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毒霧の森の追跡劇

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燃え盛る悪人谷を背に、落子夜と風万里は、不気味にねじ曲がった樹木が暗闇の中に立ち並ぶ「毒霧の森」へと逃げ込んだ。背後では、正道が放った紅蓮の炎が天を焦がし、谷の住人たちの悲鳴が毒霧を震わせている。だが、子夜に立ち止まる余裕はなかった。


「はっ、はっ……くっ……」


 一歩を踏み出すたびに、全身の疑似経絡が焼け付くように熱を帯び、内臓を締め上げる。祠での「血誓の儀」を経て「砕骨血功・後期」へと急激に移行した代償は、あまりにも過酷だった。頭髪の半分は雪のように白く染まり、体内の血気は制御を失いかけて暴走している。何より、完全に感覚を失った左腕は、引き裂いた黒い布で胴体に硬く縛り付けられたまま、ただの重荷と化していた。重い「鉄爺の黒鉄湾刀」を握る右腕だけが、彼の唯一の牙だった。


「子夜、休むな! 奴らの足音がすぐ後ろまで迫ってやがる!」


 前方を走る風万里が、かすれた声で警告する。彼の右腕からも仕掛け罠で負った傷から血が滴っていたが、その身のこなしは未だ軽快だった。しかし、彼らの背後から忍び寄る影は、これまでの雑兵とは格が違っていた。乾坤剣派の最精鋭追跡部隊「影追衆」を率いる冷徹な隊長、冷面剣客である。


 チリリリリン――。


 霧の奥から、不気味に澄んだ金属音が響き渡った。影追衆が携える「追魂鈴(ついこんれい)」の音だ。標的の血の匂いや微かな血気の揺らぎを感知して鳴るその鈴の音は、確実に子夜たちの位置を絞り込みつつあった。このまま走り続ければ、毒霧の森を抜ける前に背後から一網打尽にされるのは明白だった。


「チッ、あの鈴め……完全に俺たちの血の匂いを嗅ぎつけてやがる」


 万里が足を止め、木陰に身を潜めながら吐き捨てた。子夜もまた、巨木の根元に背を預け、荒い呼吸を押し殺す。夜の冷気が森を満たすにつれ、万年氷床の冷気がもたらした「寒毒」が両足の骨の髄で暴走を始め、みしみしと激しい鈍痛が走る。「無痛の肉体」の呼吸法で痛覚を遮断してはいるが、筋肉の硬直までは防ぎきれない。


「万里……このままでは、二人とも追いつかれる」


 子夜は黒く変色した血が混じる唾を吐き出し、冷徹な双眸を万里に向けた。その瞳の奥には、不気味な緑色の光が宿っている。


「俺が奴らを引き付ける」と万里が不敵に笑った。「俺の『無影歩』なら、この森の複雑な地形を利用して半分は撒ける。子夜、お前は無影息で気配を消し、死角から残りの奴らを仕留めろ。正面から大軍と打ち合えば、お前の身体が先に自壊するぞ」


 子夜は無言で頷いた。身代わり人形を失った今、敵の強力な乾坤剣気を直接浴びれば、二度目の奇跡は起きない。生き延びるためには、悪人の泥臭い生存術に頼るしかなかった。


「合図をしたら動け」


 万里はそう言い残すと、わざと激しく足元の落ち葉を踏み鳴らし、逆方向の闇へと疾走した。その不自然な音に反応し、追魂鈴の音が急激に万里の方向へと遠ざかっていく。影追衆の約半数が、彼の残した偽の足跡に釣られて移動したのだ。


(今だ……)


 子夜は深く息を吸い込み、風無痕から授かった「無影息」を発動した。体内の真気の流転を極限まで遅くし、肺の活動を一時的に停止させる。自身の呼吸と心音を、森を吹き抜ける風のざわめきと同調させ、世界から存在を完全に消し去る技術。同時に、疑似経絡の血気を胸の中央に集め、暴走しがちな魔功の熱を抑え込む。


 だが、その代償はすぐに現れた。呼吸を止めたことで、肺の中に毒霧の微量な毒素と自身の毒血が鬱血し、胸が張り裂けんばかりに痛む。さらに、足を襲う寒毒の鈍痛が、彼の動きを鈍らせようと執拗に骨を蝕んでいく。


 ガサリ。


 子夜が「影歩」の軽功を使い、音もなく頭上の太い枝へと跳躍しようとした瞬間、左足の骨のひび割れに激痛が走り、着地が一寸だけ乱れた。濡れた木の葉が、微かに不自然な音を立てて擦れ合う。


「誰かいるぞ! そこだ、射て!」


 霧の向こうから鋭い叫び声が上がり、間髪入れずに無数の火矢が子夜のいた場所を貫いた。炎が周囲の毒霧を照らし出し、子夜は間一髪で地面を転がって直撃を避けたが、肺の鬱血が限界に達し、喉の奥から黒い血が込み上げてくる。それを強引に飲み込み、再び「無影息」を維持して巨木の影へと滑り込んだ。


 追魂鈴の音が、すぐ近くまで迫っていた。草木をかき分ける足音が二つ、子夜の潜む巨木のすぐ横を通り過ぎようとする。彼らの全身を包む白い麻布と、乾坤剣派の洗練された剣が、炎の残光に照らされていた。


(絶対骨格感知……)


 子夜は瞳を閉じ、脳内に周囲の光景を再生した。暗闇と毒霧の向こう、接近する二人の兵士の骨格が、光る線となって鮮明に浮かび上がる。彼らの呼吸の乱れ、関節の動き、そして首元の防具の僅かな隙間。すべてが、子夜の心眼に視認されていた。


 彼らが巨木の影を覗き込もうとしたその一瞬、子夜は音もなく背後から接近した。右手の指先に挟まれていたのは、骨医から強奪した二本の極細の「黒鋼解剖針」だった。


 シュッ、シュッ!


 風を切り裂く微かな音すら立てず、黒い針が二人の第一頸椎の隙間に正確に突き刺さった。真気の流れを遮断され、全身の運動神経を瞬時に麻痺させられた二人の兵士は、悲鳴を上げる声を出すことすらできず、ただ目を見開いたまま泥の上に崩れ落ちた。落子夜は彼らが地面に倒れる物理的な音すら、自身の身体で受け止めて消し去った。


「ふぅ……はぁ……」


 針を回収し、再び闇に溶け込もうとしたその時、子夜は肺の激しい鬱血に耐えかねて、膝を突き、黒い血を地面に吐き出した。疑似経絡の自壊作用による激痛が、全身の骨を内側から破壊しようと軋んでいる。寿命が削り取られていく感覚が、彼の背筋を凍らせた。だが、その瞳に宿る緑色の復讐の炎は、より一層深く燃え上がっていた。


 万里が追っ手の半数を引き連れて戻ってくる気配が、絶対骨格感知の視界の端に映る。彼らは先遣隊を撒くことには成功した。しかし、毒霧の森の出口は、もう目と鼻の先であるにもかかわらず、そこから漂ってくる空気は異様だった。


 急激な温度の低下。周囲の緑色の毒霧が、不自然に凍りつき、キラキラと輝く霜となって地面に落ちていく。


 キィィィン――。


 張り詰めた空気を切り裂くように、極冷の剣気が森の出口を完全に封鎖した。凍てつく霧の向こう、冷心の「寒霜剣」が放つ青白い光が、落子夜の白髪混じりの横顔を冷酷に照らし出した。

HẾT CHƯƠNG

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