闇夜の骸骨洞、見えざる死神
しずく、と冷たい水滴が岩肌を伝い、暗闇の底で硬い音を立てて弾けた。
悪人谷の最深部に位置する「骸骨洞」。そこは陽の光が一切届かず、年中湿った毒水が滴る、文字通りの地獄の底だった。壁には、十人の怪人から落子夜(ラク・シヤ)が叩き込まれた暗殺の極意が、彼自身の血によって生々しく書き殴られている。
その冷え切った洞窟の隅で、子夜は泥を敷いた藁の上に座していた。彼の肉体は今、崩壊の瀬戸際にあった。
万毒坑での苛烈極まる試練を生き延び、体内の血液を猛毒化させる「十悪魔功・第一重」の境界に達した代償は、あまりにも重かった。一時的な五感の喪失。視覚は完全に失われ、世界は漆黒の闇に包まれている。聴覚もまた、厚い真綿を耳に詰められたかのように不鮮明で、ただ心臓の鼓動と水滴の音だけが、頭蓋の奥で鈍く響くのみだった。さらに、万年氷床の冷気によって患った「寒毒」が、凍てつく洞窟の空気と共鳴し、再建途中の足の骨に刺すような激痛をもたらしていた。
(……動くな。今は真気を流転させ、疑似経絡を安定させることだけを考えろ)
子夜は右腕を胸元に当て、必死に呼吸を整えた。左腕は毒蛇の噛み傷と魔功の浸食により、冷たい石のように感覚が麻痺し、だらりと垂れ下がっている。まともに動くのは右腕一本。この状態で襲撃を受ければ、一流の武芸者であってもひとたまりもない。
だが、その「最悪の事態」は、音もなく暗闇から這い寄ってきた。
ひやりとした風の乱れが、子夜の皮膚をかすめた。それは自然の風ではない。気配を極限まで殺した、訓練された暗殺者特有の動的な空気の歪みだった。
(来たか……。陸傲山の猟犬どもめ)
子夜の瞳の奥で、冷徹な殺意が静かに発火した。視覚を失った彼の脳裏に、別の「視界」が立ち上がる。鬼手から叩き込まれた「絶対骨格感知」の起動。疑似経絡に流れる砕骨真気を視神経の代わりに脳の深層へと逆流させると、漆黒の虚無の中に、青白い光を放つ二本の骨格が鮮明に浮かび上がった。
一本は、極めて身軽で無駄のない動きを見せる男の骨格。背中には二本の細い短剣が交差している。暗殺組織「血雨」の刺客、黒影(コクエイ)だ。その髑髏の仮面の奥で、冷酷な眼光が子夜を捉えているのが、骨の傾きだけで理解できた。
もう一本は、しなやかで妖艶な動きを見せる女の骨格。指先には鋭い鋼鉄の爪をはめ、懐に無数の毒薬を忍ばせている。同じく血雨の毒使い、紅葉(モミジ)だった。
二人の一流の刺客は、子夜が万毒坑の試練で満身創痍となり、さらに五感を失って無防備に横たわっていると確信していた。彼らの足取りには、確実な獲物を仕留める直前の、静かな興奮が混ざっている。
シュッ!
先陣を切った黒影が、その手に握られた「吸血短剣」を音もなく放った。光を反射しない漆黒の刃が、子夜の頭部目がけて一直線に飛来する。目も見えず、耳も聞こえぬ凡人であれば、その刃が脳天を貫くまで気づくことすらできなかっただろう。だが、子夜の脳内では、黒影の右腕の骨が回転し、短剣が放たれた瞬間が完璧に視覚化されていた。
(右から斜め下、こめかみを狙っている……!)
