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闇を走る蒼き狼

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月は冷酷な白銀の刃のように、後宮の最北端に位置する廃庭を照らしていた。かつて陰謀に敗れた妃たちの怨霊が彷徨うと噂されるその場所は、鬱蒼とした雑木林と崩れかけた石壁に囲まれ、人の気配を完全に拒絶している。昼間でさえ女官たちが近づかないこの廃墟は、深夜になれば完全な闇の支配領域へと変貌する。


「……ふん、怨霊など戦場の屍に比べれば、他愛もない」


神楽坂葵は、緋色の薄絹のドレスの裾を片手で乱暴に引きずりながら、廃庭の荒れ地を静かに進んでいた。手にした籠には、夜間に密かに伐採した竹の端材や乾いた小枝が収められている。前夜、内侍省長官・趙高明によって仕掛けられた「兵糧攻め」に対抗するため、彼女は緋蓮宮の住人たちを率いて「自給自足規律」を制定した。宮殿を暖めるための竹炭の材料となる薪を確保すること――それが、虜囚の身でありながらも、一軍を率いた将軍としての彼女が下した最初の防衛戦術だった。


だが、深夜の冷気は容赦なく彼女の体力を奪っていく。特に、昨夜の過酷な竹伐採の負荷が残る右手の指先には、微かな、しかし針で刺すような痺れが走っていた。葵はそれを「経絡散の予兆」であるとはまだ知らず、単なる極寒による血流の滞りだと己に言い聞かせ、強く拳を握りしめて痺れをねじ伏せた。


カサリ、と微かな乾いた音が、静寂を切り裂いた。


風が竹林を揺らす音ではない。葵の五感に刻まれた「絶対的殺気感知」の野生の勘が、脳裏に警鐘を鳴らした。背後、わずか五歩。風の音に完全に同期した、極めて微細な「呼吸の揺らぎ」が、葵の項の産毛を粟立たせた。


(敵意はない。だが、極めて鍛え上げられた隠密の気配……!)


葵はわざと歩幅を緩め、薪を拾うために深く屈み込んだ。無防備な背中を晒す――それ自体が、敵を誘い出すための致命的な囮だった。背後の影が、音もなく跳躍した。月光を遮るようにして、黒い人影が葵の頸動脈めがけて鋭い手刀を突き出してくる。


「甘い!」


葵は屈み込んだ姿勢のまま、地を這うような素早い回転で敵の突きを紙一重で回避した。立ち上がりざま、彼女は「骨法関節外し」の応用を使い、滑り込ませた左腕で敵の手首を絡め取り、そのまま肩の関節を極めて床に叩きつけようと螺旋の軌道を描く。


しかし、対峙した黒い人影もまた、常人の護衛兵ではなかった。人影は葵の関節技の始動を察知した瞬間、力で抗うのではなく、自らの体重を預けて前方に回転し、葵の腕のロックを完璧に受け流した。それは、神楽坂流実戦武術に固有の、重心移動による防御の型だった。


(この受け流し、まさか……!)


葵が驚愕に目を見開いた瞬間、月光の下で黒い人影がその身を低く沈め、神楽坂軍独自の臣下の礼をとった。銀と黒の禁衛軍の甲冑を纏った男が、静かに兜を脱ぎ、前髪の隙間から鋭い眼光を覗かせる。


「葵大将……お怪我はございませんか」


「――源太……!?」


葵の口から、かつて国境戦で共に死線を越えた最愛の副官の名が漏れた。源太は、後宮の厳重な警戒網を潜り抜けるため、素性を隠して禁衛軍の護衛兵として潜入に成功していたのだ。


「何故ここにいる。お前ほどの将が、何故このような檻に身を落とした」


葵は周囲の闇を警戒しながら、低い声で問い詰めた。源太は跪いたまま、懐から一通の薄い絹布を取り出し、葵に差し出した。


「大将をお救いするためです。そして……これを」


手渡された絹布には、一見すると虜囚の葵が元部下に宛てた、未練がましい恋文のような詩が綴られていた。しかし、葵がその文字の画数を特定の規則でずらし、脳内で「神楽坂軍・狼紋暗号」を用いて解読した瞬間、彼女の表情は氷のように冷たく凍りついた。


