暴君の冷たき仮面
西条麗華からの不穏な茶会の召喚状を睨み据えた翌朝、緋蓮宮(ひれんぐう)に響いたのは、高らかな太監の触れ回りであった。麗華の茶会へ赴く準備を整える間もなく、皇帝・鳳黎明(おおとり・れいめい)直々の召喚が下ったのだ。行き先は後宮ではなく、外廷の政治的中枢であり、皇帝の公的な執務室たる「紫宸殿(ししんでん)」。
「無位の虜囚を、朝廷の臣下たちが並ぶ紫宸殿へ召喚するとは……。陛下は何をお考えなのか」
お静が青ざめた顔で葵の身支度を手伝いながら、小声で懸念を口にする。葵は鏡に映る自身の姿を冷ややかに見つめ返した。纏わされているのは、戦士の誇りを隠すための、薄紅色の豪奢な薄絹の寵姫ドレス。その帯の裏には、昨日の家宅捜索から守り抜いた極細の鋼鉄針「黒鉄の髪飾り」が潜んでいる。右手の指先に走る微かな経絡の痺れを隠すように、葵は袖を整えた。
「行くしかない。あそこは後宮とは異なる、血の匂いのする戦場だ」
葵は静かに呟き、緋蓮宮を後にした。
紫宸殿へと続く回廊は、冷たい石畳と朱塗りの巨大な柱に囲まれ、重苦しい空気が立ち込めていた。重厚な黒漆塗りの扉が開かれると、立ち込める沈香の香りと共に、何十人もの朝廷高官たちの視線が一斉に葵へと注がれた。その視線はどれも冷酷で、新参の「戦場上がりの妖妃」に対する蔑みと不気味な敵意に満ちていた。
特に、朝廷の軍事部門を支配する兵部尚書・西条隆盛(さいじょう・たかもり)の、太い眉の奥にある鋭く冷酷な眼光は、葵の身体を射抜くかのようであった。その隣には、監察部門の巨頭である御史大夫・柳沢宗厳(やなぎさわ・むねよし)が、枯れ木のような身体を揺らしながら不機嫌そうに佇んでいる。
「神楽坂家は先代の死後、国境での統制を失いつつあります。これ以上の兵権の放置は帝国の安寧を脅かす。陛下、即刻『神楽坂軍の兵符(へいふ)』を完全に解体し、西条家の私兵を国境へ配備すべきです」
西条隆盛の重々しい声が、高い天井に響き渡る。隆盛は、葵の虜囚生活を利用して一族の軍事力を完全に強奪しようと、黎明に強烈な政治的圧力をかけていたのだ。皇太后派の官僚たちも一斉にそれに同調し、紫宸殿内は神楽坂一族の誅殺を求める不気味な包囲網と化していた。
玉座に君臨する黎明は、漆黒と黄金の皇帝服を纏い、頬杖をついたまま冷淡な笑みを浮かべていた。彼は隆盛の上奏を完全に無視するように、ゆっくりと視線を葵へと動かした。
「遅いぞ、我が戦乙女。朝廷の退屈な議論に、少しは華を添えてみせよ」
黎明の声は、冷酷な暴君としての完璧な仮面――「傀儡の暴君(仮面)」そのものであった。彼は葵を手招きし、玉座のすぐ傍らに立つよう命じた。周囲の官僚たちから、侮蔑の溜息が漏れる。
「隆盛、お前が騒ぎ立てる兵権など、この女を檻に閉じ込めておけば済むことだ。それよりも、この野蛮な戦場上がりの獣が、いかに宮廷の酒を美味そうに注ぐか、見たくはないか?」
黎明は嘲笑を浮かべ、葵の前に置かれた黄金の酒瓶を指差した。西条隆盛は不快そうに目を細め、柳沢宗厳は「朝廷を愚弄されるな」と言いたげに鼻を鳴らした。だが、黎明の冷酷な支配の前には誰も直接の反論はできない。
葵の胸の奥で、戦士としての烈火のごとき怒りが沸き上がった。この暴君は、一族の存亡がかかった政治の場で、自分をただの「夜の玩具」として辱め、敵対勢力を欺こうとしているのだ。しかし、葵は「心拍数の完全制御」を行い、表情を氷のように冷たく保ったまま跪いた。
「……御意にございます、陛下」
葵は黄金の酒瓶を手に取った。右手の指先に走る微かな痺れが、瓶の重みで一瞬だけ強くなる。しかし、彼女の脳内はすでに、この屈辱の状況を逆手に取るための冷徹な戦術を計算し終えていた。
(黎明の懐――あの漆黒の皇帝服の胸元に、没収された『神楽坂軍の兵符』が隠されている。位置を特定し、奪還の隙を窺う……!)
