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監視者のワルツ

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重厚なマホガニーの扉が、静かに、しかし抗いようのない重みをもって閉ざされた。


「有栖川様、こちらが本日よりお使いいただくお部屋にございます。亡き大奥様――玲子様が愛用されていた『ピアノの間』でございます」


 九条将軍邸の総執事である渡辺宗純は、一分の乱れもないタキシード姿で一礼した。白髪を厳格に整えたその佇まいは、大正の気品と軍家としての冷徹さを同時に漂わせている。彼の鋭い眼光は、結衣の泥にまみれた過去を見透かそうとするかのように、一瞬だけ彼女の指先に留まった。


「ありがとうございます、渡辺様。このような美しいお部屋を私のような者に……」


 結衣は「表情筋偽装術」を極限まで稼働させ、儚げで控えめな没落令嬢としての微笑みを浮かべた。神谷大尉によるあの容赦のない検門を突破したとはいえ、ここが敵の牙城であることに変わりはない。一歩足を踏み入れたその瞬間から、息の詰まるような監視の気配が皮膚を刺していた。


「何かご入用の際は、専属の侍女として手配いたしました楓、あるいはハウスメイドの千代にお申し付けください。ただし――」


 渡辺は窓の外、ガス灯の淡い光に濡れた美しい薔薇庭園へと視線を向けた。


「当家には厳格な規律がございます。夜二十二時以降、将軍邸の庭園および廊下への立ち入りは一切禁じられております。これは九条将軍邸『夜間外出禁止令』にございます。夜間の庭園には、侵入者を自動で排除する射撃装置や感圧センサーが作動いたしますゆえ、決して部屋をお出になりませぬよう。警告を無視された場合、衛兵による即座の対処も辞さぬこと、お含みおきください」


「はい、肝に銘じます」


 結衣はしとやかに頭を下げた。夜間外出禁止令――自動射撃装置。それは、彼女が深夜に邸外の連絡員と接触するのを物理的に阻む、冷酷な檻のルールだった。


 渡辺が去った後、入れ替わるようにして、パタパタとせわしない足音が近づいてきた。


「有栖川様! お疲れではございませんか? 温かいお紅茶を淹れました!」


 部屋に入ってきたのは、頬を赤く染めた素朴なメイド、千代だった。彼女はエプロンドレスの裾を揺らしながら、湯気の立つティーカップをテーブルに置いた。紅茶からは、甘いオレンジピールとシナモンの豊かな香りが立ち上っている。


「私、有栖川様のような美しいバイオリニストの方がこのお屋敷に来てくださって、本当に嬉しいんです! 将軍閣下はいつもお仕事ばかりで、この『ピアノの間』も、亡くなられた玲子様の形見としてずっと閉ざされたままでしたから……。これからは、毎日美味しいお茶とお菓子をご用意いたしますね!」


 千代の瞳には、一切の曇りも、裏の意図もなかった。彼女は結衣を、本物の「九条将軍の未来の奥様」として純粋に慕い、歓迎しているのだ。その無垢な笑顔と、差し出された温かいお茶の温もりが、結衣の凍てついた胸の奥を微かに疼かせる。


(この子は、何も知らない。私が、この屋敷のすべてを裏切り、新型兵器の設計図を盗み出すために送り込まれた隣国のスパイだということも……)


 胸を刺すような強烈な罪悪感が去来する。結衣は無意識のうちに、左手の小指にはめた「有栖川家の銀の指輪」を右手で強く握りしめていた。母の形見であるその指輪だけが、彼女が人間としての良心を繋ぎ止めるための最後のアンカーだった。


「ありがとう、千代さん。とても良い香りね。心が安らぐわ」


「えへへ、お口に合えば嬉しいです! では、私はこれで失礼いたしますね。ごゆっくりお休みください!」


 千代は嬉しそうに微笑み、一礼して部屋を出て行った。再び訪れた、静寂。


 結衣は紅茶のカップを置き、自らの左手の指先を見つめた。バイオリンの弦を抑える指先には、月下香の毒素による微細な麻痺が未だに残っており、ジンジンとした鈍い痛みが走っている。スパイ養成所で銃を握り続けたことによるかすり傷を隠すため、彼女は慎重に手を引っ込め、部屋の捜索を開始した。


(……まずは、この部屋の安全を確保しなければ)


 結衣は極限まで精神を集中させ、自らの「共鳴視覚」を展開した。脳波を研ぎ澄まし、周囲の微細な音の反響を立体的にマッピングしていく。マホガニーの調度品、破れかけたシルクの壁紙、そして、部屋の中央に佇む、玲子の遺品であるドイツ製グランドピアノ。


