隣室からの足音
旧写真部の暗室は、外界の喧騒から切り離された、宮本瞬にとって唯一のシェルターだった。
現像液と定着液、そしてわずかな酢酸の匂いが染みついた重苦しい空気。天井から吊り下げられた電球が放つ、赤い安全灯の微光だけが、壁に貼られた古い印画紙や棚に並んだ薬品瓶をぼんやりと浮かび上がらせている。瞬は自作PCの前に座り、液晶ペンタブレットのペンを握り直した。長時間のレタッチ作業による眼精疲労で、眼鏡の奥の瞳がじりじりと熱い。
――トントン、と、控えめだが確かな足音が、木造の古い床板を鳴らして近づいてきた。
引き戸が静かに開き、暗室の二重カーテンが揺れる。入ってきたのは、有村あかりだった。少し癖のある黒髪のショートボブを揺らし、大きめの制服の袖を少し余らせた彼女の表情には、これまでの不登校気味だった陰りは一切なかった。
「宮本先輩!」
あかりの声は、暗室の静寂を優しく弾くように明るかった。彼女はカバンを丸椅子の上に置くと、瞬のデスクの脇まで歩み寄り、両手を合わせて頭を下げた。
「昨日、お母さん――美紀さんと、お父さんと三人で、ちゃんと話ができました。修復してもらった写真を見せたら、みんなで泣いちゃって……。でも、本当に良かったです。私、やっと新しい一歩を踏み出せた気がします。全部、先輩のおかげです!」
瞬はペンを持った手を止め、ブルーライトカット眼鏡のブリッジを押し上げた。他者からの真っ直ぐな感謝の言葉は、彼にとって慣れない、どこか気恥ずかしいものだった。前髪の隙間からあかりの輝くような笑顔を一瞬だけ見つめ、すぐにモニターへと視線を戻す。
「……僕は、写真に写っていた物理的な事実を直しただけだ。家族のことは、君たち自身が解決したことだ」
「ふふ、相変わらず無口で不器用ですね。でも、そういうところも、お母さんが遺してくれた『写真の温もり』にそっくりです。私、決めました。この写真修復同好会の『窓口・広報役』として、これから先輩を全力でサポートします!」
あかりが胸を張る。その無邪気な宣言は、瞬の閉ざされた心に小さな灯火を灯すようだった。誰かが自分の暗室に居続けること。それを、今の瞬はそれほど不快には思っていなかった。しかし、二人がその温かい余韻に浸っていられたのは、そこまでだった。
――バタン!
静寂を乱暴に引き裂く音が響き、暗室の重い木製ドアが勢いよく開け放たれた。廊下の冷たい蛍光灯の白い光が、赤い闇を切り裂くように射し込む。光の眩しさに瞬が目を細めた瞬間、冷徹な足音が土足のままコンクリートの床を踏み鳴らして侵入してきた。
「あら、まだこんな埃っぽい部屋に引きこもっていたのね」
凛とした、しかし棘のある声。そこに立っていたのは、きっちりと結ばれたポニーテールが印象的な少女だった。胸元にはストップウォッチが揺れ、鋭い知性を感じさせる切れ上がった瞳が、侮蔑を込めて暗室を見下ろしている。放送部部長、新谷杏奈だった。
杏奈は手に持った金属製のメジャーを『シャー』と引き出し、おもむろに暗室の壁に当てて寸法を測り始めた。カチャカチャという無機質な金属音が、瞬の神経を逆撫でする。
「何をするんですか、新谷先輩!」
あかりが瞬の前に立ちはだかるようにして、声を荒らげた。だが、杏奈はメジャーを巻き取る鋭い音を響かせ、あかりを一瞥するだけで冷たくあしらった。
「何って、採寸よ。来期からこのスペースは、放送部の第二アナウンスブースになることが決まっているの。全国大会用の機材を搬入する前に、壁の防音工事の設計を立てなきゃいけないからね」
「ここは写真部の暗室です! まだ解体なんて決まってないはずです!」
「決まったのよ、正式にね」
杏奈は不敵な笑みを浮かべ、制服のポケットから一枚の紙を取り出して提示した。そこには、生徒会会計の黒川拓海の署名と、学校評議会が発行した『スペース転用内諾書』の青いスタンプが鮮明に押されていた。
「大河内教頭からの直接の許可よ。実績のない幽霊同好会が、この貴重な学校の公共資産を私物化するのは、学校全体にとって大きな不利益なの。私たちは全国大会出場という『目に見える結果』を出している。あなたたちのような、ただ過去の傷を舐め合っているだけの引きこもりグループとは、存在価値の桁が違うのよ」
実績こそが正義。
杏奈の言葉は、進学実績と成果主義ばかりを重視する北陵高校の冷酷な縮図そのものだった。あかりは唇をきつく噛み締め、内諾書を握りしめる杏奈の手に視線を向けたが、非公認団体である同好会には、学校の決定に法的に抗う術などなかった。
