緋色の檻、牙を剥く戦乙女
朱塗りの格子窓から差し込む月光は、冷たい石畳の上に白く不気味な縞模様を描き出していた。
「……くだらない」
神楽坂葵は、姿鏡に映る自身の姿を冷徹に見つめ、忌々しげに呟いた。
かつて天陽帝国の国境を守り、泥と血にまみれながら鉄の甲冑を纏っていた戦乙女の身体は、今や幾重にも重なる緋色の薄絹に包まれている。袖は無駄に長く、裾は歩くたびに床を這い、甘い白麝香の香りが鼻腔をくすぐる。纏うだけで身動きを封じるような、呪わしい「寵姫」の衣。男装を解かれ、女としての身体を晒す屈辱。だがそれ以上に、戦士としての爪を奪われ、後宮という名の美しき鳥籠――「緋蓮宮」に閉じ込められたことへの激しい精神的苦痛が、彼女の胸を焦がしていた。
「葵様、お髪の飾りを整えます。皇帝陛下がいつお渡りになられても良いように、従順な笑みをお作りください」
背後に控える筆頭侍女のお静が、冷ややかな手つきで葵の黒髪を梳きながら言った。お静は皇太后・尊子の命令によって配属された監視役だ。その声は慇懃無礼であり、瞳の奥には冷酷な監視の光が宿っている。この後宮では、皇帝の寵愛を失えば即座に「掖庭」での強制労働か、あるいは暗殺の毒牙が待っている。お静の言葉は、暗に葵の無力さを嘲笑うものだった。
「従順な笑み、か。あいにく、戦場でそんなものは一度も学ばなかった」
葵は振り返り、お静を鋭い眼光で射すくめた。その瞳には、一軍を率いた将軍としての圧倒的な威圧感が宿っている。お静は一瞬、葵の放つ殺気に気圧されたように息を呑んだが、すぐにいつもの冷ややかな無表情に戻り、静かに一礼して部屋を出て行った。
静寂が戻った緋蓮宮の寝室で、葵は一人、床に置かれた重い寵姫の衣装を脱ぎ捨てたい衝動を抑えながら、履いていた靴の踵の隠し隙間に指を滑らせた。そこには、宮廷に潜入する直前、老鍛冶師の厳鉄心から極秘に入手した「黒鉄の端材」があった。葵はそれを自らの指先と石畳で研ぎ澄まし、一本の極細の鋼鉄針――髪飾りに偽装した暗器を完成させていた。
『後宮内武器所持禁止令』。
建国以来の鉄則であり、違反者は理由を問わず即座に死罪となる。だが、丸腰で生き延びるほど葵は甘くはない。戦士にとって、武器を持たずに生きることは死を意味する。指先に隠した黒鉄の針。これ一本あれば、いかなる敵の喉元をも一瞬で貫くことができる。葵はそれを寵姫のきらびやかな帯の裏に滑り込ませた。
深夜。風が緋蓮宮を取り囲む「密議の竹林」を揺らし、不気味な葉擦れの音を立てていた。その音に紛れるようにして、寝室の重い扉が音もなく開いた。足音はない。気配すら希薄だ。だが、葵の五感に刻まれた「絶対的殺気感知」の野生の勘が、侵入者の存在を瞬時に捉えた。葵は息を殺し、寝台の帳の陰に身を潜めた。
暗闇の中に現れたのは、漆黒と黄金の皇帝服を纏った男――鳳黎明だった。その切れ長の瞳が月光に冷たく光り、傲慢な笑みを浮かべている。
(今だ!)
葵は無音で跳躍し、黎明の背後から襲いかかった。逆手に持った黒鉄の簪が、彼の頸動脈めがけて一閃する。しかし、黎明は振り返ることすらなく、超人的な身体反応でその一撃をかわした。
「相変わらず鋭い牙だな、我が戦乙女」
黎明の低い声が響くと同時に、彼の身体から放たれた「天陽龍気功」の圧倒的な気の圧力が葵を襲う。葵は一瞬で関節を外し、彼の拘束を逃れようと「骨法関節外し」を試みたが、黎明の放つ強固な気の壁に阻まれ、両手首を強硬に掴まれた。そのまま、黎明の圧倒的な力によって寝台へと押し倒される。重い漆黒の衣と、彼自身の体温が葵を圧迫し、至近距離で見つめ合う二人の視線が暗闇の中で激しく火花を散らした。
「無駄な抵抗はやめろ。お前はもはや将軍ではない。私の『無位の寵姫』――ただの虜囚だ」
黎明は冷酷な笑みを浮かべ、葵の両手首をシーツに縫い付けるように押さえつけた。葵は「心拍数の完全制御」を行い、激しい怒りと屈辱を完璧に殺し、氷のように冷たい眼差しで彼を睨み返した。
「私を殺せば、お前の一族がどうなるか分かっているはずだ。神楽坂朔……あの幼い義弟の命が、現在どのような状況にあるか、忘れたわけではあるまいな?」
黎明の口から、人質として軟禁されている最愛の弟の名が出た瞬間、葵の心臓が一瞬だけ激しく波打った。怒りに任せてこの暴君を殺せば、神楽坂一族は即座に謀反人として滅亡する。葵は暗殺の衝動を無理やり抑え込み、持久戦を選択するしかなかった。
「生きて一族を救いたければ、私の檻の中で従順な雌犬のふりをしろ」
黎明は彼女の耳元に顔を近づけ、冷酷に囁いた。だが、その冷酷な言葉とは裏腹に、葵の手首を掴む彼の指先は微かに震えていた。葵の野生の勘は、彼の瞳の奥に潜む「狂気的な執着」と、殺意の欠如を感じ取っていた。黎明は静かに身を起こし、彼女を見下ろしたまま寝室を去って行った。
残された葵は、緋色の薄絹を握りしめ、暗闇の中で冷たい決意を固めるのだった。この檻の中で、牙を研ぎ澄まし、必ずや一族の兵権を奪還してみせると。
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