Nhạc nềnAfternoon_Garden

偽りの協奏曲(コンチェルト)

Audio truyện
Chưa có audio. Bấm để tự tạo audio cho tập này.

帝都「常盤」の秋は、ガス灯の淡い光に濡れた赤レンガの街並みを、冷たい霧で包み込んでいた。路面電車の規則的な金属音が遠くで響く中、有栖川結衣は九条将軍邸の重厚な鉄門の前に立っていた。腕に抱えたバイオリンケースの重みが、今の彼女にとっての唯一の現実だった。その内部に収められた銀装飾の名器《初雪》は、かつて宮廷音楽家として栄華を極めた有栖川家の遺産であり、今の彼女にとっては、地獄のようなスパイ組織「蛇の目」から課された任務を遂行するための、唯一の武器だった。


「……待っていて、拓海」


 結衣は左手の小指にはめた、亡き母の形見である「有栖川家の銀の指輪」にそっと触れた。冷たい金属の感触が、極限の緊張で早鐘を打つ心臓をわずかに宥めてくれる。彼女がこの危険な潜入任務に身を投じた理由は、ただ一つ。組織に人質として囚われ、薄暗い監獄で喘息の発作に苦しむ十五歳の弟、拓海の命を救うためだ。任務を完遂し、新型兵器の設計図を盗み出さなければ、弟に未来はない。


「有栖川結衣殿ですね。将軍がお待ちです」


 鉄門を開けたのは、九条機関の副官であり、陸軍大尉の神谷晋太郎だった。一分の隙もない軍服に身を包んだ彼の瞳には、明らかな警戒の色が宿っていた。没落華族の生き残りであり、街の楽団で糊口を凌ぐバイオリニスト――それが結衣の表の顔だが、神谷のような防諜のプロを欺くには、あまりにも脆弱な盾だった。


「お荷物を拝見します」


 神谷の冷徹な声が響く。結衣は「表情筋偽装術」を起動し、儚げで物憂げな没落令嬢の微笑みを浮かべたまま、大人しくケースを手渡した。神谷の細い指先が《初雪》のボディを叩き、内部の空洞を確かめる。そして、彼女が最も緊張する瞬間が訪れた。神谷の手が、黒檀製の「特製バイオリン弓」へと伸びる。その持ち手部分には、極細の解読用針と緊急自決用のシアン化カリウムカプセルが仕込まれているのだ。もし見つかれば、その場で射殺される。


 結衣はあえて視線を逸らし、不安げに自らの指先を見つめる仕草をした。か弱い女性が受ける屈辱的な検閲への戸惑い――その「視線誘導」が神谷の注意をわずかに削ぐ。神谷は弓の重さを確かめたが、その巧妙な仕込みギミックに気づくことなく、ケースを閉じた。


「……結構です。奥へ」


 肺に溜まった冷たい空気を、結衣は静かに吐き出した。神谷の検門は突破した。だが、本当の深淵はこれからだ。重厚な赤レンガの洋館の奥、ガス灯の光が床のワックスに鈍く反射する大広間へと導かれる。そこには、帝国の若き天才将軍であり、九条機関の長である九条黎真が待っていた。


 豪奢な一人がけの椅子に深く腰掛けた黎真は、二十代半ばという若さでありながら、周囲を平伏させる圧倒的な軍事的カリスマを放っていた。端正な顔立ちに、氷のように冷徹な黒い瞳。金モールが輝く軍服の胸元には、数々の戦功を示す勲章が並んでいる。彼こそが、結衣が欺き、そしてその懐から国家最高機密を盗み出さねばならない標的だった。


「有栖川結衣です。九条将軍閣下、お目通りが叶い光栄に存じます」


 結衣は深く一礼し、没落華族としての気品と、生活に困窮した芸術家の悲哀を完璧に調和させた所作を見せた。黎真は無言のまま、彼女をじっと見つめていた。その視線は、結衣の皮膚を一枚ずつ剥ぎ取るかのように鋭く、冷たい。


「有栖川惣右衛門の娘か。かつて宮廷を魅了した有栖川の音色、今の君にどこまで再現できるか、聴かせてもらおう」


 黎真の声は低く、心地よい響きを持っていたが、その奥には感情の揺らぎが一切なかった。結衣は頷き、《初雪》を構えた。冷たい銀の装飾が首筋に触れる。彼女の呼吸が静かに整い、弓が弦に触れた瞬間、大広間の空気が一変した。


 奏でられたのは、かつて有栖川家が宮廷で演奏していた古い哀愁の旋律だった。結衣の演奏技術は帝国最高峰であり、その音色は聴く者の魂を鷲掴みにする。結衣は演奏の最中、母から教わった「精神調律演奏法」を微かに織り交ぜた。特定の周波数と微細なビブラートを用いて、聴衆の心拍数を下げ、警戒心を解いて軽い催眠状態へと導く技術。周囲に控える使用人たちや、背後に立つ神谷の瞳から、徐々に険しさが消えていくのが分かった。


 しかし、黎真だけは違った。彼の瞳は、催眠の霧に侵されるどころか、ますます冷徹に冴え渡っていく。彼の視線は結衣の顔ではなく、彼女の左手の指先に固定されていた。バイオリンの弦を抑える指先――そこには、弦による硬いペンだこだけでなく、スパイ養成所で銃を握り、引き金を引き続けたことによって出来た、微かな摩擦の傷痕があった。


(……気づかれた?)


 結衣の心臓が激しく跳ね上がる。その動揺が、ビブラートの周波数をわずかに狂わせた。極限の緊張と「精神調律」の過度な集中により、結衣の左手の指先に月下香の毒素による微細な麻痺が走り、激しい痛みが火花のように弾ける。それでも、彼女は「表情筋偽装術」を維持し、完璧な哀愁の微笑みを崩さなかった。ここで演奏を止めれば、すべてが終わる。拓海が殺される。


 結衣は魂を削るようにして、最後の和音を響かせた。美しい余韻が、大広間の高い天井へと吸い込まれていく。


 静寂が部屋を支配した。神谷は微かに目元を和らげていたが、黎真はただ静かに立ち上がった。彼の軍靴の音が、大理石の床に冷たく響く。結衣の目の前で立ち止まった黎真は、彼女の青白い顔を見つめ、薄く微笑んだ。


「素晴らしい演奏だ。有栖川惣右衛門の娘の名に恥じぬ、魂を揺さぶる音色だった。君を、我が九条邸の専属演奏家として雇おう」


「……ありがとうございます、閣下。身に余る光栄にございます」


 結衣は安堵の息を漏らし、深く頭を下げた。潜入は成功した。これで、邸内を探索し、新型兵器の設計図に近づく権利を手に入れたのだ。張り詰めた糸が緩みかけた、まさにその瞬間だった。


 黎真が結衣の側へと一歩歩み寄り、彼女をエスコートするフリをしながら、その耳元に顔を寄せた。彼の熱い吐息が結衣の首筋をかすめ、同時に、彼の冷徹な声が、周囲に聞こえないほどの極小の囁きとなって彼女の鼓膜を穿った。


「――だが、君のバイオリンは、少し震えているね。まるで……何か恐ろしい嘘を隠しているかのように」


 結衣の全身の血が一瞬にして凍りついた。見上げる彼女の視線の先で、九条黎真は底知れぬ笑みを浮かべ、静かに彼女を見下ろしていた。

HẾT CHƯƠNG

Chưa có bình luận nào. Hãy là người đầu tiên!