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裏切りの密書、谷に潜む犬

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骸骨洞(がいこつどう)に立ち込めていた不気味な赤い毒煙が、落子夜(ラク・シヤ)の傷口から噴き出した黒い毒血によって、ジュウジュウと音を立てて中和され、消え去っていく。床には、髑髏の仮面ごと真っ二つに叩き斬られた刺客「黒影(コクエイ)」の無残な骸が転がっていた。相棒を失い、自慢の鋼鉄爪を溶かされた「紅葉(モミジ)」は、恐怖のあまり腰を抜かし、泥まみれの床を這いずりながら後退している。


「化け物……お前、本当に人間なのか……!」


 子夜は何も答えなかった。ただ、光を完全に吸い込む漆黒の「鉄爺の黒鉄湾刀(てつじいのこくてつわんとう)」を右腕一本で静かに構え直す。左肩は紅葉の爪撃によって深く裂かれ、どす黒い血が止めどなく溢れていたが、「無痛の肉体」が作動しているため、苦痛の表情一つ浮かべない。ただ、肺に取り込んだ毒煙のせいで、喉の奥からせり上がる黒い血を、静かに吐き捨てただけだった。


(……いや、まだ終わっていない)


 子夜の視神経は死んでいる。しかし、疑似経絡の真気を脳へと逆流させた「絶対骨格感知(ぜったいこっかくかんち)」の視界は、骸骨洞の崩れた岩肌の隙間、その遥か奥を見据えていた。暗闇の深淵に、もう一つの光る青白い骨格が浮かび上がっている。


 それは、血雨(ちさめ)の刺客ではない。悪人谷の薄汚れた衣を纏った、見慣れた男の骨格――宋仁(ソ・ジン)だった。


 宋仁の骨格は、岩の裂け目に身を潜めながら、小刻みに震えていた。だが、それは恐怖だけの震えではない。その骨の傾き、不自然に強張った指先は、強欲に歪んだ獣のそれだった。彼の脳裏には、正道が落子夜の首に賭けた、気が遠くなるほどの巨額の賞金首の紙面がよぎっているに違いない。


「そこにいるのは誰だ」


 子夜が低く、掠れた声で呟いた。その一言が洞窟の壁に反響した瞬間、宋仁の骨格は跳ね上がるようにして反転し、音を立てて暗闇の奥へと逃げ去っていった。逃げ足だけは一流の軽功。追おうとした子夜だったが、激しく軋む両足の「寒毒」と、左肩の負傷による血気の乱れがそれを拒んだ。無理に動けば、体内の不完全な疑似経絡が破裂する。


「……逃げたか」


 子夜は湾刀の先を床に突き立て、身体を支えた。誰も信じてはならないという「不信不殺(ふしんふさつ)」の掟が、冷たい氷の楔のように、彼の心臓に深く突き刺さる。この地獄の谷において、身内の裏切りこそが最も鋭い牙となるのだ。


 数刻後、骸骨洞の入り口から、風を切り裂くような軽快な足音が近づいてきた。子夜は反射的に湾刀の柄を握り締めたが、絶対骨格感知が捉えたのは、異常に身軽で細身の、見慣れた骨格だった。相棒の風万里(フウ・バンリ)だ。


 しかし、万里の様子は普段の飄々としたものとは違っていた。彼の灰色の長衣は数箇所が裂け、右腕からは薄赤い血が滴っている。


「子夜、無事か! 地獄の底から這い上がってきたと思ったら、とんでもない犬を谷の中で見つけちまったぞ」


 万里は息を荒くしながら、懐から一通の手紙を取り出した。それは、不気味な黒い油紙で厳重に包まれた密書だった。


「これは……?」


「宋仁の奴だ。お前が万毒坑(ばんどくこう)の試練を生き延び、十悪の技を学び始めたことを、外の乾坤剣派(けんこんけんぱ)に知らせようとしてやがった。谷の境界付近で、奴が雇った隠密の連絡員にこの手紙を渡す瞬間を、俺が影から見張ってたんだ。連絡員を仕留めてこれを奪い取る時、乾坤剣派の連中が仕掛けた不気味な仕掛け罠に引っかかっちまってな……少し足止めを食らったが、手紙は死守した」


 子夜は万里から手紙を受け取り、その包みを引き裂いた。中から現れたのは、宋仁の卑屈な筆跡で書かれた密告状――「宋仁の裏切りの密書」だった。そこには、落子夜が生きて悪人谷に潜伏していること、そして十人の怪人から異端の武功を学びつつあることが詳細に記されていた。


