咲き誇る百花の戦場
朝霧が完全に晴れ渡った百花園(ひゃっかえん)は、息を呑むほどに絢爛たる極彩色に染まっていた。赤や白、大輪の牡丹が咲き乱れる庭園の中央には、豪奢な金糸の刺繍が施された天幕が張られ、後宮の妃たちがきらびやかな薄絹の衣をまとって集まっていた。しかし、その華やかさとは裏腹に、漂う空気は氷のように冷たく、張り詰めている。
「あら、野蛮な戦場上がりの虜囚(りょしゅう)が、ようやくお出ましですわね」
天幕の最上席に君臨する貴妃(きひ)・西条麗華(さいじょう・れいか)の傍らで、勝ち気な目をぎらつかせた側室、王麗美(おう・れいび)が扇の隙間から甲高い嘲笑を漏らした。周囲の妃たちもそれに同調し、袖を口元に当ててくすくすと笑い声を上げる。
葵(あおい)は、薄紅色の寵姫のドレスをまとい、背筋を凛と伸ばした姿勢のまま天幕へと歩み進めた。その短く切りそろえられた黒髪と、首元に刻まれた微小な戦傷の痕は、華美な後宮の女たちの中で異質な存在感を放っている。
(耳障りな雑音だな。戦場の羽虫の羽音の方が、まだ規律がある)
葵は「心拍数の完全制御」を静かに作動させ、沸き上がる怒りを完璧に押し殺した。だが、彼女の右手の指先には、今も不気味に細かく震えるような痺れが残っている。昨夜の特訓の負荷と、麗華の差し金によって盛られている遅効性毒薬「経絡散(けいらくさん)」の毒が、じわじわと彼女の経絡を蝕んでいるのだ。
「無位の虜囚でありながら、お茶会に遅れて参るなど、神楽坂家の教育も知れますわ」
王麗美は立ち上がり、机の上に置かれた純白の青磁の茶器を指差した。その中には、皇帝陛下から下賜されたばかりの最高級茶葉「御前龍井茶(ごぜんろんじんちゃ)」が収められている。
「葵嬪(あおいひん)――いえ、無位の葵様。陛下から賜ったこの尊いお茶を、私たちに点ててくださるかしら? まさか、剣しか握ったことのないその泥まみれの手では、お茶の点て方もご存じないとは言わせませんわよ」
麗華は満足そうに顎を引き、葵が困惑し、無作法を晒す瞬間を今か今かと待ち受けている。周囲の妃たちの冷ややかな視線が、一斉に葵の右手に注がれた。急須の重みと、精密な動作。痺れる右手でそれを行えば、必ず湯をこぼすか、茶器を損ねる。そうなれば「皇帝への不敬」として、その場で尚宮局に処罰を求める大義名分が麗華に与えられるのだ。
だが、葵の瞳の奥に宿る光は、微塵も揺らがなかった。彼女は静かに一歩を踏み出し、茶卓の前に立った。
(尚宮・梅(うめ)の教えを思い出すのだ。手首の力で急須を持つな。肩甲骨から腕全体を一本の『鋼鉄の弓』として固定し、腰の回転で湯を注ぐ)
葵は呼吸を整え、右手を伸ばして急須の取っ手を握った。指先には確かに痺れがある。しかし、彼女は指先の感覚を完全に無視し、背中の大きな筋肉を連動させて腕全体を固定した。それは、戦場で重さ四十斤の黒鉄の大剣を、手首の力に頼らず体幹で振り回す動作と全く同じ原理だった。
葵は滑らかな重心移動と共に、腰の回転を用いて急須を傾けた。沸き立つ熱湯が、一筋の美しい糸のように青磁の器へと注がれていく。水滴一つ、器の外にこぼれることはない。茶葉が湯の中で優雅に舞い、百花園の冷たい空気に、深く、馨しい御前龍井茶の香りが立ち込めた。
一分の乱れもない、完璧な茶礼。その所作は、ただ優雅なだけでなく、武人としての無駄のない洗練された力強さを秘めていた。
天幕の中が、水を打ったように静まり返った。嘲笑を浮かべていた王麗美の顔が引きつり、麗華は不快そうに椅子の肘掛けを強く握りしめた。天幕の隅で静かに控えていた尚宮・梅は、その光景を氷のような瞳で静かに見守り、葵の完璧な作法に内心で深い満足の頷きを返していた。
お茶を点て終えた葵は、麗美に向けて杯を差し出そうとした。その瞬間、麗美の瞳に焦りと憎悪の光が走る。
(このままでは、私が恥をかくことになる……!)