『朔様は、帝都の「神楽坂家の屋敷」にて生きておられます。しかし、二十四時間体制で皇太后・尊子派の兵士に包囲され、一歩も外出を許されぬ厳重な軟禁状態にあります。大将が皇帝に従う限り、朔様の命は保証されますが、一族の兵権を完全に解体するための書類が、西条隆盛の手によって朝廷に提出されようとしています』


「朔が……人質として、そこまで追い詰められているのか」


葵の胸を、激しい焦燥感と怒りが締め付けた。義父・烈が亡き後、まだ十六歳の幼い義弟が一族の重圧を背負い、冷酷な皇太后の刃の下で震えている。自分がここで黎明を殺し、あるいは無謀な脱出を図れば、その瞬間に朔の首は撥ねられ、神楽坂一族は謀反人として歴史から抹消されるだろう。


「大将、今すぐ私と共にここを脱出してください」


源太が葵の手を掴み、真剣な眼差しで訴えた。


「この廃庭の枯れ井戸の底には、建国期に我が一族の工兵が極秘に掘削した『廃井戸の地下道』が眠っています。泥にままみれた石扉の鍵は、私が既に手配しました。これを使えば、帝都郊外の廃寺へと直接繋がっています。今ならまだ、近衛兵の巡回ルートに死角があります!」


源太は枯れ井戸の古い鉄蓋を指し示した。そこは、後宮という巨大な鳥籠に隠された、唯一の物理的な脱出ルートだった。


葵は枯れ井戸の暗い底を見つめ、深く息を吸い込んだ。彼女の脳裏には、冷香殿で手首を掴んできた黎明の震える指先と、人質となった朔の顔が交互に浮かび上がる。


「いや……私はまだ逃げない、源太」


葵は静かに、しかし断固とした意志で源太の手を振り払った。


「何故ですか! ここに留まれば、西条麗華や皇太后の毒牙にかかり、大将の命すら保証されません!」


「焦って脱出すれば、それこそ敵の思う壺だ。私が消えれば、尊子派は即座に『神楽坂家が皇帝の寵姫を拉致し、謀反を起こした』とでっち上げ、朔と国境の将兵を全員処刑するだろう。私たちは、後宮という戦場の内部から、黎明の真意を探り、皇太后派の売国の証拠を掴まねばならない」


葵の瞳には、敗北を拒絶する将軍としての冷徹な大局観が宿っていた。彼女は、単なる個人の「自由な逃亡」ではなく、一族の兵権を奪還し、すべての陰謀を根底から覆すための「勝利」を求めていた。


「大将……」


源太は葵の決意の固さを知り、深く頭を下げた。男女の関係を超え、命を預け合うプロフェッショナルとしての絶対的な信頼が、二人の間に再び結ばれる。


「わかりました。ならば、この『廃井戸の地下道』を、外部の『影の狼衛』と大将を繋ぐ、物理的な密書ルートとして確立します。私が禁衛軍の内部から、巡回ルートの隙を突いて定期的に廃庭へ密書と必要な物資を運び込みます」


「頼む、源太。お前の存在こそが、私の唯一の補給線だ」


遠くから、禁衛軍の夜間巡回兵の甲冑が擦れる微かな金属音が風に乗って聞こえてきた。タイムリミットだった。


「追跡者が来る。下がれ、源太。お前の正体が暴かれれば、すべての計画が瓦解する」


「御身、お大事に……蒼き狼の牙は、まだ折れておりません」


源太は素早く兜を被り、「気配遮断」を用いて闇と同化するように廃庭の影へと消えて行った。葵もまた、抱えた竹の籠をしっかりと握りしめ、無音の歩行で緋蓮宮への帰路を急いだ。


廃庭の周囲には、未だに「黒田猛」などの執拗な追跡者の冷たい視線が光っている。葵は冷たい風を頬に受けながら、右手の痺れを再び自覚し、迫り来る政治的・肉体的な危機の暗雲を強く感じるのだった。

HẾT CHƯƠNG

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