子夜は重い黒鉄湾刀を振るう動作をあえて行わなかった。今の身体で大振りの迎撃をすれば、即座に紅葉の追撃を受ける。彼は琴魔から学んだ「心音同調」を発動した。
自身の心臓の鼓動を、接近する黒影の激しく脈打つ心音へと完璧に同期させる。一瞬にして、子夜の存在感が世界から完全に消失した。黒影の感覚において、目の前にいたはずの標的が、まるで最初から存在しなかったかのように、ただの「虚無」へと変化したのだ。
「なっ……!?」
黒影の骨格が一瞬、驚愕によって硬直した。放たれた吸血短剣は、子夜が頭を微かに傾けただけの不気味な動きによってかわされ、背後の岩壁に深く突き刺さった。
「無駄よ! どこに隠れようと、この中では生きられない!」
紅葉が鋭い声を上げ、懐から「紅葉毒煙弾」を床に叩きつけた。瞬間、不気味な赤い毒煙が爆発的に広がり、骸骨洞の狭い空間を即死の毒ガスで満たしていく。吸い込めば数秒で肺が腐り落ちる、血雨特製の猛毒だ。
(毒煙か……。千毒手の万毒坑に比べれば、ただの温い霧に過ぎん)
子夜は避けるどころか、深く息を吸い込み、その赤い毒煙をあえて肺の奥深くへと取り込んだ。激しい腐食痛が気道を襲い、喉の奥から黒い血がせり上がってくる。肺が引き裂かれるような凄惨な負荷。だが、それと同時に、彼の体内に眠る「万毒浸透功」の毒真気が一気に活性化した。吸い込んだ毒を自身の血液と同化させ、魔功の燃料へと変換する禁忌の技。
「十悪魔功・第一重」、その毒血の流転が極限まで加速した。子夜の右腕の血管が青黒く浮き上がり、黒鉄湾刀の刃から、不気味な紫色の血気が立ち上る。
「死ね!」
暗闇から突進してきた黒影が、残る一本の吸血短剣を子夜の胸元へ突き出した。だが、子夜はすでに「絶対骨格感知」によって、黒影の踏み込みの重心を完全に見抜いていた。
子夜は右腕一本で、背中に背負った重い「鉄爺の黒鉄湾刀」を真っ向から振り下ろした。狂屠直伝の「湾刀・断絶斬」。美しさを一切排除し、ただ破壊することだけを追求した、戦場上がりの凄惨な一撃。
キィィィンッ!
金属の砕け散る凄まじい爆音が洞窟内に響き渡った。黒鉄湾刀の圧倒的な質量と砕骨真気の爆発力は、黒影が防御に掲げた吸血短剣を、その刃の半ばから容易に叩き折った。それだけではない。漆黒の刃は、驚愕に目を見開いた黒影の肉体を、髑髏の仮面ごと真っ二つに切り裂いた。
「が、は……!」
黒影の骨格が、左右に分かれて地面へと崩れ落ちる。一撃必殺。暗闇の死闘において、落子夜は完璧な死神と化していた。
「黒影!? 嘘、この廃人が……!」
相棒の死を目の当たりにした紅葉が、半狂乱となって叫んだ。彼女は自身の毒煙が全く効いていない子夜の異様さに恐怖しながらも、生き延びるためにその鋭い鋼鉄の爪を振りかざし、子夜の死角である左側から肉薄した。
シュピシィッ!
紅葉の素早い爪撃が、子夜の左肩を狙う。子夜は「影歩」でかわそうとしたが、感覚の麻痺した左半身の反応が一瞬だけ遅れた。避ける軌道が僅かに狂い、紅葉の鋭い爪が、子夜の左肩の肉を深く削ぎ落とした。
「があっ……!」
肉が引き裂かれ、激しい出血が始まる。だが、子夜の表情には苦痛の色すら浮かばなかった。「無痛の肉体」が作動し、痛みはただの冷たい情報として処理されている。彼はただ、冷徹な瞳で紅葉の骨格を見つめ返した。
「私の爪には即死の神経毒が塗ってあるわ! お前はもう終わりよ!」
紅葉は勝利を確信し、狂気に満ちた笑みを浮かべた。しかし、次の瞬間、彼女の顔から血の気が引いた。
子夜の左肩の傷口から溢れ出たのは、鮮血ではなかった。それは、光を吸い込むかのようにどす黒く、ドロリとした不気味な「黒い血液」だった。
その黒い毒血が、紅葉の鋼鉄の爪に数滴滴り落ちた。瞬間、ジュウ、と肉を焼くような激しい異音が響き渡り、頑丈な鋼鉄の爪が一瞬にして黒く変色し、泥のように溶け始めたのだ。さらに、その毒血から立ち上る黒い霧は、紅葉自身が放った赤い毒煙すらも包み込み、一瞬にして中和、腐食させて消し去っていく。
「な、何よこれ……! 毒が、私の毒が溶かされて……あ、あああああッ!」
紅葉は、自身の指先から伝わってくる、鋼鉄をも溶かす「黒い猛毒」の腐食力に、極限の恐怖を感じて絶叫した。彼女が長年かけて精製してきたあらゆる毒素が、子夜の血液という「最悪の深淵」の前に、ただの水分のように無価値に帰していく。
暗闇の中、白髪の混じり始めた髪を揺らし、右腕一本で黒鉄湾刀を構える落子夜の姿は、もはや人間ではなかった。悪人谷の地獄が産み落とした、正邪の枠を超越した本物の悪鬼が、そこに立っていた。
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