毒蛇の囁き
冷たい濁水が、結衣の薄い革靴の底を容赦なく濡らしていく。帝都「常盤」の地下に張り巡らされた、赤レンガ造りの暗渠網。頭上からは、時折路面電車が通り過ぎる重苦しい金属震動が、湿ったレンガ壁を伝って地鳴りのように響いてくる。結衣は暗黒の中、背負ったバイオリンケースを庇うように抱え、一歩一歩前進していた。
左手のひとさし指が、凍えるような冷気の中でズキズキと激しく痛む。先ほど九条将軍邸の薔薇庭園を脱出する際、佐藤の仕掛けた感圧トラップを避けるために引っ掛けてしまった薔薇のトゲ。その鋭い傷口から滲む血が、指先に蓄積された「月下香」の微細な神経麻痺と混ざり合い、左手全体が鉛のように重く強張っていた。
(警報は鳴らなかった。狙撃手・三浦のスコープの死角も完璧に突いた……。だけど、佐藤が私の残したドレスの黒い糸と血痕に気づくのは時間の問題。朝の点呼までに屋敷に戻らなければ、私の命はない)
結衣は「共鳴視覚」を限界まで維持し、暗闇の壁に反響する水の音から、下町の地下印刷所へと続く鉄格子の位置を特定した。錆びついた南京錠。結衣は髪から「極細チタン製ピックピン」を音もなく引き抜き、指先の激痛に耐えながら、わずか数秒で無音のまま解錠した。
鉄格子を押し開け、煤けた梯子を上ると、そこは鼻を突くような油性インクの匂いと、冷たい機械油の香りに満ちた、息の詰まるような空間だった。下町の路地裏に佇む、廃墟同然の地下印刷所。
「ガタタタン、ガタタタン……」
古びた手動式の平版印刷機が、不審な侵入者を隠蔽するための規則的な重い金属音を立てて回っている。印刷物のインクを乾かすための、薄暗い白熱灯が天井から一本だけ吊り下げられ、微かに揺れていた。その不気味な光の輪の中に、一人の男が立っていた。
黒い外套を深く羽織り、帽子の庇で顔の上半分を闇に沈めた男――「蛇の目」の帝都連絡員、影山黎一郎。
「遅いな、結衣。宮廷音楽家の娘が、将軍の温かいベッドで寝そべるうちに、スパイとしての歩き方を忘れたか?」
影山の声は、湿ったレンガを擦り合わせるように不快で、冷酷だった。彼は手袋をはめた両手をテーブルにつき、薄笑いを浮かべた。
「有栖川結衣。いや、今は『九条将軍の愛しき婚約者』と呼ぶべきか。華やかな社交界の贅沢は、お前の安い魂をふやけさせるには十分だったようだな」
結衣は外套のフードを外し、冷徹な「一等工作員」としてのポーカーフェイスを張り付かせた。「表情筋偽装術」。どれほど心臓が激しく脈打とうとも、彼女の美しい美貌には一ミリの動揺も浮かばない。
「無駄話をしにきたわけではありません、影山。九条黎真の邸宅への潜入は完了しています。防衛セキュリティの解析も順調です」
「順調、だと?」
影山の細い瞳が、獲物を狙う蛇のように鋭く光った。
「お前が潜入してから、すでに何日が経過した? 新型兵器の設計図は未だに手に入らず、九条黎真の首も繋がったままだ。組織の『絶対服従の掟』を忘れたわけではあるまいな」
「黎真は極めて警戒心が強い男です。焦って動けば、九条機関の防諜網に引っかかり、すべてが水の泡になります」
結衣は合理的な延期を提案した。しかし、影山はその言葉を鼻で笑った。
「言い訳は不要だ。お前が動かないなら、こちらから『刺激』を与えるまでだ」
影山は外套のポケットから、一枚の湿った写真をテーブルの上に叩きつけた。
結衣の視線が、その写真に吸い寄せられた瞬間、彼女の「表情筋偽装術」に、初めて微かな亀裂が走った。薄暗い牢の床に横たわる少年。彼は激しい喘息の発作に胸をかきむしりながら、結衣が幼い頃に贈った小さな「銀のバイオリンチャーム」を、血がにじむほど強く握りしめていた。その傍らには、肺の機能を著しく低下させていることを示す、組織の冷酷な診断書。
「……拓海」
結衣の喉から、かすれた悲鳴が漏れかけた。彼女は左手の小指の銀の指輪を強く握り、激しい動揺を力ずくで抑え込んだ。