「同好会の居場所の権利を主張したところで、規則の前には無意味よ。大人しく荷物をまとめて立ち退きなさい」
杏奈の冷酷な宣告が、暗室の空気を凍らせていく。
瞬はデスクの前で、ただ沈黙を守っていた。だが、液晶ペンタブレットのペンを握る彼の右手は、怒りと焦燥でわずかに震えていた。この暗室を奪われれば、自分は再びあの息の詰まる新校舎のカーストの渦へと放り出される。誰の視線も届かない、この赤い闇のシェルターだけが、彼が息を吸うことを許された唯一の場所だった。それを、大人の理不尽なルールと『実績』という暴力で奪われることが、どうしても許せなかった。
瞬の震える右手を見つめたあかりは、胸の奥で、かつて自分が孤立していた時に瞬が救ってくれた瞬間を思い出した。
――今度は、私が宮本先輩の居場所を守る番だ。
あかりは深く息を吸い込み、杏奈の目を真っ直ぐに見据えた。その瞳には、かつての不登校の少女とは思えない、毅然とした強い光が宿っていた。
「新谷先輩。放送部が今、全国大会のドキュメンタリー部門の制作で、致命的な問題にぶつかっているのを知っています」
杏奈の眉が、ピクリと動いた。メジャーを弄んでいた指先が止まる。
「……何の話かしら」
「新聞部の鈴木くんから聞きました。放送部が旧校舎の倉庫の奥で見つけた、昭和期の古い『八ミリ映画フィルム』。あの映像と音声を番組のメインに使う予定なのに、ノイズが酷すぎて、専門の業者からも『修復不可能』だと匙を投げられたそうですね。あの古いフィルムの音源がなければ、あなたたちのドキュメンタリーは全国大会で勝てないはずです」
杏奈の表情から、余裕の笑みが消え失せた。彼女のポニーテールが、緊張で微かに揺れる。
「それがどうしたっていうの。あなたたちのような素人に、あれがどうにかできるとでも?」
「できます」あかりは一歩も引かずに言い放った。「宮本先輩の技術なら、その八ミリフィルムの映像も、潰れた音声も、完璧に修復してみせます。だから、取引をしましょう」
取引。
その言葉に、暗室の空気が張り詰めた。瞬は驚いてあかりの背中を見つめた。八ミリフィルムの修復。それは、これまで彼が手がけてきた静止画の写真レタッチとは、次元の異なる領域だった。動く映像の膨大なフレーム数、そして光化学的な音声トラックのノイズ除去。それは、あまりにも無謀な約束だった。
「もし、私たちがそのフィルムを完璧に修復できたら、この暗室の明け渡しを三ヶ月間待ってください。教頭先生が同好会に与えた、あの『執行猶予期間』と同じだけの時間を、私たちに保証してほしいんです」
杏奈は冷たい瞳で、あかりと、その奥に座る瞬を交互に見つめた。彼女の頭の中で、全国大会での勝利という『実績の誘惑』と、目の前の弱小同好会への『嫌悪感』が天秤にかけられているのが分かった。
「……面白いじゃない」
やがて、杏奈の口元に、冷酷だが挑戦的な笑みが戻ってきた。
「いいわ。その無謀な賭け、乗ってあげる。ただし、期限は一週間よ。もしそれまでに、あのフィルムのノイズを完全に除去して、私たちが納得するクオリティで再生してみせなかったら――」
杏奈はメジャーをポケットに押し込み、暗室のドアノブを掴んだ。
「その時は、三ヶ月を待たずに、今すぐこの部屋から出て行ってもらうから。覚悟しておきなさい」
バタン、と再びドアが閉まり、暗室は再び赤い闇に包まれた。だが、そこには先ほどまでの温かい空気はもう残っていなかった。残されたのは、一週間という過酷なデッドラインと、未知の領域である『動く映像と音声の修復』という、途方もない重圧だけだった。
瞬は液晶ペンタブレットの画面を見つめたまま、ぽつりと呟いた。
「……八ミリフィルムなんて、やったことがない」
あかりは瞬に向き直り、彼の震える右手を両手でそっと包み込んだ。その手の温もりが、瞬の頑なな緊張を少しだけ和らげる。
「大丈夫です、宮本先輩。先輩の技術なら、絶対にできます。私が、全力で先輩を支えますから」
あかりの言葉に、瞬は静かに眼鏡の位置を直した。逃げ場所を守るための、新しい、そして最も過酷な戦いが、この赤い暗室のなかで、静かに幕を開けようとしていた。
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