解剖台の講義、骨を外す脱出
肩の骨が、ゴキリと鈍い音を立てて、本来あり得ない方向へと滑り落ちた。蛇蠍(ジャカツ)の棘付き鉄鞭が首からずるりと抜け落ちた瞬間、落子夜(ラク・シヤ)を支えていた「無痛の肉体」の効力が、砂の城が崩れるように消え去った。
「が、はっ……!」
喉の奥から、肺を焼き尽くすような血の泡が吹き出す。遮断されていた数倍の激痛が、津波となって神経を蹂躙した。全身の裂傷から血が噴き出し、自ら脱臼させた右肩からは、肉を引き裂くような激痛が脳髄を直撃する。子夜は泥の中に倒れ込み、激しく痙攣した。視界が急速に狭まり、意識の輪郭が溶けていく。
その時、ぬらりとした冷たい影が、彼を冷酷に見下ろした。
「ほう、力任せではなく、骨格の隙間を滑らせて拘束を抜けたか。実に見事な『素材』だ」
現れたのは、顔の半分を不気味な青白い仮面で覆い、全身から死臭と薬草の匂いを漂わせた男――十悪の一人、「骨医」鬼手(キシュ)であった。鬼手は、瀕死の子夜の襟元を、細く冷たい指先で無造作に掴んだ。まるで屠殺場へ運ぶ豚の死体を引きずるように、鬼手は子夜の身体を引きずり始める。引きずられるたびに、砕けた骨が擦れ合い、子夜の意識は激痛によって強制的に覚醒させられた。
たどり着いたのは、悪人谷の最深部に近い「骨医の解剖室」であった。
湿った空気の中に、濃厚な錆と腐敗、そして強い酢と防腐薬の匂いが充満している。壁一面には、人間や様々な獣の不気味な骨格標本が整然と並び、棚には鋭く研ぎ澄まされたメスや鋸、そして無数の「骨医の黒鋼解剖針」が怪しい光を放っていた。部屋の中央には、万年氷床から切り出されたかのような、極冷の鉄製解剖台が鎮座している。
「乗れ。いや、すでに自力では動けぬか」
鬼手は子夜を冷たい解剖台の上に投げ出した。極冷の鉄板が背中に触れた瞬間、子夜の体内の寒毒が暴走し、全身の骨が激しく軋んだ。ガチャン、ガチャン。重い鉄鎖が子夜の両手首、両足首、そして首元に容赦なく巻き付けられ、台へと完全に固定された。
「さて、講義を始めよう。今日の主題は『骨肉解剖法』。そしてお前に課す試験は『骨外し脱出』だ」
鬼手は冷酷な目で子夜を見つめ、細長い指先で一本の極細の「黒鋼解剖針」を弄んだ。麻酔などという慈悲深いものは、この悪人谷には存在しない。
「人間の身体には二百六本の骨がある。それらを繋ぐ関節、筋肉、そして靭帯の結合構造を完璧に理解せねば、お前はただの壊れやすい肉の塊に過ぎん」
鬼手は子夜の右肩の脱臼した部位に、躊躇なく指を突き立てた。
「ぐあああああッ!」
子夜の口から、肺を裂くような絶叫が迸る。だが、鬼手は表情一つ変えず、その指先で砕けた骨の破片を弄ぶように動かした。
「叫ぶな。耳障りだ。脳の神経を尖らせ、私の指先が触れている『骨の境界』を感じろ。鎖骨と肩甲骨の隙間、烏口突起の直下……ここが関節の鍵だ。疑似経絡の血気をここへ集中させろ」
鬼手の声は冷徹な氷のようだった。子夜は涙と冷や汗で視界を滲ませながら、必死に理性を保とうとした。ここで死ねば、沈瑶を救うことも、陸傲山に一族の無念を晴らすこともできぬ。子夜は「砕骨血功・初期」の真気を稼働させた。断裂した経脈の代わりに、骨と筋肉の隙間に無理やり血気を通す。
「いいぞ。その血気で、関節を包む靭帯を緩めろ。骨格の結合を脳内で視覚化するのだ。力で鎖を引きちぎろうとするな。骨を『滑らせる』のだ」
鬼手は「黒鋼解剖針」を子夜の左手首の隙間に突き刺した。針が神経を刺激し、指先が不自然に跳ね上がる。
「まずは左手首からだ。やってみろ。できねば、お前の左腕を肩から切り落とし、私の標本にする」
子夜は息を荒くしながら、左手首の鉄鎖を見つめた。焦りが子夜の判断を狂わせた。彼は角度を正確に計算せぬまま、疑似経絡の真気を手首に急激に流し込み、強引に骨をねじ曲げようとした。
ゴキリッ!
