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深夜の調律

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二十三時。帝都「常盤」の喧騒が完全に途絶え、九条将軍邸は深い静寂の底へと沈んでいた。窓の外では、冷たい秋の夜風が蔦の葉を揺らし、ガス灯の青白い光が、手入れの行き届いた薔薇庭園を歪な影とともに照らし出している。


 自室「ピアノの間」の闇の中で、有栖川結衣は音もなく呼吸を整えていた。数時間前、黎真の執務室で交わされた冷徹な「婚約者」の契約。首筋に触れた彼の指先の熱と、小指の銀の指輪をなぞられた時の悍ましいほどの敗北感が、未だに皮膚の奥で燻っている。


(あの男は、最初から私をスパイだと知っている……。その上で、私をこの美しい鳥籠に閉じ込め、長谷川派に対する盾として、あるいは組織を誘い出すための餌として利用するつもりなのだ)


 結衣は無意識のうちに、左手の小指にはめた「有栖川家の銀の指輪」を右手で強く握りしめた。冷たい純銀の感触が、焦燥に駆られる彼女の脳細胞を強制的に沈静化させていく。彼女が「有栖川結衣」という一人の人間であり、人質に取られた弟・拓海を救うためにここにいるという事実を繋ぎ止める、唯一の精神的アンカーだった。


 結衣はドレスのクローゼットの奥を確認した。昼間のうちに、調律師の鏑木から極秘裏に仕入れた「特製防音羊毛フェルト」を、ドアの隙間や通気口に完璧に敷き詰めてある。深夜にバイオリンを弾いても、その音が廊下へ漏れることはない。だが、今夜彼女が成すべきことは、部屋での演奏ではなかった。


(二十三時。夜間外出禁止令が発動した。庭園の自動射撃トラップが起動し、狙撃手・三浦の監視が始まる時間だ)


 組織の連絡員・影山から指定された接触時間は、深夜の一時。場所は下町の地下印刷所。九条邸の厳重な防衛網を突破し、一切の痕跡を残さずに往復しなければ、その時点で結衣の命も、拓海の命も絶たれる。


 結衣は黒いシルクの夜会用ドレスの上に、さらに闇に溶け込む漆黒のベルベットの外套を羽織った。バイオリンケースには、仕込み刃を隠した特製の弓が収められている。彼女はバルコニーの磨りガラスの扉をミリ単位の静けさで開け、外の冷気へと身を滑らせた。


 バルコニーから見下ろす九条邸の薔薇庭園は、昼間の優雅な表情を完全に失い、冷酷な鉄の迷宮と化していた。真っ赤な薔薇は月光を浴びて凝固した血のように黒ずみ、その美しい枝葉の裏には、九条機関が誇る最新の防諜テクノロジーが張り巡らされている。


 庭園の隅にそびえる監視塔の上で、特等狙撃手・三浦健吾のスコープが、規則的な赤色の光を放ちながら lawn(芝生)を掃射していた。最新式のアクティブ赤外線暗視装置。あの赤い光線に一瞬でも触れれば、警告なしにボルトアクション式狙撃銃の弾丸が頭部を打ち抜く。


 さらに、バラ園の地面には、庭師の佐藤が仕掛けた感圧トラップと、薔薇の鋭いトゲにカモフラージュされた極細の銅合金製センサーワイヤーが張り巡らされていた。ワイヤーに触れれば、蒸気圧式の自動銃座が起動し、侵入者を蜂の巣にする。


「……ふう」


 結衣は細く息を吐き、バイオリンケースから《初雪》を取り出した。弓は使わない。彼女はバイオリンを左肩に構え、右手の爪で、一番太いG線(ト長調の弦)を極微細な力で弾いた。


 ピチ……、と、夜風の音に掻き消えるほどの微弱な高周波の音が放たれた。


 その瞬間、結衣の脳内で「共鳴視覚(シンパセティック・ビジョン)」が起動した。放たれた微小な音波が、庭園の障害物や空気に反射し、彼女の脳裏に周囲の構造を立体的な「青い線画のマップ」として描き出す。絶対音感を極限まで研ぎ澄ましたスパイだけが持つ、闇を透視する能力。


(見えた。薔薇のトゲの間に、網の目のように張り巡らされたセンサーワイヤー……。地面の土の硬さが不自然に異なる場所は、感圧トラップが敷かれている)