麗美は葵が自分の前を通り過ぎる一瞬の隙を狙い、長く引きずった自らの豪華なドレスの裾を、葵の足元へと滑り込ませた。葵の足を引っ掛け、熱いお茶を彼女自身のドレスにこぼさせ、大失態を演じさせようという物理的な罠だった。
しかし、葵の「絶対的殺気感知」が、麗美の足元の微小な動きと、そこから放たれる明確な敵意を瞬時に捉えた。
(浅はかな小細工だ)
葵は歩行の速度を一切変えなかった。だが、麗美の足元に差し掛かる直前、葵は突如、自らの視線を右斜め上、牡丹の茂みの奥へと鋭く走らせた。その瞳の動きはあまりにも唐突で、かつ何かに驚愕したかのような緊迫感を帯びていた。
――「視線誘導(フェイント)」。
麗美は、葵の鋭い視線の動きに本能的に釣られ、自らの視線を右へと走らせてしまった。一瞬だけ、麗美の意識と重心が右へと偏り、足元の感覚が完全に疎かになる。
その刹那、葵は腰の回転を用いて身体の軸を僅かに左へとずらし、麗美が差し出していたドレスの裾を完璧に回避した。葵の足元は一ミリの乱れもなく、優雅な無音歩行を維持している。
一方、視線を奪われ、自らの足元を見失った麗美は、自分が仕掛けたドレスの裾に自らの足を取られた。重心を崩した彼女の身体が、前方へと不格好に傾ぐ。
「あっ――!?」
短い悲鳴と共に、麗美は地面へと激しく転倒した。その拍子に、彼女が葵から奪い取ろうとしていた熱いお茶が、彼女自身の顔と胸元に向けて容赦なく降り注いだ。
「熱いっ! 熱いお茶が……! きゃあああああ!」
百花園に、王麗美の醜い悲鳴が響き渡った。熱湯を浴びた彼女は、豪華なドレスを泥まみれにしながら地面をのたうち回り、きらびやかな簪(かんざし)が髪から外れて石畳に虚しく転がった。
「麗美!」
麗華は玉座から立ち上がり、激怒の形相で葵を指差した。
「無礼者! 葵、貴様、今、麗美を突き飛ばしたな! 公衆の面前で妃に暴力を振るうとは、言い訳の立たぬ大逆罪! 尚宮局、この女を今すぐ捕らえなさい!」
麗華の金切り声に、周囲の護衛兵たちが剣に手をかけようとした。しかし、その動きを、冷徹な一喝が遮った。
「お待ちください、貴妃様」
進み出たのは、尚宮局の総管である尚宮・梅だった。彼女は「法の鉄鞭」を腰に帯びたまま、一歩の乱れもない姿勢で麗華の前に立ち塞がった。
「私は尚宮局の総管として、この茶会のすべての所作を厳格に監視しておりました。神楽坂葵様の所作には、一分の乱れも、他者への不当な接触もございませんでした。王麗美様は、自らのドレスの裾を踏み、自らの不調法によって転倒されたのです。これは公式な規律に照らし合わせても、葵様の過失ではございません」
「梅! 貴様、私に逆らう気か!」
麗華は顔を真っ赤にして怒鳴り散らしたが、梅は氷のように冷たい眼差しを崩さなかった。
「私は後宮の『氷の法』の番人。いかなる高貴な御方の私情であっても、法の歪みを認めるわけにはまいりません。王麗美様の転倒は、彼女自身の無作法による自滅。葵様には何の非もございません」
梅の厳格な断定に、周囲の妃たちは沈黙し、麗華はそれ以上の抗議を飲み込まざるを得なくなった。お茶会での葵の圧倒的な勝利は、誰の目にも明らかだった。
葵は、のたうち回る麗美を冷ややかに見下ろしながら、心の中で静かに呟いた。
(後宮という戦場……。力だけでは勝てぬが、法と知略があれば、敵を内側から完璧に叩き潰すことができる。尚宮・梅の授けてくれた盾、実に見事なものだ)
しかし、葵の右手の痺れは、冷たい風にさらされて僅かに深まりつつあった。この勝利の代償として、麗華との対立は決定的なものとなり、後宮内の闇はさらに深く、鋭い牙を剥こうとしている。
その夜、絢爛豪華な麗景殿(れいけいでん)の奥深く。割れた陶器が散乱する暗い部屋の中で、西条麗華は血の滲む唇を噛み締め、狂気的な怒りに震えていた。
「神楽坂葵……あの野蛮な化け物め、絶対に許さない……。私のプライドを、公衆の面前で泥にまみれさせるとは……!」
麗華の瞳の奥に、冷酷極まりない、本物の殺意が宿った。彼女は暗闇に向けて、低く、かすれた声で呼びかけた。
「……骸(むく)を。西条家お抱えの毒師を、今すぐここへ呼びなさい。あの女の強靭な肉体を、内側から完璧に腐らせて、二度と立ち上がれぬ廃人にしてやるわ」
暗闇の中から、不気味な影が音もなく蠢き、麗華の冷酷な命令を受領した。後宮の深淵で、葵の肉体を物理的に崩壊させるための、新たなる暗黒の陰謀が静かに始動しようとしていた。
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