沈黙の黒鉄、影を歩む盗賊
熱波が、肺腑を直接焼き焦がすかのように襲いかかってきた。
悪人谷の最深部に位置する「鉄爺の鍛冶場」は、常に赤い火の粉と、重い鉄槌の爆音が支配する狂気の空間だった。硫黄と石炭の焦げた匂いが立ち込め、ただ立っているだけでも皮膚がじりじりと焼かれていく。だが、骨医の解剖室から這い出てきたばかりの落子夜(ラク・シヤ)の身体にとっては、その凶暴な熱気すら、骨の髄に居座る「寒毒」を一時的に和らげる唯一の救いだった。
「……ふぅ、っ……」
子夜は壁に背を預け、荒い呼吸を整えようとした。関節を強引に外して鉄鎖を抜けた手首と右肩は、鬼手(キシュ)の施術によって元の位置に嵌め直されてはいたものの、靭帯は伸びきり、不自然に緩んでいた。一歩動くたびに、骨格の隙間で関節が微細にずれ、鋭い摩擦痛が走る。さらに、万年氷床の冷気がもたらす「寒毒」が両足の骨に深く染み込んでおり、熱い炉の前にいてもなお、膝から下は凍りついたように冷たく、感覚が鈍かった。
炉の前に、岩のようにそびえ立つ大男の背中があった。上半身は火傷の痕と鋼のような筋肉の塊で覆われ、煤で黒光りしている。耳の聞こえぬ老鍛冶屋・鉄爺(テツ・ジイ)だ。鉄爺は、子夜が近づいた気配を察知したのか、あるいは床を伝う微細な骨の軋みを足裏で感じ取ったのか、叩いていた槌をぴたりと止めた。
ゆっくりと振り返った鉄爺の顔には、何の表情もなかった。だが、その深く落ち窪んだ両眸が子夜の顔を捉えた瞬間、その奥に宿る「傲骨」の炎――乾坤剣派に裏切られ、すべてを奪われながらも、地獄の底から這い上がってきた落家の生き残りだけが持つ、黒く燃え盛る憎悪の瞳をじっと見つめた。
鉄爺は言葉を発しない。ただ、炉の傍らに置かれた、濡れた油布に包まれた「何か」を無造作に掴み上げると、それを子夜の前に突き出した。
「これは……」
子夜が差し出されたものを受け取ると、ずっしりとした異様な質量が両腕にのしかかった。緩んだ手首の関節が悲鳴を上げ、鋭い痛みが走る。子夜は本能的に「砕骨血功・初期」の真気を流転させ、骨と筋肉の隙間に血気を強制的に通して腕の強度を補強した。
布を払うと、そこから現れたのは、光を一切反射しない漆黒の刃だった。
「鉄爺の黒鉄湾刀」。悪人谷の冷たい地底から採掘された玄鉄を用い、鉄爺が数百回に及ぶ鍛錬を重ねて鍛え上げた一振りだ。刀身は一般的な直剣よりも大きく湾曲し、美しさや装飾を一切排した、ただ敵の武器を叩き折り、肉を削ぎ落とすことだけに特化した実戦仕様の凶器。刃の表面は煤けたように黒く、光を当てても、その輝きをすべて吸い込むかのように暗闇に沈んでいる。
子夜がその湾刀の柄を握り締めると、緩んだ指先が微かに震えた。重い。通常の乾坤剣派の長剣の倍以上の重量がある。経脈が断裂した今の身体では、ただ構えるだけでも全身の疑似経絡が引き裂かれるような負荷がかかる。だが、その冷たい黒鉄の肌触りは、子夜の心に宿る復讐の意志そのもののように冷徹で、強固だった。
「……感謝する、鉄爺」
子夜が短く囁くと、鉄爺はただ一度、重く頷き、再び炉に向き直って槌を振り下ろした。言葉はなくとも、その背中は「この牙で、すべての仇を切り裂け」と語っているようだった。
「ほう、素晴らしい鉄の匂いだな。だが、そんな重い鉄屑を背負って、どうやって影の中を歩くつもりだ?」
突如として、鍛冶場の入り口の影から、風を切り裂くような軽快な声が響いた。驚くべきことに、子夜の「絶対骨格感知」すらその接近を捉えていなかった。振り返ると、そこには薄汚れた灰色の長衣を纏い、飄々とした笑みを浮かべた細身の青年――風万里(フウ・バンリ)と、その背後に立つ、気配が完全に虚無に等しい老人が立っていた。
その老人こそ、悪人谷の十人の怪人の一人であり、軽功の伝説と謳われる「無影盗」風無痕(フウ・ムホン)だった。風無痕の佇まいは異様だった。白日の下に立っていながら、まるでそこに空気が存在しないかのように、存在感が完全に希薄なのだ。
「鬼手の解剖台から這い出たばかりの小僧が、これほど重い湾刀を握るとはな」風無痕の濁った双眸が、子夜の足元を鋭く射抜いた。「手首は緩み、両足には寒毒が巣食っている。その状態で一歩歩けば、悪人谷の住人どもには百里先からでも足音が聞こえるぞ」
