ。油断するな」


 黎真はそう言うと、結衣が手にした「白川大臣の特別社交招待状」を美しく提示し、大理石のロビーへと足を踏み入れた。白川大蔵大臣が自ら二人を温かく迎え入れ、結衣のバイオリンへの期待を口にする。しかし、華やかなシャンデリアが輝く大広間に一歩足を踏み入れた瞬間、結衣の「危険察知能力」が、社交界の毒婦たちの冷酷な視線を捉えた。


 広間の奥、扇子を手にひそひそと囁き合う夫人たちの中心に、九条宗家の重鎮である叔母・九条綾乃と、叔父・九条義経、そして黎真の婚約者候補であった藤堂公爵家の令嬢・藤堂雅が待ち受けていた。


「まあ、黎真。本当にその没落華族の娘を連れてきたのね」


 九条綾乃が、紫の高級シルクの着物を揺らしながら、冷ややかな足取りで近づいてきた。その隣には、恰幅の良い洋服姿に象牙のステッキを携えた九条義経が、薄汚い笑みを浮かべて控えている。


「叔母上、叔父上。私の大切な婚約者、有栖川結衣です」


 黎真の紹介に対し、綾乃は結衣を頭の先から爪先まで、値踏みするように凝視した。


「有栖川惣右衛門の娘……。没落して街の楽団で泥にまみれていた者が、九条家の花嫁の座を狙うなど、身の程を知らぬにも程があります。黎真、このような娘に、宮廷の礼儀作法が一つでも身についているとお思いなの?」


 綾乃はそう言うと、傍らの給仕から手渡された、極めて古い宮廷の伝統様式に則った紅茶のカップを、あえて不作法な角度で結衣の前に差し出した。これは、宮内省の古い茶会で用いられる、相手の「出自」と「作法」を試すための陰湿な罠だった。淹れられた紅茶の温度、カップの持ち手の向き、そして受け取る際の手首の角度。一分の狂いがあっても「育ちの悪い没落令嬢」としてその場で笑い者にされる。周囲の華族夫人たちが、扇子の陰からクスクスと冷笑を漏らした。


 だが、結衣の脳裏には、作法教師の宇佐美智子から叩き込まれた「九条家仕様の社交礼儀作法」の完璧なステップが刻まれていた。


 結衣は一切の動揺を見せず、すっと背筋を伸ばした。漆黒のドレスの袖を優雅に翻し、左手の指先の麻痺を完璧に隠しながら、右手の指先だけでカップの持ち手を極めて滑らかに捉えた。その動きは、まるで風に揺れる白百合のように優美だった。伝統的な宮廷様式に則り、相手への敬意を示す完璧な角度でカップを受け取り、一口だけ静かに唇を湿らせる。その一連の動作には、綾乃自身の作法すらも「一段低い」と無言で証明してしまうほどの、圧倒的な気品が満ちていた。


 綾乃の表情が、驚愕と屈辱で一瞬にして凍りついた。周囲の囁き声が、一転して感嘆のため息へと変わる。


 しかし、叔父の九条義経は執念深かった。彼は結衣が作法を終えて一歩退こうとした瞬間、わざと自らの象牙のステッキを彼女の漆黒のドレスの裾へと滑らせ、力ずくで彼女を転倒させようとした。踏まれれば、ドレスは破れ、結衣は無様に床へ這いつくばることになる。


 だが、結衣の「共鳴視覚」が、ステッキが床を滑る微かな振動音を捉えていた。彼女は体幹を一ミリも崩すことなく、まるでワルツのステップを踏むかのように、優雅に左足を引いてドレスの裾をひらりと逃した。義経のステッキは虚しく空を切り、彼は自らの体勢を崩して、不格好によろめいた。


「おっと、失礼。少々床が滑るようだ」


 義経は顔を真っ赤にしながら誤魔化したが、彼の瞳には狂暴な怒りが宿っていた。彼は声を張り上げ、大広間全体に聞こえるように冷酷な言葉を放った。


「作法だけは真似事のようだが、血筋は隠せんな! 惣右衛門が隣国との陰謀に加担し、有栖川家が取り潰されたのは帝都の誰もが知る事実。スパイの娘が、どの面を下げてこの高貴な席に立っているのか!」


 その瞬間、大広間は水を打ったような静寂に包まれた。スパイ、陰謀、没落。結衣の最も触れられたくない過去が、公衆の面前で暴き立てられたのだ。


(……ここで怒りを示せば、敵の思う壺。私は、ただの儚い音楽家でなければならない)


 結衣は右手の指先で、左手の小指の銀の指輪を強く握りしめた。激しい憎悪と恐怖を胸の奥底へと沈め、彼女は社交界を魅了する「哀愁の微笑」を浮かべた。彼女の美しい切れ長の瞳に、微かな涙の膜が張り、しかしそれを健気に堪えるようにして、そっと俯く。その儚げで、しかし高貴な美しさを保ったまま耐える姿は、周囲の白川大蔵大臣や良識派の華族たちの保護欲と、義経に対する激しい嫌悪感を一瞬にして呼び起こした。


「九条男爵、それ以上の無礼は、私の夜会に対する侮辱とみなしますよ」


 白川大臣が、冷徹な声で義経を遮った。周囲の世論は完全に結衣の味方へと傾いていた。義経と綾乃は、これ以上の追及が自らの立場を悪くすると悟り、歯噛みしながら人混みの奥へと退散していった。


 結衣は心の中で安堵の息を吐いた。だが、その時、背後から張り詰めた氷のような気配が近づいてきた。


「実に見事な大芝居ですわね、有栖川結衣様」


 現れたのは、藤堂雅だった。ダイヤモンドのティアラを戴いた彼女の瞳には、黎真を奪われたことへの狂気的な嫉妬と憎悪が燃え盛っていた。雅は結衣の前に立ち塞がり、扇子を激しく握りしめながら、冷酷な笑みを浮かべた。


「マナーや同情を誘う涙など、没落令嬢の安い芸に過ぎませんわ。身分の偽りは、音を奏でれば一瞬で剥がれ落ちるもの。さあ、有栖川惣右衛門の娘――その真価を、この私に見せてごらんなさい」


 雅の視線が、大広間の壇上に置かれたピアノと、結衣のバイオリンケースへと向けられた。社交界の真の決闘が、今、幕を開けようとしていた。

HẾT CHƯƠNG

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