黒いベルベットの檻
夜明け前の張り詰めた空気の中、有栖川結衣は九条将軍邸の二階、自室である「ピアノの間」のバルコニーに滑り込んだ。冷たい朝露を含んだ風が、彼女の乱れた黒髪を揺らす。
ドレスの袖口には、隣国のスパイ組織「蛇の目」の連絡員・影山から手渡された遅効性の猛毒「三号毒」のガラス瓶が、氷のように冷たく潜んでいる。見つかればその場で射殺される、決定的なスパイの証拠だ。さらに、左手のひとさし指には薔薇のトゲによる新たな裂傷があり、微かににじむ血が、バイオリンの弓に塗布した「月下香」の毒素による神経麻痺と混ざり合って、じくじくと激しい痛みを訴えていた。
「……早く、痕跡を消さなければ」
結衣はかすれる声を抑え、部屋の姿見の前に立った。だが、彼女の鋭い「絶対音感」と「危険察知能力」が、室内の微細な違和感を捉えた。ドア枠の隙間。深夜の秘密工作のために仕込んでおいた「特製防音羊毛フェルト」の位置が、ほんの数ミリだけずれている。誰かが、自分が不在の間にこの部屋に侵入し、ドアの隙間を検閲したのだ。
(楓……! 彼女が気づいたの?)
その思考が脳裏をよぎった瞬間、廊下から「音もなく近づく足音」が耳に届いた。気配を完全に消した、プロの工作員特有の歩行技術。結衣は瞬時に「表情筋偽装術(ポーカーフェイス)」を張り付かせ、ドレスの袖から三号毒の小瓶をバイオリンケースの隠し底へと滑り込ませると、何事もなかったかのように化粧台の前に座り、母の形見である「有栖川家の銀の指輪」を右手で静かになぞった。心拍数を自らの呼吸で制御し、完璧な無実の少女を演じるための準備を整える。
カチャリ、と静かにドアが開いた。
「有栖川様、お目覚めでしょうか。朝のお仕度とお茶をお持ちいたしました」
入ってきたのは、専属侍女の楓だった。その冷艶な美貌には一切の感情が浮かんでおらず、手にした盆をテーブルに置く所作にも一分の無駄もない。楓の鋭い瞳が、結衣の背後から鏡越しに、彼女の全身を冷徹にスキャンする。その視線は、結衣のドレスの裾に付着した微かな泥の汚れと、左手の指先に巻かれた包帯へと注がれた。
「お早いお目覚めですね。昨夜は、よくお眠りになれましたか?」
「ええ、ありがとう、楓さん。少しバイオリンの調律に熱中してしまって、夜更かしをしてしまったけれど」
結衣は鏡の中の楓に向かって、儚げで物憂げな、社交界を魅了する「哀愁の微笑」を浮かべた。嘘をつく瞬間、彼女の右手の指先が、無意識に左手の小指の銀の指輪をなぞる。その癖を、楓は見逃さなかった。
「指をお怪我されているようですが。調律中に傷つけられたのですか?」
「ええ、古い弦が弾けてしまって。でも、大したことはないわ」
「さようでございますか。庭師の佐藤が、今朝、薔薇庭園の外壁近くのトゲに、不自然な黒いシルクの繊維と新鮮な血痕が残されているのを発見したと申しておりました。お屋敷の防衛センサーに異常はなかったようですが、念のため、不審な影をご覧にならなかったかと思いまして」
楓の言葉は静かだったが、それは結衣の喉元に突きつけられた見えない刃だった。佐藤がすでに庭園の痕跡を回収し、楓が部屋の防音フェルトを押さえている。包囲網は、確実に内側から狭まっていた。
「不審な影? いいえ、私は部屋でずっとバッハを弾いていたから、気づかなかったわ。この部屋は、とても静かだから」
「……そうでございますね。このお部屋の防音は、素晴らしいようですから」
楓はそれ以上追及せず、一礼して部屋を出て行った。ドアが閉まった瞬間、結衣は肺に溜まった冷たい空気を一気に吐き出した。佐藤の鋭い監視の目と、楓の冷徹な検閲。この「ベルベットの檻」は、一瞬の油断も許されない死地だった。
昼前、部屋の重厚なマホガニーの扉が再び開いた。現れたのは、九条機関の長であり、帝国の若き天才将軍、九条黎真だった。金モールが輝く厳格な軍服に身を包み、氷のように冷徹な黒い瞳が結衣を射抜く。
「顔色が悪いな、結衣。昨夜は、面白い『夢』でも見たか?」
黎真の声は低く、心地よい響きを持っていたが、その言葉には結衣の深夜の外出をすべて把握しているかのような絶対的な余裕が漂っていた。彼は従者に命じ、大きな漆黒の木箱をテーブルの上に置かせた。
「今夜、大蔵大臣・白川毅のサロンに、君を私の『公認の婚約者』として公式に連れて行く。そのためのドレスを用意した。着替えてもらう」
黎真が自ら木箱の蓋を開けると、中から現れたのは、息を呑むほど美しい「漆黒のベルベットドレス」だった。最高級のベルベット生地は、光を吸い込むように深く、結衣の白い肌と黒髪を極限まで際立たせるための冷艶な美しさを持っていた。だが、結衣の視線がドレスの首元に添えられた「漆黒のベルベット・チョーカー」に達した瞬間、彼女の心臓は激しく跳ね上がった。
(このチョーカーの位置……まさか、嘘でしょう?)