「拓海の発作が再発した。お前が任務を引き延ばすたびに、あの少年の肺は、コンクリートの粉塵と冷気で潰されていく」
影山は、テーブルの上に小さなガラス瓶を置いた。中には、薄い青色の液体が入っている。
「蛇の目特製『喘息抑制薬』だ。これがあれば、あの小僧はもう一ヶ月生き延びられる。だが、お前が設計図を奪えず、黎真を排除できないなら、この薬が拓海の口に届くことは二度とない」
結衣の胸に、底知れぬ絶望と怒りが渦巻いた。組織が与えている「治療薬」が、実は一時的に発作を抑えるだけで、長期使用すれば脳の神経依存性を高める洗脳薬であるという恐るべき伏線。自力で解毒薬を作らなければ拓海は救われない。だが、今この瞬間は、この薬がなければ拓海は窒息して死んでしまうのだ。
影山はもう一つの、さらに小さなガラス瓶をスライドさせた。光を反射して、無色透明な液体が静かに揺れる。
「『蛇の目・三号毒』だ。無色無臭、紅茶に数滴混ぜるだけでいい。服用後、数日かけて徐々に心臓の鼓動を弱らせ、最終的に『自然な心不全』を引き起こす。軍医どもがどれほど解剖しようとも、ただの病死としか診断できん」
影山の顔が、白熱灯の影の中で不気味に歪む。
「次回の夜会までに、九条黎真の紅茶にこれを盛れ。これが、首領・黒曜からの最終命令だ。設計図の奪取と、黎真の暗殺。二つを同時に完遂しろ」
結衣の指先が、冷たく凍りついた。脳裏に、九条黎真の姿がよぎる。冷徹で、すべてを見透かしたような黒い瞳。だが、その裏で、彼は結衣の指先の傷を静かに見つめ、彼女を「婚約者の芝居」という名の美しい檻で守ろうとしていた。彼の手のひらの熱、そして、彼が抱える「一族の呪縛」という名の、自分と同じ孤独の深さ。
(私は……あの男を殺さなければならないの? 私に、僅かな温もりを見せ始めた、あの黎真を……)
良心と、弟の命。二つの巨大な不協和音が、結衣の精神を内側から引き裂いていく。
「……分かりました。お受けします」
結衣は震える指先を隠し、冷酷なスパイの声を絞り出した。絶対服従の掟の呪縛に屈した振りをしながら、彼女はテーブルの上の「三号毒」の小瓶を、ドレスの袖口へと滑り込ませた。
「良い返事だ、結衣。お前のバイオリンが、九条黎真の最期の葬送曲を奏でるのを楽しみにしているぞ」
影山の嘲笑い声が、輪転機の重苦しい金属音に混ざり合って、地下室に響き渡った。
アジトを去り、再び冷たい水の音が響く暗渠網へと戻った結衣。暗黒のトンネルを歩きながら、彼女はドレスの袖の中にある「三号毒」の冷たいガラス瓶を握りしめていた。全身を襲う激しい寒気と、自己嫌悪。
(私は、黎真を殺さなければならない。だけど……本当に、それしか道はないの?)
その時、結衣の脳裏に、かつて薬学の基礎を教えてくれた調合師・鏑木創一郎の言葉が、奇跡的な閃きとなって蘇った。
『組織の毒薬は、成分の粘度と青い硝酸の光沢が特徴だ。だが、特定のハーブを用いれば、外見と匂いを完璧に一致させたまま、一時的な仮死状態を引き起こす強力な睡眠薬を作ることができる……』
結衣の瞳に、絶望から這い上がるための、鋭い光が宿った。
(睡眠薬……『夜顔』。三号毒と全く同じ質感を持つ睡眠薬を自作し、黎真の紅茶にすり替える。彼を一時的に眠らせ、暗殺が成功したと組織に錯覚させるのだ)
それは、一歩間違えれば自分も弟も即座に処刑される、薄氷を踏むようなサボタージュ計画だった。しかし、それこそが、黎真を救い、拓海を取り戻すための、唯一の「偽りの協奏曲」の旋律。
「……黎真、あなたを殺しはしない」
闇の底で、女スパイは静かに、しかし決然と、組織の喉元に噛みつくための「偽りの旋律」を紡ぎ始めていた。
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