牙を隠した将軍
九条将軍邸に潜入してから三日目の夜、帝都「常盤」を包む空気は、肌を刺すような冷気へと変わっていた。窓の外では、ガス灯の淡い光が、手入れの行き届いた薔薇庭園をぼんやりと浮かび上がらせている。
有栖川結衣は、自室「ピアノの間」の姿見の前で、自らの呼吸を整えていた。左手の指先には、昨日行った「弦摩擦高周波ジャミング」の代償である、鋭い痛みが未だに燻っている。月下香の毒素による微細な麻痺と重なり、指先を曲げるたびに冷たい火花が散るような激痛が走った。それでも、彼女の顔には一分の乱れもない没落華族の「仮面」が張り付いていた。
コンコン、と静かなノックの音が響く。扉を開けると、そこには無表情な専属侍女の楓が立っていた。彼女の歩行は常に無音であり、その佇まいは訓練された工作員そのものだ。
「有栖川様、閣下がお呼びです。三階の執務室へお越しください」
心臓が冷たく跳ね上がるのを、結衣は「表情筋偽装術」の裏に隠した。ついに、直接の呼び出しが来た。結衣は静かに頷き、楓の後に従って重厚な廊下を歩いた。
三階の最奥にある執務室。重厚なオークの扉を開けると、部屋の中は低く灯されたガスランプの光に満ちていた。壁には帝国の軍事地図や北方国境の配備図が掛けられ、空気中には高級な葉巻の煙と、古い羊皮紙の匂いが漂っている。
部屋の窓際、腕を組んで立っていたのは、黎真の副官であり幼馴染でもある神谷晋太郎大尉だった。きっちりと着こなした陸軍制服に身を包んだ彼は、結衣が一歩足を踏み入れた瞬間、獲物を狙う鷹のような鋭い視線を向けた。その敵意は、隠そうともされていない。
そして、部屋の中央にある巨大な執務机の後ろには、この邸宅の主である九条黎真少将が座っていた。金モールが美しくきらめく軍服を纏い、冷徹な黒い瞳が結衣を射抜く。その圧倒的なカリスマは、部屋全体の空気を支配していた。
「お呼びでございますか、将軍閣下」
結衣はしとやかに一礼し、視線を低く保った。か弱く、守られるべき没落令嬢としての完璧な演技。しかし、彼女の耳には、昨日ジャミングしたはずの監視網の緊張感が、無言のプレッシャーとなって響いていた。
黎真は手元の書類から視線を上げ、静かに立ち上がった。彼の軍靴の音が、静まり返った室内で冷たく響く。彼は机を回り込み、結衣の数歩手前で立ち止まった。
「有栖川結衣。君を呼んだのは、他でもない。我が九条家、そして帝国軍部における、ある政治的な決定を伝えるためだ」
黎真の声は低く、心地よい響きを持っていたが、その言葉には逆らうことを許さない絶対的な重みがあった。彼は窓際に立つ神谷に視線を送った。神谷は一歩前に踏み出し、冷酷な声で告げた。
「現在、軍部保守派の首領である長谷川元帥、そして九条宗家の重鎮である九条綾乃様をはじめとする社交界の勢力が、我が九条機関の動向を執拗に監視している。閣下の北方派遣を阻止し、失脚させるためのスキャンダルを嗅ぎ回っているのだ」
結衣は無言で耳を傾けた。長谷川元帥、そして九条綾乃。社交界の蛇たちが、黎真の足を引っ張ろうと牙を研いでいる。
「彼らの目を欺き、九条機関の真の防衛計画を隠蔽するためには、強力な盾が必要だ」
黎真は結衣をじっと見つめ、冷ややかに微笑んだ。
「有栖川結衣。君に、私の『公認の婚約者』を演じてもらう。これが、私の命令だ」
その瞬間、結衣の思考が完全に凍りついた。
(婚約者……? この私が、九条黎真の?)