 結衣はバイオリンを素早くケースに収め、バルコニーの排水管を伝って、無音で庭園の石畳へと降り立った。


 ここからが本当の死線だった。結衣は「共鳴視覚」が描き出した青いマップを脳裏に投影しながら、一歩ずつ前進した。佐藤が仕掛けた感圧トラップを避けるため、彼女は絶対音感を用いた「反響定位」で、土を踏む直前の微かな空気の振動の違いを聴き分けた。罠が仕掛けられていない、硬い天然石のステップだけを正確に選択して足を踏み下ろす。


 ササ……、と、薔薇の葉がドレスの裾に触れる。その瞬間、鋭いトゲが結衣の左手のひとさし指を深くかすめた。月下香の麻痺が残る左手に、鋭い激痛が走る。結衣は悲鳴を噛み殺し、右手の指輪を強く握りしめて自律神経を強制制御した。心拍数を一定に保ち、冷や汗を拭う。


(落ち着きなさい、有栖川結衣。次のステップは……三浦のスコープだ)


 前方の開けた芝生を横切らなければ、外壁には到達できない。三浦の監視スコープが西側の門衛・吾郎のいる方向へと掃射角度を変える瞬間――そこに、わずか四十五秒の「死角」が生まれる。結衣は佐藤の巡回パターンを頭の中でカウントダウンした。


「三、二、一、今」


 赤い光線が東から西へと逸れた。タイムリミットは四十五秒。


 結衣は外套を翻し、猫のようなしなやかさで芝生を疾走した。足音は一切立てない。左手の指先から滴る鮮血が、冷たい夜風に吹かれて後ろへと流れていく。三十秒、三十五秒。目前に迫る赤レンガの高い外壁。彼女は助走をつけて壁の僅かな凹凸に足をかけ、驚異的な身体能力で冷たいレンガの頂点へと這い上がった。


 背後で、三浦の赤いサーチライトが再び芝生の上を冷酷に掃射し始める。間一髪、四十五秒の死線を突破した結衣は、外壁の向こう側にある帝都の暗い路地裏へと、音もなく飛び降りた。そこには、下水道へと続く古いマンホールの鉄蓋が冷たく佇んでいた。


 結衣は「極細チタン製ピックピン」を髪から引き抜き、手際よく鉄蓋の南京錠を解錠した。闇と激しい水の音が響く「帝都地下下水道・暗渠網」の深淵へと、彼女の身体は消え去っていった。


 一方その頃、静まり返った九条将軍邸の二階。


 結衣の私室「ピアノの間」の重い扉が、極めて微細な金属音とともに開いた。部屋に滑り込んできたのは、専属侍女の楓だった。


 彼女の瞳には、昼間の素朴なメイドの光は一切なく、九条機関の女性工作員としての冷徹な光が宿っていた。楓は音もなくベッドに近づき、結衣が仕掛けた「身代わりの枕」を一瞬で見破ると、冷たく微笑んだ。


「やはり、ネズミは外へ出たようですね……」


 楓は部屋の捜索を開始した。ドレッサーの引き出し、クローゼットの奥、そして玲子のグランドピアノの響板の裏。彼女の鋭い指先が、ドアの隙間に敷き詰められた「特製防音羊毛フェルト」に触れた瞬間、その動きがピタリと止まった。楓の細い眉が、不審そうに狭められる。


 そして、深夜の薔薇庭園。


 ランタンを手にした庭師の佐藤が、砂利を踏みしめながら、外壁の近くをゆっくりと巡回していた。元工作員としての異常な直感が、彼をこの場所に引き寄せたのだ。


 佐藤は立ち止まり、ランタンの光を地面へと向けた。そこは、結衣が壁を駆け上がった薔薇の茂みのすぐ近くだった。


「……ほう」


 佐藤の強面の顔が、不気味に歪んだ。彼は屈み込み、薔薇の鋭いトゲの先端を見つめた。そこには、月光を浴びて微かにきらめく、漆黒のドレスから千切れた一筋の「黒いシルクの糸」が、風に揺れていた。さらに、その下の葉には、乾きかけたばかりの、わずか一滴の「赤い血痕」が付着していた。

HẾT CHƯƠNG

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