「がはっ……!」
鈍い破裂音とともに、手首の骨が鉄輪の内側に激しく衝突した。不正確な角度で骨がロックされ、鋭い破片が肉の内側を突き破る。激しい内出血が発生し、左手首が紫色のあざとなって急速に腫れ上がった。凄まじい激痛が子夜の脳を襲い、意識が遠のきかける。
「愚か者め」
鬼手は冷酷に吐き捨て、その腫れ上がった手首に、さらに深く解剖針を突き刺した。
「骨の構造を無視した。角度が僅かに外れれば、骨はただの楔となって自らを破壊する。靭帯の弾性を利用し、橈骨と尺骨の隙間を狭め、手のひらの幅を物理的に縮小させるのだ。もう一度やれ。次は容赦なくメスを入れる」
死の圧力が、子夜の冷徹な知性を極限まで研ぎ澄まさせた。彼は激痛を単なる「肉体の損傷情報」として脳内で処理し、再び「無痛の肉体」の精神障壁を構築した。痛みを排除し、意識のすべてを左手首の骨格へと集中させる。脳裏に、鬼手が示した骨格の図が鮮明に浮かび上がった。
橈骨と尺骨。その二本の骨が交差する隙間に、疑似経絡の真気をミリ単位で流し込む。血気によって筋肉を極限まで収縮させ、靭帯をゴムのように伸ばす。
(ここだ。この角度で、手根骨を一つずつ折りたたむように滑らせる……!)
ぬるり。
異様な感覚とともに、子夜の左手根骨が収縮し、鉄輪の隙間を音もなくすり抜けた。
「……抜けたか」
鬼手の目が、微かに見開かれた。
だが、子夜は止まらない。彼は引き抜いた左腕の関節を、筋肉の急激な収縮だけで一瞬にして元の位置に嵌め直した。ガキッ、と鈍い音がして、左手首が元の形状に戻る。続いて、右肩。脱臼したままの右肩の隙間に真気を集中させ、鎖骨のロックを解除する。さらに肘、手首。
全身の関節を外すたびに、凄まじい摩擦と肉の裂けるような痛みが走るが、子夜の表情は凍りついたように動かない。彼の疑似経絡は、激痛と真気の過剰運用により、すでに悲鳴を上げていた。手首や肩の関節は恒久的に緩み、冷気を受けるたびに指先が震えるという後遺症が、彼の肉体に深く刻まれていく。しかし、その代償と引き換えに、彼は物理法則を裏切る「骨外し脱出」の極意を、その血と骨に刻み込んだのだ。
ガチャン、ガチャン、ガチャン。
重い鉄鎖が、何の中身も持たないただの金属の輪として、冷たい解剖台の上に虚しく崩れ落ちた。
鬼手は、机の上の薬液を調合しながら、子夜のいるはずの解剖台へと振り返った。だが、そこには白く冷たい鉄板があるだけで、鎖に繋がれていたはずの少年の姿は消え失せていた。
「……ほう?」
鬼手が驚嘆とも不気味な歓喜とも取れる声を漏らした瞬間。彼の背後の影から、音もなく冷たい気配が立ち上った。
「骨肉解剖法――確かに、受け取った」
耳元で囁かれた、死神のように冷徹な声。鬼手が目を見開いた時、彼の喉元には、落子夜の細い指先に挟まれた、一本の極細の「黒鋼解剖針」が、寸分の狂いもなく突き立てられていた。
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