「……ならば、どうすればいい」子夜は湾刀を背中に背負い直し、冷たく問い返した。
「盗賊や暗殺者にとって、音を立てることは死を意味する。ましてや、その重い湾刀を背負っているならなおさらだ」風無痕は一歩、音もなく踏み出した。砂地を踏んでいるにもかかわらず、一粒の砂利すら鳴らない。「軽功とは、ただ真気で身体を浮かせる技術ではない。地面との摩擦を物理的に逃がし、風の抵抗を骨格の角度で受け流すのだ。我が絶技『影歩(えいほ)』の基本を教えてやる。万里、手本を見せてやれ」
「へへっ、任せてよ、師父」
風万里が不敵に笑うと、次の瞬間、彼の姿がブレた。音もなく、文字通り影が滑るようにして、彼は鍛冶場の熱い鉄板の上を疾走した。火の粉が舞い散る中、彼の足裏が鉄板に触れる瞬間、何の打撃音も、衣擦れの音すらもしない。
「足の裏の筋肉を微細に収縮させ、着地の衝撃を関節のクッションで100%吸収するのだ」風無痕が冷酷に指示を出す。「お前の緩んだ関節は、一見弱点に見えるが、衝撃を逃がすためには最適な『遊び』となる。疑似経絡の真気を通し、骨の噛み合わせをミリ単位で制御しろ。万里を追え。谷の闇を走り抜けるのだ」
「……くっ!」
子夜は奥歯を噛み締め、鍛冶場から飛び出した。悪人谷の冷たい夜霧が、彼の皮膚を突き刺す。足を踏み出した瞬間、背負った黒鉄湾刀の重量が容赦なく腰と両足にのしかかった。
最初の跳躍。子夜が岩を蹴って跳んだ瞬間、背中の湾刀の重心が後ろに傾き、着地の体勢が崩れた。ドサリ、という重い着地音が霧の中に響き、足元の小石が鋭く鳴り響いた。
「あちゃあ、そんなに大きな音を立てたら、一瞬で首を撥ねられちゃうよ?」前方を走る風万里が、振り返りながらからかうように笑う。
着地の衝撃が、緩んだ足首と膝の関節を直撃し、骨の奥に染み込んだ「寒毒」が暴走を始めた。針で刺されたような激痛が走り、子夜の顔が苦痛に歪む。だが、彼は立ち止まらなかった。脳内で鬼手の「骨肉解剖法」を再生する。自分の骨格の歪み、関節の可動域を客観視し、湾刀の重量がどの骨にのしかかっているかをミリ単位で分析した。
(真気で無理やり支えるのではない。湾刀の重心を背骨の直上に固定し、風の抵抗を逃がす角度で上体を傾ける。着地の瞬間、足裏の真気をクッションのように放出し、関節をわざと緩めて衝撃を滑らせる……!)
二回目の跳躍。子夜は「無影息」を発動し、自身の呼吸音と心音を周囲の風のざわめきと同調させた。着地の瞬間、足裏の筋肉を極限まで収縮させ、衝撃を膝と腰の緩んだ関節で不気味に逃がす。
サッ。
今度は、湿った土を踏む微かな衣擦れの音しかしなかった。風万里の瞳に、驚きの色が浮かぶ。
「へえ……一回でコツを掴むなんて、本当に化け物だね」
「まだだ……!」
子夜は疑似経絡の血気をさらに燃え立たせた。ふくらはぎの筋肉が微細に断裂し、足裏の皮膚が摩擦で剥がれる痛みが襲うが、「無痛の肉体」でその痛みを冷徹に遮断する。重い黒鉄湾刀を背負いながら、極限の軽さを維持するという、肉体の二律背反の制御。骨格の隙間を滑るように走る感覚が、次第に彼の血肉へと溶け込んでいく。木の葉の上を走っても、一滴の露すら落とさない領域を目指し、二つの影は谷の闇を音もなく疾走し続けた。
しかし、風万里との影歩の競走が境界線に近づいたその時だった。
悪人谷の入り口を塞ぐ、吸い込めば数歩で肺が腐るという猛毒の霧――「毒霧の境界」が、不自然に揺らめいた。風の流れが急激に変わり、紫色の濃霧が渦を巻くようにして引き裂かれていく。
風万里がぴたりと足を止め、その飄々とした笑みを一瞬にして消し去った。彼の目元が、野獣のような鋭い警戒の光を帯びる。
「……子夜、止まれ。風向きがおかしい」
子夜もまた、背中の黒鉄湾刀の柄に右手をかけ、低く身を潜めた。冷たい風に乗って、悪人谷の腐敗臭とは異なる、極めて洗練された、しかし冷酷な匂いが漂ってきた。それは、かつて彼が身を置いていた場所の匂い――乾坤剣派の弟子たちが好んで用いる、安神香の微かな香りだった。
霧の向こう、境界線の崖の上に、いくつかの不気味な影が音もなく並び立つのを、子夜の鋭い双眸が捉えた。外の世界からの「招かれざる客」が、悪人谷の境界に静かに迫っていた。
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