その幅と位置は、スパイ組織「蛇の目」が、結衣の首元に刻み込んだ絶対的な呪縛の印――「蛇の目の焼印」を完璧に覆い隠すためのものだった。黎真は、最初から彼女の首元にある焼印の存在を知っている。いや、彼女がスパイであることを完璧に見抜いた上で、あえてこのドレスを贈り、無言の圧力をかけているのだ。
「どうした? 気に入らないか。それとも、首元が寒そうだとでも言いたいのか?」
黎真は冷ややかに微笑み、結衣に一歩近づいた。彼の強靭な肉体から放たれる圧倒的な軍事的カリスマが、結衣の呼吸を奪う。
「……いいえ。素晴らしいドレスです、閣下。喜んで身に纏わせていただきます」
結衣は「表情筋偽装術」を総動員し、完璧な愛の微笑みを返した。だが、彼女の指先は、恐怖と、この男を数日後に「三号毒」で殺さなければならないという冷酷な現実のギャップで、微かに震えていた。
「ならば、今すぐ着替えて外へ出るぞ。今夜の夜会の前に、社交界と、私たちを監視する長谷川元帥の犬どもに、完璧な『仲睦まじい婚約者』の芝居を見せてやる必要がある」
黎真はそう言うと、結衣をエスコートするように手を差し伸べた。
一時間後、二人は帝都の最先端ストリートである「銀座通り」を歩いていた。
赤レンガの西洋風の建物が立ち並び、ガス灯が鈍く光る大通り。路面電車がガタゴトと音を立てて走り抜け、最新の流行に身を包んだモダンガールやモダンボーイたちが、将軍の隣を歩く漆黒のドレスの美女に、羨望と感嘆の視線を投げかける。結衣は「九条将軍の公認婚約者」としてのペルソナを完璧に被り、黎真の腕に優しく手を添えて寄り添っていた。
「素晴らしいお天気ですね、閣下。このように美しい街を、あなたと歩けるなんて、まるで夢のようですわ」
「芝居が上手いな、結衣。君のその哀愁を帯びた微笑みは、街のすべての男を騙せそうだ」
黎真は正面を見据えたまま、周囲に聞こえないほどの低い声で囁いた。彼の腕の筋肉は硬く、結衣の体に伝わるその体温は、冷徹な言葉とは裏腹に驚くほど熱い。
「お褒めいただき光栄です、閣下。ですが、私の微笑みは、あなたを騙すためには作られておりませんわ」
結衣は時折、周囲の人々にアピールするように、黎真を見上げて「哀愁の微笑」を浮かべた。その健気で儚げな表情は、周囲の保護欲を激しく刺激する。しかし、二人の歩調が、西洋風のブティックのショーウインドウの前で止まった瞬間、結衣の「共鳴視覚」が、背後の人混みの中に潜む「不自然なレンズの反射音」を捉えた。
カシャリ、と、微かなシャッターの作動音が、路面電車の騒音に混ざって響く。
(ゴシップ記者……桜井桃子。やはり、狙われている)
大きな帽子をかぶり、モダンな洋装に身を包んだ小柄な女性が、人混みの影からカメラのレンズを二人に向け、執拗に隠し撮りを繰り返している。彼女の後ろには、長谷川元帥の部下らしき男たちの影も見えた。ここで一歩でも不自然な距離を置けば、「偽りの婚約」というスキャンダルが明日の新聞の一面を飾り、黎真の政治的立場は一瞬で崩壊する。
結衣の身体が、緊張で一瞬強張った。その変化を、黎真は見逃さなかった。彼はあえて、結衣の細い腰を強く、優しく引き寄せ、彼女の身体を自らの胸元へと密着させた。
「動くな。カメラがこちらを狙っている。もっと私に寄り添え、私の可愛い婚約者」
黎真の熱い手のひらが、ベルベットの生地越しに結衣の腰を包み込む。至近距離で重なる二人の呼吸。結衣の胸に、黎真の強靭な心拍の音がダイレクトに伝わってくる。その心拍は、驚くほど一定で、冷徹なほどに落ち着いていた。
結衣は彼のリードに身を任せ、彼の胸元に顔を埋めるようにして、完璧な幸せの微笑みをカメラへと向けた。だが、彼女の左手の指先は、月下香の麻痺による激痛と、彼を裏切り、暗殺しなければならないという冷酷な現実のギャップで、激しく引き裂かれていた。
黎真は彼女を抱き寄せたまま、その耳元に唇を寄せた。彼の氷のように冷たい吐息が、結衣の耳朶を濡らす。
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