 だが、子夜の目を釘付けにしたのは、密書の末尾に捺された、血のように赤い特殊な印章だった。それは、乾坤剣派の内部で裏切り者や大逆人を冷酷に追跡し、処刑を執行する機関――「戒律堂(かいりつどう)」の公式な符牒だった。


「戒律堂……雷烈(ライ・レツ)長老の印か」


 子夜の右手が、怒りでみしみしと音を立てて湾刀の柄を締め上げる。雷烈。かつて陸傲山(リク・ゴウザン)が捏造した「魔道内通」の偽りの証拠を盲信し、落子夜を一族殺しの犯人として破門し、その経脈を無慈悲に破壊して崖から突き落とした張本人である。


「奴らは、俺を殺すだけでは飽き足らず、この悪人谷ごと全てを焼き尽くすつもりだ」


「ああ、この密書が届いてりゃ、今頃谷の入り口は大軍に包囲されてたところだ。だが、問題は宋仁だ」万里は顔をしかめ、自身の傷口を押さえた。「奴は自分が裏切ったことがバレたと気づいている。今、谷の広場で住人どもを集めて、おかしな噂を流し始めてやがるぞ」


「噂?」


「『新参者の落子夜が、外から血雨の恐ろしい刺客を引き込んだ。奴を生かしておけば、悪人谷は正道連盟に滅ぼされる』ってな。住人どもは元々疑心暗鬼の塊だ。宋仁の嘘に煽られて、お前を谷から追い出すか、その場で殺そうって空気が広がり始めてる」


 子夜は目を細めた。宋仁は単に逃げるのではなく、谷の世論を味方につけ、落子夜を「災いをもたらす魔頭」として孤立させることで、自身の保身と裏切りを隠蔽しようとしているのだ。じつに狡猾な、犬の悪あがきだった。


「金算盤(キン・ソロバン)の師父が言っていたな」子夜は冷たく微笑んだ。「『戦いは剣を交える前に決まる。敵が逃げ道を作るなら、その退路の先にあらかじめ底なしの落とし穴を掘っておけ』と」


「おいおい、何か策があるのか? 相手は谷の荒くれ者ども全員だぞ。力任せに暴れりゃ、十悪(じゅうあく)の師匠たちに『調和を乱した』として先に首を撥ねられる」


「力は使わない。宋仁が自分で掘った墓穴に、自ら飛び込んでもらうだけだ」


 子夜は「無影息(むえいそく)」を発動した。呼吸を極限まで下げ、心拍数を周囲の岩肌の微動と同調させる。彼の存在感は一瞬にして消え去り、万里の目の前にいながら、まるで空気の塊のようになった。そのまま、子夜は音もなく骸骨洞を出て、宋仁の住処へと這い寄っていった。


 宋仁の部屋は、谷の北側の湿った岩穴にあった。主が広場で煽動工作を行っているため、内部は無人だった。子夜は幽霊のように侵入し、絶対骨格感知を使いながら壁や床の隙間を探索した。宋仁が隠し持っているはずの「裏切りの証拠」を探すためだ。


 床の不自然な歪みを見抜き、岩を剥がすと、そこから小さな革袋が現れた。袋を開けると、中からずっしりとした重みを持つ金貨が転がり出た。その金貨の表面には、不気味な剣の紋章――乾坤剣派「戒律堂」の刻印が刻まれていた。「宋仁が買収された証拠の金貨」だ。


「裏切りの報酬か。乾坤剣派の犬め、これほどの物証を残しておくとはな」


 子夜は金貨を懐に収め、再び影に紛れて部屋を脱出した。計画の第一段階は完了した。


 谷の中央にある、錆びた武器が乱雑に突き刺さる「剣塚(けんづか)」の広場では、宋仁が数十人の住人たちを前に、唾を飛ばしながら叫んでいた。


「皆、聞くんだ! あの落子夜という小僧が来てから、谷の様子がおかしいと思わないか!? 昨夜も骸骨洞で恐ろしい爆発と悲鳴があった! 奴は外の暗殺組織『血雨』と繋がっている! 奴をこのまま生かしておけば、乾坤剣派の本隊が押し寄せ、俺たちは一人残らず皆殺しだ!」


