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万毒の地獄、喪失の暗闇

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悪人谷の境界を塞ぐ紫色の濃霧が不自然に渦巻き、引き裂かれた瞬間、落子夜(ラク・シヤ)の背筋を冷たい戦慄が駆け抜けた。風に乗って漂ってきたのは、かつて彼が身を置いていた「乾坤剣派」の弟子たちが好む、安神香の微かな香り。自分を陥れ、一族を虐殺し、この崖底へと突き落とした偽善者たちの影が、すぐそこに迫っている。


「……チッ、乾坤の猟犬どもめ。もうここまで嗅ぎ回ってきたか」


子夜が背中の「鉄爺の黒鉄湾刀」の柄に右手をかけたその時、背後の闇から、乾いた枯れ葉を踏みしめるような不気味な哄笑が響いた。


「ひゃっひゃっひゃ! 威勢が良いな、小僧。だが、その経脈がズタズタに千切れた身体で、どうやって正道の精鋭どもを殺すつもりだ? 三呼吸と持たずに切り刻まれて、犬の餌になるのがオチだよ」


振り返ると、そこには顔の半分が焼けただれ、緑色の毒液が染み出た不気味な衣を纏う老婆――「千毒手」妙姑(ミョウコ)が立っていた。彼女の濁った双眸には、慈悲など微塵もなく、ただ冷酷な観察の光だけが宿っている。


「妙姑……」


「お前を我が『最高傑作』として育てるための最後の試練だ。乾坤の犬どもを噛み殺す牙が欲しいのだろう? ならば、この地獄を生き延びてみせよ!」


妙姑の「千毒手」が、目にも留まらぬ速さで子夜の胸元を突いた。その指先から放たれた痺れ真気が、子夜の疑似経絡を一瞬にして麻痺させる。身体が動かない。妙姑は子夜の襟元を乱暴に掴み上げると、悪人谷の最深部にぽっかりと口を開ける「万毒坑(バンドクコウ)」の縁へと引きずっていった。


眼下に広がるのは、底の見えない不気味な深淵。そこから立ち上る紫色の濃霧は、吸い込むだけで肺を腐食させる即死の毒ガスであり、奈落の底からは、無数の毒蛇や毒蠍が蠢き、擦れ合う不気味な音が響いていた。


「落ちろ、小僧。這い上がって来られたなら、お前の血は本物の猛毒となり、あらゆる正道の真気を腐食させる牙となるだろう!」


無慈悲な突き落とし。子夜の身体は、紫色の毒霧が渦巻く奈落の底へと真っ逆さまに落下していった。


落下の衝撃が、手首や手首の緩んだ関節を直撃し、骨の髄に居座る「寒毒」が暴走を始める。針で刺されたような激痛が全身を走り、子夜は血を吐きながら万毒坑の湿った底へと叩きつけられた。背中に背負った重い「鉄爺の黒鉄湾刀」の質量が、彼の骨折の痛みをさらに倍増させ、泥の中に深く押し潰す。


「ぐ、っ……あ、はっ……!」


「ふふっ、あははは! 乾坤剣派の天才弟子が、こんな泥だらけの屍のように転がり落ちてくるなんてね」


暗闇の奥から、妖艶な紫色のタイトな衣を着た少女――小蛇(ショウジャ)が、不敵な笑みを浮かべて現れた。彼女の首や腕には、無数の小さな緑色の蛇がうごめき、鋭い牙を覗かせている。妙姑の唯一の直伝弟子の座を新参者の子夜に奪われたことに、激しい嫉妬を燃やす彼女は、この好機を逃すはずがなかった。


「お師様の秘伝はお前には過ぎたるもの。ここで私の可愛い子供たちの栄養になりなさい、落子夜!」


小蛇が腰の「碧蛇鞭(へきじゃべん)」を引き抜いた。だが、子夜はそれに応える言葉すら失いつつあった。肺に入り込んだ紫色の猛毒ガスが、彼の気道を焼き、体内の疑似経絡を内側から激しく侵食し始めていたのだ。


そして、その瞬間、最悪の異変が子夜の肉体を襲った。


(視界が……消える……!?)