あまりにも突然の、そして想定外の命令だった。スパイとして彼の懐に潜り込み、新型兵器の設計図を盗み出すことが任務であるはずの自分が、彼の公式な伴侶として社交界の表舞台に立たされる。それは、機密の核心に近づく最大の「機会」であると同時に、軍部保守派や一族の厳しい監視の目に晒される、最も危険な「罠」でもあった。
「閣下! お待ちください!」
神谷が激しい口調で異を唱えた。彼は結衣を睨みつけ、黎真に向き直る。
「この女はあまりにも素性が怪しすぎます! 有栖川家の生き残りとはいえ、没落後の経歴には空白が多すぎる。このような危険な女を、閣下の婚約者として公の場に出すなど、敵に弱点を与えるようなものです! 今すぐ邸外へ排除し、身辺調査を徹底すべきです!」
副官の言葉は、スパイである結衣の心臓を鋭く突き刺した。神谷の疑念は正しい。ここで彼らの追求が深まれば、自分の正体が暴かれるのは時間の問題だ。
しかし、黎真は静かに手を挙げ、神谷の言葉を遮った。その一言の重みに、神谷は悔しげに歯を食いしばり、一歩退いた。
「決定は覆らん、神谷。下がれ」
「……はっ」
神谷は結衣に冷酷な一瞥を投げかけ、執務室の重い扉を閉めて出て行った。部屋の中には、黎真と結衣の二人だけが残された。ガスランプの光が、二人の影を壁に長く、歪に引き伸ばしている。
黎真が、ゆっくりと結衣に近づいてきた。彼の体から発せられる圧倒的な威圧感と、微かな煙草の香りが、結衣のパーソナルスペースを侵食していく。結衣の呼吸が、無意識のうちに浅くなった。彼女は「表情筋偽装術」を死守し、困惑と怯えを装った瞳で黎真を見上げた。
「閣下……私のような没落した身の上の者が、そのような大役を務められるはずがございません。社交界の皆様の目は厳しく、九条家の名誉を汚してしまう恐れがございます。どうか、ご再考を……」
結衣は言葉巧みに辞退を装い、彼の真意を探ろうとした。ここで無条件に承諾すれば、かえって不自然に映る。哀れな没落令嬢として、身の程をわきまえた態度を示すのが、スパイとしての正しい選択だった。
だが、黎真は彼女の言葉に耳を貸さなかった。彼は結衣の目の前で立ち止まり、その長い指先を、ゆっくりと結衣の顎へと伸ばした。指先が顎のラインをなぞり、そのまま結衣の首筋へと滑り落ちる。
冷たい空気の中で、彼の指先の「熱」が、結衣の皮膚に直接伝わってきた。その指先が、結衣の首筋の頸動脈の上に、静かに、しかし確実に添えられた。
(……心拍を読んでいる)
結衣の脳裏に、戦慄が走った。黎真の「心拍・呼吸同期による嘘の看破」が発動したのだ。彼の強靭な指先は、結衣の皮膚の下で脈打つ、極微細な鼓動の変化を正確に捉えようとしていた。
「嘘を吐く時、人間の心拍はわずかに跳ね上がる」
黎真は結衣の顔を覗き込むようにして、耳元で低く囁いた。彼の吐息が結衣の耳をかすめ、強烈なロマンチック・テンションが室内に満ちていく。彼の美しい横顔は、ガスランプの光に照らされて彫刻のように完璧だったが、その黒い瞳の奥には、すべてを見透かしたような冷徹な光が宿っていた。
「君の心臓は、今、激しく警鐘を鳴らしている。有栖川結衣。君は、私の婚約者になるのが恐ろしいのか? それとも、私の傍にいることで、何かを暴かれるのが恐ろしいのか?」
その問いは、刃となって結衣の精神を切り裂いた。首筋に添えられた彼の指先から、彼女の動揺がすべて伝わっていく。このままでは、嘘を見破られ、スパイとしての正体が完全に露呈してしまう。
結衣は極限のパニックに陥りかけた。しかし、彼女の訓練された肉体は、無意識のうちに「精神的アンカー」を求めた。
結衣は右手を静かに持ち上げ、左手の小指にはめた「有栖川家の銀の指輪」に触れた。母の形見であるその指輪の冷たい金属の感触が、彼女の脳内に冷水を浴びせるように、理性を強制的に覚醒させた。
(私は有栖川結衣。拓海を救うために、ここにいる。ここで倒れるわけにはいかない)
結衣は深く、静かな呼吸を脳内でイメージした。自律神経を強制的に制御し、跳ね上がっていた心拍数を、物理的にシャットアウトするようにして、一定の穏やかなリズムへと引き下げていく。彼女の首筋の下で暴れていた鼓動が、まるで魔法のように、静かで揺るぎないリズムへと整えられていった。
黎真の瞳が、微かに細められた。彼の指先は、結衣の脈動が劇的に、そして人工的に沈静化していくプロセスを、完璧に感知していた。
普通の音楽家が、これほどの極限状態において、自らの心拍数を完璧にコントロールできるはずがない。黎真は、彼女のこの異常な自己制御力を目の当たりにし、彼女が「ただの音楽家ではない」という確信を、より一層深めたはずだった。
それでも、黎真は彼女を暴かなかった。彼はその指先をゆっくりと首筋から離し、結衣の左手をそっと取り上げた。
彼の大きな手が、結衣の華奢な手を包み込む。黎真の親指が、結衣の左手の小指にある、雪結晶が刻まれた銀の指輪を、静かに、優しくなぞった。
「……良い婚約者になれそうだ」
黎真は満足げに、しかし氷のように冷たく微笑んだ。その囁きは、二人の間に「騙し合っていることを知りながら、互いを利用し合う」という、逃れられない危険な共犯関係の契約が結ばれたことを意味していた。
結衣は彼の冷徹な瞳を見つめ返し、自らの指先の痛みに耐えながら、静かに微笑み返した。戦火の幕が、今、静かに上がり始めていた。
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