 住人たちはざわついていた。無法者、流刑者、狂人たち。彼らは元々、正道の力を何よりも恐れている。宋仁の煽動は、彼らの心に巣食う恐怖に油断なく火をつけていた。


「確かに、あの小僧は不気味だ。左腕は石のように灰色だし、血池から這い上がってきた化け物だ」


「宋仁の言う通り、奴を正道に引き渡して、谷の安全を保障してもらうべきじゃないか?」


 住人たちの殺気が、骸骨洞の方向へと向けられようとしたその時。


「その言葉、誰が保証するのだ」


 冷たく、骨の髄まで凍りつかせるような声が、広場の端から響いた。住人たちが一斉に振り返る。


 そこには、長く伸びた黒髪の隙間から、深い緑色に光る瞳を覗かせた落子夜が立っていた。左肩からは黒い血が滴り、右腕には漆黒の湾刀が握られている。その姿はあまりにも禍々しく、近づくだけで周囲の空気が重く沈むようだった。


「落子夜! よくもぬけぬけと現れやがったな!」宋仁は内心の動揺を隠すように、大声を張り上げた。「お前が谷に災いをもたらす魔頭だ! 皆、こいつを捕らえろ!」


 しかし、住人たちは子夜が放つ圧倒的な殺気と、背後に控える風万里の影を見て、一歩を踏み出せない。子夜は感情を一切見せず、ただ冷徹な瞳で宋仁を見つめた。金算盤の「戦術的罠構築法」が、子夜の脳内で完成していく。敵の逃げ道を物理的・精神的に完全に塞ぐための網が、今、引き絞られる。


「宋仁。お前は谷の安全を心配しているのか。それとも、自身の懐にある『正道の金』を守りたいだけなのか」


「な、何を言っていやがる! 俺は谷の皆のために――」


「万里」


 子夜が短く呼ぶと、風万里が不敵な笑みを浮かべて前に出た。その手には、黒い油紙で包まれた一通の手紙と、懐から取り出した数枚の金貨が握られていた。


「皆、これを見てくれ。我が優秀なスパイ、宋仁先生が乾坤剣派の『戒律堂』に宛てて書いたラブレターだ。中身を読めば、誰が本当の裏切り者か、一発でわかるぜ?」


 万里が手紙を高く掲げ、乾坤剣派の公式な赤い印章を住人たちに示した。さらに、子夜が宋仁の部屋から盗み出した、戒律堂の刻印入り金貨を地面に投げ捨てた。金属の鋭い音が広場に響き渡る。


「な……それは……!」


 宋仁の顔から、一瞬にして血の気が引いた。骨格感知の視界の中で、彼の心臓が狂ったように脈打ち、肋骨が激しく震え始めるのが見える。


「悪人谷の掟において、身内を外の正道に売る行為は、最大のタブーのはずだ」子夜の声は、奈落の底から響く風のようだった。「宋仁。お前は乾坤剣派の賞金と『正道の身分』を求め、この谷のすべての住人の位置と、十悪の技の情報を密書に記した。これがお前の言う『皆のため』か?」


 住人たちのざわめきが、一瞬にして静まり返った。その瞳に宿る色が、恐怖から、裏切られた者特有の、獰猛な怒りへと変化していく。


「宋仁……てめえ、俺たちの情報を正道に売ったのか!?」


「違う! これは罠だ! その金貨はこいつらが捏造したもので――」


 宋仁は必死に言い逃れをしようと周囲を見回したが、彼の退路はすでに風万里と、怒りに燃える住人たちによって完全に塞がれていた。彼の骨格は、もはや恐怖でまともに直立することすらできず、がたがたと音を立てて崩れかけている。


 その時、広場の背後にある巨大な石堂――「十悪の祠(じゅうあくのほこら)」の重い扉が、みしみしと不気味な音を立てて開いた。内部から、悪人谷を支配する十人の怪人たちの、圧倒的な覇気が放たれる。


 宋仁の裏切りは、もはや言い逃れのできない事実として、谷の最高意思決定機関である「十悪会議」の前に晒されたのだ。宋仁の身柄は、住人たちによって容赦なく組み伏せられ、地面に押し付けられた。彼の裏切りを100%証明し、その身柄を拘束することに成功した瞬間だった。


 だが、勝利の余韻に浸る時間はなかった。


 宋仁が処刑台へと引きずり出されようとしたその瞬間、谷の入り口を守る下級の住人が、血塗れの身体を引きずりながら広場へと駆け込んできた。その背中には、乾坤剣派の「影追衆(かげついしゅう)」特有の、黒い羽の矢が深く突き刺さっていた。


「……敵襲! 乾坤剣派の追跡隊が、谷の境界の毒霧の死角を突破した! すでに森を取り囲み、この谷を包囲しつつある!」


 その最悪の知らせが響き渡った瞬間、広場全体に、かつてない極限の緊張とプレッシャーが走り抜けた。

HẾT CHƯƠNG

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