絶望の氷床と這いずる屍
骨が軋む。いや、体内のすべての骨が、肉の内側で粉々に砕け散っているかのようだった。
「……が、はっ……!」
落子夜(ラク・シヤ)は口から黒い血を吐き出した。その血は、彼が横たわる白銀の床に触れた瞬間、ジュッと音を立てて凍りつく。周囲を支配するのは、皮膚を刃物で削ぎ落とすような極冷の空気。四方を天を突くほどの絶壁に囲まれ、年中、吸い込めば肺が腐る毒霧が立ち込める奈落の底――ここは、武林の光から見捨てられた大悪党どもの流刑地「悪人谷(アクニンガト)」の最深部だった。
子夜が倒れているのは、その谷底に眠る古代の巨大な氷塊「万年氷床(マンネンヒョウショウ)」の上だった。崖の上から突き落とされた衝撃で、彼の肉体はとうに限界を迎えていた。だが、皮肉にもこの氷床が放つ異常な冷気が、彼の全身の傷口を瞬時に凍らせ、出血死を免れさせていた。しかし、それは一時的な猶予に過ぎない。冷気は傷を塞ぐと同時に、凍てつく針のように彼の肉体の奥深くへと侵入し、断裂した経脈を内側から急速に壊死させていた。
(動け……動いてくれ、俺の身体……!)
子夜は泥水をすするような絶望の中で、必死に指先に力を込めようとした。だが、脳からの命令はどこかで完全に遮断され、指一本震わせることすらできない。全身の主要な経脈がズタズタに引き裂かれた「経脈断絶(はいじん)」の状態。それが、今の彼の現実だった。
脳裏に、あの忌まわしい夜の光景が過る。
燃え盛る落家の屋敷。血の海に倒れた父、母、そして幼い妹の悲鳴。その炎の前で、乾坤剣派の豪華な金糸の道着を纏い、傲慢な笑みを浮かべていた男――元兄弟子の陸傲山(リク・ゴウザン)。
『お前の才能が、目障りだったのだよ、子夜。魔道と内通した大逆人の汚名を背負い、泥の中で朽ち果てるがいい』
陸傲山の冷酷な声と、落家の家宝である「傲骨古剣」が放つ冷たい輝き。信じていた正道門派の裏切り。子夜は魔道内通の濡れ衣を着せられ、すべての内功を廃された上で、この悪人谷の絶壁から突き落とされたのだ。
「う、あ……あ、あ……!」
怒りと憎悪が、子夜の凍りついた胸の奥で爆発した。彼は乾坤剣派の正統な内功「乾坤正宗内功」を体内で流転させ、自力で立ち上がろうと試みた。しかし、気の通り道である経脈が完全に寸断されている肉体で内功を動かそうとした代償は、凄惨なものだった。
「がはっ……!」
気の暴走により、全身の血管が引き裂かれるような激痛が走り、子夜はさらに激しく喀血した。意識が急速に遠のいていく。極冷の冷気が肺の奥まで侵入し、呼吸をするたびに喉が凍りつく。数分以内に誰の救助も得られなければ、彼はこのまま氷の彫刻となり、永遠の死を迎えることになる。
死の恐怖が、冷たい霧のように彼を包み込もうとしたその時。
ザッ、ザッ、と雪を踏みしめる重い足音が近づいてきた。
子夜の薄れゆく視界に映ったのは、上半身を剥き出しにし、火傷と鋼のような筋肉の塊で覆われた大男の姿だった。男は煤と汗で黒光りしており、その手には巨大な鉄のハンマーが握られている。悪人谷の片隅で壊れた武器を修理している、耳の聞こえぬ老鍛冶屋・鉄爺(テツ・ジイ)だった。
鉄爺は言葉を一切発しない。感情の消えた無表情な顔で、地面に転がる子夜を見下ろした。その瞳には、かつて子夜の父である落蒼天に命を救われた者だけが持つ、奇妙な光が宿っていた。
鉄爺は無造作に屈むと、子夜の襟元を頑丈な片手で掴み上げた。まるで屠殺された獣の死体でも運ぶかのように、子夜の身体を引きずり始める。引きずられるたびに、砕けた骨が擦れ合い、子夜の口から声にならない悲鳴が漏れた。だが、鉄爺の手からは微かに熱い真気――「烈火内功」が流れ込み、子夜の心臓が完全に凍りつくのを防いでいた。鉄爺は、悪人谷を包む猛毒の霧を避ける確実なルートを選びながら、子夜を谷の深部へと運んでいく。
たどり着いたのは、血生臭い匂いと、仏法の厳かな雰囲気が奇妙に混ざり合う薄暗い洞窟だった。
鉄爺は子夜を冷たい岩の床の上に放り投げた。衝撃で再び喀血する子夜の前に、一人の大男が影を落とした。
その男は、破れた法衣を纏い、首には人間の頭蓋骨を繋ぎ合わせた不気味な数珠をかけていた。顔の半分は影に隠れているが、剥き出しの片目は狂気と冷徹な知性を湛えている。元高僧でありながら、殺生を極めて悪人谷に逃げ込んできた怪人――「魔僧」空寂(クウジャク)だった。
「ほう……乾坤剣派の天才が、これほど無残なゴミ屑になるとはな」
空寂の声は、洞窟の壁に反響して子夜の耳膜を震わせた。空寂は一歩近づくと、容赦なくその太い足で子夜の胸を踏みつけた。
「ぐっ、う……!」
「経脈はズタズタ、骨は粉々。正道の温い内功など、一滴も残っておらん。鉄爺、なぜこのような死に損ないをここに連れてきた?」
鉄爺は何も答えず、ただ黙って背を向け、自身のハンマーを弄び始めた。
空寂は冷笑を浮かべ、踏みつけた足から不気味な黒い真気――魔道の内功圧力を子夜の体内に流し込んだ。それは温かい救済などでは決してない。子夜の体内の壊死しかけた組織を物理的に破壊し、その「生の執念」がどれほどのものかを冷酷に測定するための破壊的な検査だった。
「あ、がああああ!」
子夜は絶叫した。体内に流れ込んできた魔道の気が、寸断された経脈の端々を焼き焦がしていく。激痛で狂いそうになりながらも、子夜は空寂の法衣の裾を、動かないはずの右手の指先で泥臭く掴み取った。彼の瞳には、痛みの涙ではなく、陸傲山への、そして偽善に満ちた乾坤剣派への、地獄の底から湧き上がるような黒い憎悪の炎が燃え盛っていた。
「殺す……陸傲山を……絶対に、殺す……!」
その言葉を聞いた瞬間、空寂の狂気に満ちた瞳が、不気味な歓喜に細められた。
「素晴らしい。その憎悪、その執念こそが、悪人谷の最高の苗床だ」
空寂は足を退けると、子夜の前にしゃがみ込み、その耳元で悪魔のようなささやきを吐き出した。
「お前に道を示してやろう、這いずる屍よ。正道の温い経脈が失われたのなら、自らの骨をすべて砕き、その骨の髄と筋肉の隙間に無理やり血気を通すのだ。我が秘伝『経脈再結合の血功』――ただし、その修練は毎晩、骨を自ら鉄槌で砕かれるような地獄の激痛を伴う。耐えられねば精神が崩壊して死ぬだけだ。一晩やる。死ぬか、悪鬼として這い上がるか、自らの意志で決めよ」
空寂が立ち上がり、洞窟の奥へと消えていく。残された子夜は、ただ一人、冷たい床の上で激痛に震えながら、生の選択を突きつけられていた。
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