目の前で不敵に笑う小蛇の姿が、急激に暗転し、完全な漆黒の闇へと沈んでいった。光が、世界から完全に消失する。


焦燥が胸を突いたが、それだけでは終わらなかった。周囲を埋め尽くしていた毒虫のうごめく羽音も、小蛇の嘲笑も、急激に遠ざかり、やがて完全な静寂の中に吸い込まれていく。耳が聞こえない。


最後に、肌に触れる湿った泥の冷たさも、毒が皮膚を焼く業火のような激痛すらも消え去り、全身が氷のような完全な無感覚に包まれた。触覚の喪失。


「千毒手の五感喪失事件」――毒の実験台にされ続けた副作用が、この極限状態において牙を剥いたのだ。視覚、聴覚、触覚の完全な喪失。暗闇、無音、無感覚の虚無の深淵に、落子夜の意識だけがぽつんと取り残された。


(落ち着け……慌てるな。パニックになれば、その瞬間に毒虫に喰い殺されるか、小蛇の鞭に首を撥ねられる。五感が消えたのなら、真気の振動と骨格の響きだけで世界を再構築するまでだ!)


子夜は深く、静かに呼吸を整えた。肺が焼ける感覚すら失われた世界で、彼は脳の視神経の代わりに、疑似経絡の血気を脳の深層へと逆流させた。鬼手(キシュ)から叩き込まれた解剖学の極意、そして「絶対骨格感知(ぜったいこっかくかんち)」の起動。


暗闇の深淵に、一本の光る青白い骨格の線が浮かび上がった。それは自分自身の、ひび割れた肋骨、緩んだ肩関節、そして背中に背負った黒鉄湾刀の輪郭だった。自身の骨格が、真気の流転とともに脳内で完璧に視覚化される。


続いて、周囲の地面が、うごめく無数の微小な関節の光で埋め尽くされた。何万匹もの蠍や蜘蛛、毒蛇の関節が、真気の振動となって子夜の脳内に「見えて」くる。


そして、前方に、しなやかで、蛇のようにうねる人間の骨格が浮かび上がった。小蛇だ。彼女の右肩の関節が大きく回転し、肘が鋭く伸びる。鞭を振るう予備動作。彼女が放った碧蛇鞭が、空気を切り裂いて迫ってくる軌跡が、絶対骨格感知の光る線となって脳内に投影された。


(右から斜め下、喉元を狙っている……!)


子夜は耳も聞こえず、風圧すら皮膚で感じられない。しかし、絶対骨格感知が描く「骨の動き」から、鞭の打撃点を完全に先読みした。


彼は重い湾刀を振るう余裕はないと判断し、自ら右肩の関節を瞬時に外す「骨外し」の身のこなしを敢行。身体の重心を不気味な角度で滑り込ませ、地面へと滑り落ちるようにして鞭の軌道から身をかわした。


冷酷な鞭が、彼の頭上を一寸の狂いもなく掠めていく。小蛇の骨格が、驚愕によって一瞬だけ硬直した。予測不可能な回避に、彼女の経絡の真気が乱れたのだ。


子夜はその一瞬の隙を逃さなかった。「影歩」の靴で無音のまま踏み込み、懐から鬼手から奪い取った「骨医の黒鋼解剖針」を抜き放つ。絶対骨格感知が、小蛇の首元の第一頸椎の隙間を、完璧な「光る点」として捉えていた。


シュッ!


子夜の右手が、暗闇の中で寸分の狂いもなくその隙間に黒鋼針を突き刺した。小蛇の骨格が、糸の切れた人形のように崩れ落ち、泥の中に沈んでいく。


彼女を無力化したものの、子夜の体内の血液は今も万毒液と同化し、どす黒い猛毒へと変貌を遂げつつあった。完全な静寂と暗闇の底で、落子夜の右腕の血管が青黒く脈打ち始める。彼の心眼は、深淵のさらに奥を見据えていた。

HẾT CHƯƠNG

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