 その時、彼女の「絶対音感」が、部屋の不自然なノイズを捉えた。


 シー、という、極めて微弱な金属の摩擦音。いや、それは電気信号が流れる際に生じる、超高周波の「電流の作動音」だった。普通の人間には決して聴き取ることのできない、一万八千ヘルツを超える微細なハウリング。


(……ピアノだわ)


 結衣は音の源へと音もなく近づいた。グランドピアノの蓋を静かに開け、内部の響板の裏側へと指先を滑らせる。鉄製のフレームの隙間、木目の奥深くに、真鍮製の極小の円盤が埋め込まれていた。それは、九条機関が誇る最新の「隠し盗聴器」だった。


(やっぱり……。九条黎真は、私を完全に信用したわけじゃない。この部屋での私の呼吸一つ、寝言一つまで、すべて監視室に筒抜けにするつもりね)


 背筋に冷たい汗が流れる。盗聴器を直接取り外すか、あるいは破壊すれば、自分がスパイであることを自ら暴露するようなものだ。しかし、このままでは深夜に組織の連絡員・影山と通信することも、暗号を解読することもできない。


 破壊せず、不審がられず、この盗聴器を一時的に無力化する方法は――。


 結衣の瞳に、鋭いスパイとしての光が宿った。彼女はバイオリンケースを開け、名器《初雪》を取り出した。月光を浴びて、銀の装飾が冷ややかにきらめく。


(バイオリニストが、自室で熱心に練習を始める。それは、何の不自然さもない日常の光景だわ)


 結衣はバイオリンを顎に挟み、特製バイオリン弓を構えた。彼女が狙うのは、ピアノの内部に仕込まれた盗聴マイクの「共振周波数」だった。最新のコンデンサーマイクは、特定の超高音域の音波を浴びると、ダイアフラムが過剰に振動し、一時的に音声の録音・集音機能を完全にマ痺させる特性がある。


 結衣は深呼吸を一つし、左手の麻痺する指先をE線の最高ポジションへと滑らせた。第5ポジション以上、指板の限界に近い位置。


 ――キィィィン。


 部屋の中に、耳を劈くような、極めて鋭く、不快な高周波の摩擦音が響き渡った。それは、初心者や腕の鈍った演奏家が、調律の狂ったバイオリンを無理に弾いた時に生じるような、不協和音の絶叫だった。


「弦摩擦高周波ジャミング」


 結衣は弓を弦に強く押し当て、摩擦熱と振動を極限まで高めていく。弓が激しく震え、彼女の絶対音感を持つ鋭い耳にも、キーンという金属的なハウリングの激痛が直接突き刺さった。脳を直接針で刺されるような激しい頭痛と耳鳴りが彼女を襲う。左手の指先の傷口から、血が滲み出るような激痛が火花を散らした。それでも、結衣は「表情筋偽装術」を維持し、苦悶の表情を一切表に出さず、その超高音を維持し続けた。


 ピアノの響板裏に隠された盗聴器のダイアフラムが、バイオリンの高周波ノイズと共振し、過負荷を起こしていく。監視室の集音レコーダーには、今頃、激しい雑音とハウリングノイズだけが録音され、結衣の周囲の物理的な音声は完全に遮断されているはずだった。


(……あと、十秒。耐えなさい、結衣)


 激しい目眩が視界を白く染めかける。それでも彼女は、没落した有栖川家の誇りと、拓海の命を救うという絶対的な誓いを胸に、弓を滑らせ続けた。音波の檻が、黎真の仕掛けた監視の網を、一時的に完璧に無力化していく。


 ついに、結衣は弓を引く手を止めた。


 耳を劈く高周波の音が消え、部屋に元の静寂が戻る。結衣は激しい耳鳴りに耐えながら、バイオリンを静かに下ろした。呼吸が激しく乱れ、額には冷たい汗が滲んでいる。しかし、彼女の計算通り、盗聴器は一時的な過負荷による機能停止状態に陥っていた。これで、少なくとも数時間は、この部屋は彼女だけの「秘密の作戦室」となる。


 安堵の息を漏らし、バイオリンをケースに戻そうとした、まさにその瞬間だった。


 背後の扉、その磨りガラスの向こうに、月光に照らされた影が音もなく佇んでいることに気づいた。


 結衣の心臓が、ドクンと冷たく跳ね上がる。


 磨りガラスの隙間から、部屋の内部を静かに見つめる、一分の隙もないグレーのメイド服。専属侍女としてあてがわれた九条機関の工作員――楓の、冷艶で温度の欠落した視線が、暗闇の中で結衣をじっと射抜いていた。

HẾT CHƯƠNG

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