葵は「泥酔偽装の術」を始動させた。彼女は黎明から無理やり差し出された強い宮廷酒を、躊躇なく口にするフリをしながら、全身の力を完全に抜き、千鳥足の寵姫を熱演し始めた。視線は定まらず、頬を微かに赤らめ、足元をふらつかせる。
「ほう、戦場では強靭だった将軍も、宮廷の甘い酒には一瞬で溺れるか」
黎明の嘲笑に合わせ、周囲の官僚たちからも下卑た笑いが漏れる。葵はその油断の瞬間を逃さなかった。彼女は千鳥足で黎明の膝の上へと倒れ込むようにして、手にした黄金の酒瓶をわざと傾け、彼の漆黒の衣へと酒をこぼした。
「あ、荒々しい戦場育ちゆえ……お許しください、陛下……」
葵はか細い声を上げながら、酒を拭き取るフリをして、黎明の胸元へと素早くその細い指先を滑り込ませた。薄絹の袖に隠された指先が、彼の皇帝服の内ポケットを探る。
――冷たい、硬質な金属の感触。
(あった……! 青狼の意匠が刻まれた、我が一族の兵符だ!)
葵の指先が、兵符の鋭いエッジを確かに捉えた。これを抜き取れば、国境の景虎たちに挙兵の合図を送ることができる。葵が指先に力を込め、兵符を引き抜こうとしたその瞬間――。
鉄の万力のような強固な力が、葵の細い手首を完璧に締め上げた。黎明の手が、彼女の動きを完全に予測していたかのように、その細い手首を掴んで静止させたのだ。
「戯れが過ぎるぞ、狼の娘」
黎明の切れ長の瞳が、至近距離で葵の目を射抜いた。その瞳の奥には、先ほどまでの暴君の嘲笑はなく、底知れぬ冷徹な光が宿っていた。黎明は葵の身体を自身の胸元へと強く引き寄せ、密着させた。二人の鼓動が、薄い衣越しに激しく重なり合う。
周囲の官僚たちからは、単なる寵姫への強引な抱擁にしか見えないその至近距離で、黎明は葵の耳元に自身の唇を寄せ、冷酷でありながらも静かな声を囁いた。
「焦るな、狼の娘。お前の命は、私の檻の中にある。……大人しく牙を収めておけ」
その囁きが耳腔に届いた瞬間、葵の「絶対的殺気感知」の野生の勘が、あり得ない真実を感知した。
(殺気が……ない……?)
あれほど冷酷な言葉を放ち、自分の一族を人質に取り、手首を締め上げているこの男の身体から、自分に対する殺意や敵意が「一滴」すらも感じられないのだ。それどころか、彼の掴む手からは、何か自分をこの紫宸殿の毒牙から必死に隠し、守ろうとする狂気的なまでの「執着」と「守護の意志」が伝わってきた。
(なぜだ……? この男は、本当にただの暴君なのか……?)
葵の心に、これまでにない巨大な疑惑の亀裂が生じた。黎明の「暴君の仮面」の裏にある本当の政治的意図とは何なのか。掴まれた手首の熱さと、彼の冷たい瞳のギャップに、葵の魂は激しく揺さぶられていた。紫宸殿の冷たい沈香の煙が、二人の緊迫した沈黙を包み込むように流れていった。
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